脳辺雑記帖 (Nohhen-zahts)

脳病を患って苦節10余年、Rondo-Nth の生活&世相その他つれづれ雑記です。どうか気楽・気長にご覧下さい。

お寺と僧侶。

2017年03月20日 20時41分45秒 | 雑談
昨秋に父を亡くして、初めてのお彼岸である。墓に詣でて花を添え焼香
をした。菩提寺では、毎度彼岸に合同法要が営まれる。以前には亡父が
足を運んでいた席に、檀家の主として初めて参加した。

日曜の午前、お寺の本堂に80人程が集っていた。初参加なので勝手が不
明であったが、どうもお布施を箱に入れ、位牌や過去帳を読経台の方に
差し出すようである。ご住職の読経と講話が45分程、位牌を受け取り記
念品の冊子と手ぬぐいを貰い、小1時間して散会であった。

参席者は、男女の差なく60代後半以上がほとんどのようだった。私と同
年代風なヒトはあまり見かけない。40・50代では檀家でも先祖供養
に熱心なヒトは少ないのだろう。今季4日間開催されるが、一日一時間
の実労が4回で、2~300万は入るのだろうから、お寺もよい稼ぎである。

その昔お寺というのは、檀家というネットワークを形成する、古い時代
のソーシャル・メディアだったとも言える。床屋や銭湯も、場のコミュ
ニケーション・メディアだった。これらは全て、メディア性は廃れた。

また寺社や住職は、地域社会では幾ばくかの権威や発言力もあったが、
今では僧侶はいち職業に過ぎない。檀家についても、特に宗派の信仰が
強制される訳でもなく、お寺に墓を持つ個々人が、各々寺と契約的に繋
がっているだけであり、檀家とは集金(集会)システムの一単位に過ぎな
い。

今日お寺は宗教主体というよりは、寺門経営としての営利活動体であり、
特殊な自営業のようなものである。かつて地域社会において、発言権の
ある存在は、行政長・警察(消防)署長・学校長等であり、さらに顔役と
しては町内会長、地域名士、会社経営者等に次いで、寺社の僧侶でもあ
ったのは、地域に多くの檀家を統率していたからだろうか。

僧侶は寺門経営者として、資本主義に飲み込まれることで、伝統的な権
威を喪失したとも言える。宗教やお寺、僧侶や神主、教祖だの、世の中
には当たり前にあるが、考えてみれば奇妙な存在である。小難しい教義
を除けば、AKB48とかのアイドル商売とも一脈通じる存在感がある。
寺も僧侶も、女性アイドルも、まさに偶像(アイドル)なのである。

百万人の家来がAを王様だと認めているから、Aとは王様なのである。
おカネ、貨幣というものも同じ代物で、偶像化された共有物なのである
が、このような「観念による共有体」(ヒトの役に立つ製品等ではなく)
を、いかに創りいかに集金マシーンとし得るかに、ビジネスの基本があ
るかのような虚業の時代である。

優れた虚像の発明と普及こそ「必要の母」となるのだ。携帯電話やスマ
ホ等もその事例である。母が子を生むのではなく、逆に圧倒的多数の子
たちが、「母」(アイドル)を成立させているのが、現代である。


(と考えて‥‥、何を書いているのか、分からなくなった!)


私の亡父は、私たち家族縁者の心に、仏としてある限り尊いのである。
全ての遺族縁者も死に絶えたら、ただの空(くう)である。それもまた、
誰が認めなくとも尊いのである。

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