脳辺雑記帖 (Nohhen-zahts)

脳病と心筋梗塞を患っての独り暮し、Rondo-Nth の生活・世相雑記。気まぐれ更新ですが、気長にお付合い下さい。

「子供の貧困」。

2016年09月04日 19時20分30秒 | 社会時評
ここ数年で気になる言葉に「子供の貧困」というのがある。子供が貧困
って、親が低収入な家庭という「貧困家庭」の問題ではないか。それが
従来の発想と捉え方だったが、親とは切り離して「子供の貧困」を家庭
問題ではなく、新たな社会層の問題として提起しようということにも思
える。

貧困家庭という家庭単位の問題設定ではなく、貧困家庭から子供を切り
離して「子供の貧困」「貧困の子供」という社会階層を括りだし、問題
提起と社会的解決や支援を推進しようという印象である。私は、それは
それで良いとは思うのだが、少しの疑問も感じている。

親を病気や交通事故で失ったとか、離婚して片親家庭だとかで「貧困」
にあるという子供たちがいる。どのくらい貧乏なのかは、個別差があろ
うが、今では衣食住に事欠く貧困が問題なのではなく、大学に進学出来
ない程度に「貧困」であることが問題かのようである。

(ならば例えば、ピアノを習って音楽方面に進みたいのに、ピアノを買
うカネも、ピアノを弾く居住環境もない「貧困」も「貧困」なのか?)

私自身、両親はいたが給食費補助を貰っていたような、貧困家庭の育ち
である。大学も、私立大学を奨学金とアルバイトで賄い卒業した口であ
る。当時、大学進学を手助けしてくれる社会支援制度があれば、利用し
ただろうと思うが、進学資金に不足なら、夜間学部でも社会人入学でも
考えるつもりだった。

しかし、自分の家庭が貧乏なので、社会に向かって大学進学を助けて下
さいというのは、私には、どうも‥、気が引けるというか、甘ったれる
なという気がしてしまう。それなら大学は諦めるのが、順当な筋だと思
う。2年制程度の専門学校にバイト掛け持ちで進学するとか、普通そう
なるだろう。

昔からカネのない家庭の子供は、大学へは行かない(就職する)というの
が、世間では当たり前の進路だった。昭和50年頃、私の中学時代には、
クラスに数名は中卒で就職する男女がいた。高校進学さえ家庭が負担し
えない程貧困だったのだろう。このように、子供の人生は家庭の不仕合
わせとセットだったし、異議や不満を向ける先もなかった。

「子供の貧困」の責任を家庭(親)に帰することから、社会がそれを一部
でも担うことを期待して、当たり前の時代に入りつつあるのだろうか。
家が貧乏なんで大学には行けないという、かつての高校生は大勢いたの
である。その当たりの世代の大人たちに、大学進学出来ない「子供の貧
困」が、どれだけ理解されるかが、当面この社会運動の試金石である。

でも‥、最後に書いておきたいが、大学って、私は期待する程大した場
所でもなかったし高い教育効果が得られたとも、思わない。大卒の肩書
も実社会でいくらか価値はあろうが、もし学問をしたいのなら、自分で
扉を叩いて開き、時間を掛けてひとり歩むのもいいと思う。


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