菜花亭日乗

菜花亭笑山の暇つぶし的日常のつれづれ。
散歩する道筋は、日本酒、俳句、本、音楽、沖縄、泡盛、カメラに...etc

2016/12/25  最年少プロ棋士 藤井聡太くんの快挙  その2

2016-12-25 21:30:32 | (17)気になる人


今年9月に、最年少プロ棋士の記録を72年振りに書き換えた天才少年については下記の記事で取り上げた。

2016/09/05 最年少プロ棋士誕生! 藤井聡太くんの快挙。」
http://blog.goo.ne.jp/nabanatei/e/eb971fd8775d878418fbbd73681ac76d


その藤井くんがプロのデビュー戦を白星で飾った。
運命のいたずらというのは、このようなことを言うのだろう。対戦相手は、それまでの最年少記録を70年以上破られなかった加藤一二三九段だ。

この対戦はクジで決まったそうだから、作為は働いていない。
神様か運命のなせる技だ。

まだ、因縁がある。
藤井くんはプロ棋士最年少の14歳、加藤九段は最年長の76歳。

対戦内容は、素人の筆者には判らないが、熱戦だったそうで、加藤九段の猛攻をしのいで、藤井四段が逆転勝ちしたとのことだ。

加藤九段は、記録を破られた雪辱を果たし、プロの洗礼を与える予定だったのだろうが、返り討ちにあってしまった。

しかし、加藤九段は立派だ。
最年少の棋士、自分から見れば孫のレベルだが、大局観のある素晴らしい才能の持ち主だと高く評価した。

後味の爽やかな対局だった。

60
年後、齢74歳の藤井プロが、自分の最年少記録を破った少年棋士に黒星を付けられるというような事が絶対起きないという保証はない。

因果はめぐる。
時代は変わる。

Bob Dylan
の歌に「The Times They Are A-Changin’」が在ったのを思い出した。

Bob Dylan The Times They Are A Changin' 1964

https://youtu.be/e7qQ6_RV4VQ


<歌詞>

The Times They Are A-Changin' Lyrics
Come gather 'round people
Wherever you roam
And admit that the waters
Around you have grown
And accept it that soon
You'll be drenched to the bone.
If your time to you
Is worth savin'
Then you better start swimmin'
Or you'll sink like a stone
For the times they are a-changin'.

Come writers and critics
Who prophesize with your pen
And keep your eyes wide
The chance won't come again
And don't speak too soon
For the wheel's still in spin
And there's no tellin' who
That it's namin'.
For the loser now
Will be later to win
For the times they are a-changin'.

Come senators, congressmen
Please heed the call
Don't stand in the doorway
Don't block up the hall
For he that gets hurt
Will be he who has stalled
There's a battle outside
And it is ragin'.
It'll soon shake your windows
And rattle your walls
For the times they are a-changin'.

Come mothers and fathers
Throughout the land
And don't criticize
What you can't understand
Your sons and your daughters
Are beyond your command
Your old road is
Rapidly agin'.
Please get out of the new one
If you can't lend your hand
For the times they are a-changin'.

The line it is drawn
The curse it is cast
The slow one now
Will later be fast
As the present now
Will later be past
The order is
Rapidly fadin'.
And the first one now
Will later be last
For the times they are a-changin'.


和訳は、下記サイトで見ることができる。
TAP the POP
http://www.tapthepop.net/news/35377



『<将棋>14歳5カ月が白星デビュー 76歳・加藤九段降す
毎日新聞12/24() 20:55配信

clip_image001
加藤一二三九段(右)に勝って、感想戦で対局を振り返る藤井聡太四段=東京都渋谷区の東京将棋会館で2016年12月24日午後9時6分、宮間俊樹撮影

14歳2カ月で将棋界の史上最年少棋士となった藤井聡太(そうた)四段(14)は24日、東京都渋谷区の将棋会館で指された加藤一二三(ひふみ)九段(76)との第30期竜王戦6組ランキング戦で公式戦初対局を迎え、110手で初勝利を飾った。14歳5カ月での初勝利は将棋界最年少記録となった。

【写真特集】加藤一二三九段vs藤井聡太四段

藤井四段に破られるまで史上最年少棋士と最年少初勝利の記録を持ち、現役では最年長の加藤九段との対局は年齢差が62歳6カ月で、史上最大年齢差。記録ずくめの対局となった。

対局は午前10時に開始され、先手番になった加藤九段は長年愛用する矢倉戦に誘導し、藤井四段も受けて立った。中盤で加藤九段が猛攻を開始し、藤井四段が受ける展開になったが、夕食休憩の前から藤井四段が巧みに反撃し、勝利した。

両者とも盤上に頭を出して体を揺すりながら向き合う対局姿勢で、年齢差を感じさせない勝負だった。

◇加藤九段「素晴らしい才能の持ち主」

対局後、藤井四段は「デビュー戦で加藤先生に教えていただけるのは光栄。竜王や名人をいずれは取りたいが、実力が足りないのでもっともっと強くなりたい」と報道陣に語った。加藤九段は「中盤、藤井四段が受けに回った手が私には指せない手で、大局観が素晴らしい。寄せも速かった。うまく負かされました。素晴らしい才能の持ち主だと思う」とたたえた。途中、加藤九段が「ここで読み切ってたの?」と藤井四段に問いかけると、藤井四段が慌てて首を振る光景も見られた。【山村英樹】』




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2016/09/05  最年少プロ棋士誕生! 藤井聡太くんの快挙。

2016-09-05 23:15:00 | (17)気になる人


凄い少年が現れた。

昭和29年に加藤一二三九段が作った従来の最年少記録14歳7カ月を5ヶ月更新する新記録を樹立した。
将棋
界の今を代表する羽生善治三冠ですら出来なかったことだ。

幼児からの英才教育の重要性を証明しているが、偏った才能教育ではなく、エリートの集まる附属中学在籍からするとバランスの良い教育を受けているのだろう。

記事ではインタビューで緊張していたとなっているが、ニュースで語るシーンを見た限りでは考えを纏め落ち着いて話していた。
とても中学2年の物腰ではない。小さい頃から大人の世界に入り、大人の世界の経験もしてきたからだろう。

新しい時代のプロ棋士として、大成を期待したい。
今までにない新手を創造し、人工知能にも負けない棋士になってもらいたい。



『最年少プロ棋士誕生!14歳2カ月・藤井聡太 加藤一二三を5カ月更新
スポニチアネックス 94()71分配信

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王将の大駒を手にポーズを決める藤井聡太三段

将棋界に史上最年少プロが誕生した。中学2年の藤井聡太三段(14)が3日、東京都の将棋会館で行われた第59回奨励会三段リーグ戦最終局に勝ち、通算成績13勝5敗の1位で四段昇格が決定。昇段する10月1日付、14歳2カ月でプロとなり、加藤一二三・九段(76)が1954年(昭29)に樹立した14歳7カ月を更新する新記録となった。

偉業を達成した14歳は、局後の記者会見では緊張していた。「素直にうれしいです」と蚊の鳴くような第一声は、カメラのシャッター音にかき消された。最終局で勝った瞬間は「あんまりよく…」と言いよどんで20秒ほど長考。司会者から促されてようやく「だんだん実感が湧いてきました」と言葉を続けた。

昨年10月、13歳2カ月で、これも史上最年少で三段に昇格。全国から天才少年少女がプロを目指して激烈な戦いを繰り広げる三段リーグ戦にありながら、そのあどけない表情とは対照的なまでの力を見せつけた。初日の4月23日は1勝1敗のスタートだったが、並み居る年上のライバルを相手に、その後は順調に白星を重ね、終わってみれば13勝5敗。3日は第1局に敗れ、一度は瀬戸際に立たされたが、最終局を危なげなく制したあたりに勝負師の片りんがにじんだ。

これで加藤をはじめ谷川浩司九段(54)、羽生善治三冠(45)、渡辺明竜王(32)に続く史上5人目の中学生プロという肩書が付いた。そうそうたる大先輩の記録をあっという間に過去のものにした藤井は「皆さん偉大な人ばかり。自分もそこに並べるようにしたい」と、小声ながらもきっぱり言い切った。生まれたのが2002年のサッカーW杯日韓大会後という「21世紀少年」。将棋の世界に新たな風が吹いた。

◆藤井 聡太(ふじい・そうた)2002年(平14)7月19日、愛知県瀬戸市生まれ。5歳で祖母から将棋を教わる。主に詰め将棋で実力を磨き、15、16年は詰将棋解答選手権で2年連続優勝。奨励会には12年9月に入会し、三段リーグは今期が初挑戦。同リーグを1期で抜けたのは史上8人目。趣味については「今は将棋だけ。以前はパズルも好きでした」と話す。得意戦法は角換わり。師匠は杉本昌隆七段。名古屋大教育学部付属中2年。

▼加藤一二三・九段 将棋界全体にとって明るいニュース。評判は耳にしていた。最年長の私が、最年少の藤井さんと対局できると考えるとワクワクする。

▼羽生善治三冠 三段リーグからの四段昇段は、史上最年少記録の価値をより高める快挙だと思います。これから棋士として注目を集めることになると思いますが、それを乗り越えて歴史に名を残すような棋士になることを期待しています。

▼渡辺明竜王 以前から詰め将棋の早さなどで話題になっていましたが、リーグを1期で抜けたのには驚きました。

▼日本将棋連盟会長・谷川浩司九段 厳しい三段リーグを1期で、最年少記録を作ったのは素晴らしい。棋士個人としては名人の最年少記録(自身の21歳)が破られるかも注目している。

◇奨励会 日本将棋連盟のプロ棋士養成機関。男女の区別はなく、6級から三段のクラスに分かれる。三段に昇段すると年2回のリーグ戦を争い、原則として上位2人がプロになる。1987年に現行の三段リーグに。それ以前は13勝4敗など規定の成績を収めればプロとなった時期もあった。年齢制限があり、満26歳までにプロにならなければ基本的に退会となる。』
(
スポニチアネックス
)



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2015/01/30  気になる人  尼僧 戸澤宗充

2015-01-30 23:30:00 | (17)気になる人


忌まわしい現実の存在は、気持ちを暗くさせる。
だが、現実は沢山の顔を持っている。
忌まわしい顔ばかりではなく笑顔もある。
忌まわしい現実ばかりではない、明るい現実もある。

先日、TVで尼僧 戸澤宗充を取り上げていた。
知る人ぞ知る有名な人だそうだが、筆者はこれまで知らなかった。

戸澤尼は、伊豆で女性のための駆け込み寺「サンガ天城」を運営されている。
「サンガ天城」とはどんなところかというと、
HPには次のように書かれている。



サンガとは「善き友」の集う場所

道を求める人の集う場所

「サンガ天城」は温泉の湧く憩いの場所

自然と一体となって疲れた心身に

元気薬をもらう場所


サンガ天城は、主に家庭内暴力で居場所を失った女性たちを受け入れ、心と身体の癒やしを行っている。
それ以外にも様々な悩みを抱えた人、鬱や薬物中毒や性同一性障害などの人が入所しているそうだ。

戸澤尼が、今のように人々を救済することを第一に生きるようになったのには、つらい過去の思いがある。
終戦時満州で命からがら引き上げた体験、二人目の子どもを産んだ翌日夫が交通事故で帰らぬ人となった、女手ひとつで子どもを育てていかなければならなかった...

歩んできた道と仏教への帰依・サンガ天城設立について、本人が講演した内容が、縁のある角田山妙光寺HPに掲載されている。
「戸沢法尼」
http://www.myoukouji.or.jp/tae/bn_p/p_column0703_01.html


自分のために修業をする人が大多数の信徒だが、人のために私財をなげうち時間も労力も惜しむこと無く注ぎ込む戸澤尼は仏様の位の人だ。

TVカメラの中で、戸澤尼が語っていた。
“許すことよ”

許すのは、他人だけではなく、自分も許す、過去も許す...全て許すことが大切とのことだ。
許せないものに、縛られ、囚われているうちは新しい自分を生きていくことは出来ない。

この番組を見終わって、戸澤尼の活動する姿を見て、心が軽くなった。

明るい現実は、確かにある。


【データ】


戸澤宗充

「日蓮宗一華庵庵主、尼僧。昭和12年、東京都生まれ。三十三歳の時、モルモン教徒の夫を交通事故で亡くす。二児を抱え、生きることに失望していた時、仏縁に触れ、四十六歳で出家。説教師として仏の教えを説いてきた。平成15年、DVなどの問題で苦悶する女性たちの役に立ちたいとの思いから私財を投げ打ち、伊豆の天城に「サンガ天城」を開所。悩める女性たちの心を癒す「駆け込み寺」として、新聞、テレビなどでも紹介される。これまでに五百数十人の女性が訪れる。また、茶道の師範として多くの生徒を指導する」
『一人で、悩まないで! 現代の「駆け込み寺」奮闘記』より


サンガ天城
http://sanga.sub.jp/




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2014/01/20  追悼  吉野 弘

2014-01-20 21:36:36 | (17)気になる人

 

好きな詩人吉野弘氏が、15日に亡くなっていた。

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戦後、まだ現代詩がナイーブだった頃、やさしい言葉で人の心を詠んだ詩人だった。

最近は、教科書にも吉野弘の詩は掲載されているそうなので、知らない人は居ない詩人だ。

シュールな表現で、観念的な言葉を組み合わせた現代詩は、一種ゲームのようなもので心に感じるものは伝えない。

優しい言葉で、日常の中にある真実を伝えてくれた時代の詩人たちは亡くなってしまった。

石垣りんも茨木のり子も今は吉野弘も。


『詩人の吉野弘さん死去 「祝婚歌」など
朝日新聞デジタル 120()126分配信

分かりやすい言葉を使って人間の温かみを描いた叙情詩で知られる詩人の吉野弘(よしの・ひろし)さんが15日、肺炎のため静岡県富士市の自宅で死去した。87歳だった。葬儀は近親者で行われた。後日、本葬を開く予定。

山形県酒田市出身。散文詩「I was born」で注目を集め、1953年、同人詩誌「櫂(かい)」に参加。71年の詩集「感傷旅行」で読売文学賞、90年に詩集「自然渋滞」で詩歌文学館賞を受ける。94年に「吉野弘全詩集」を刊行した。

電車の中で若い女性がお年寄りに席を譲る際の微妙な感情の動きを女性を包み込むような筆致でつづった「夕焼け」など、日常生活の中にひそんだ感情の機微を描いた詩で知られる。「二人が睦(むつ)まじくいるためには/愚かでいるほうがいい/立派すぎないほうがいい」で始まる「祝婚歌」は結婚式のスピーチでよく読まれてきた。

石油会社に勤め、労働組合運動に従事した経験もあった。国語の教科書に掲載された作品も多い。

朝日新聞社
最終更新:120()1921
』(朝日新聞デジタル)


吉野弘の詩には優れたものが多い。
心に響くものが多い。

このブログでも「I was born」は以下の記事で取り上げた。

2010/09/20 蜉蝣の生命」
http://blog.goo.ne.jp/nabanatei/e/6d9299322fe7acc959573305a5b13a3d


この記事では、心に響く2つを掲載させていただく。

夕焼け

       
いつものことだが
       
電車は満員だった。
       
そして
       
いつものことだが
       
若者と娘が腰をおろし
       
としよりが立っていた。
       
うつむいていた娘が立って
       
としよりに席をゆずった。
       
そそくさととしよりが坐った。
       
礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。
       
娘は坐った。
       
別のとしよりが娘の前に
       
横あいから押されてきた。
       
娘はうつむいた。
       
しかし
       
又立って
       
席を
       
そのとしよりにゆずった。
       
としよりは次の駅で礼を言って降りた。
       
娘は坐った。
       
二度あることは と言う通り
       
別のとしよりが娘の前に
       
押し出された。
       
可哀想に
       
娘はうつむいて
       
そして今度は席を立たなかった。
       
次の駅も
       
次の駅も
       
下唇をキュッと噛んで
       
身体をこわばらせて-----
       
僕は電車を降りた。
       
固くなってうつむいて
       
娘はどこまで行ったろう。
       
やさしい心の持主は
       
いつでもどこでも
       
われにもあらず受難者となる。
       
何故って
       
やさしい心の持主は
       
他人のつらさを自分のつらさのように
       
感じるから。
       
やさしい心に責められながら
       
娘はどこまでゆけるだろう。
       
下唇を噛んで
       
つらい気持で
       
美しい夕焼けも見ないで。



「祝婚歌

       
二人が睦まじくいるためには
       
愚かでいるほうがいい
       
立派すぎないほうがいい
       
立派すぎることは
       
長持ちしないことだと気付いているほうがいい
       
完璧をめざさないほうがいい
       
完璧なんて不自然なことだと
       
うそぶいているほうがいい
       
二人のうちどちらかが
       
ふざけているほうがいい
       
ずっこけているほうがいい
       
互いに非難することがあっても
       
非難できる資格が自分にあったかどうか
       
あとで
       
疑わしくなるほうがいい
       
正しいことを言うときは
       
少しひかえめにするほうがいい
       
正しいことを言うときは
       
相手を傷つけやすいものだと
       
気付いているほうがいい
       
立派でありたいとか
       
正しくありたいとかいう
       
無理な緊張には
       
色目を使わず
       
ゆったり ゆたかに
       
光を浴びているほうがいい
       
健康で 風に吹かれながら
        
生きていることのなつかしさに
       
ふと 胸が熱くなる
       
そんな日があってもいい
       
そして
       
なぜ胸が熱くなるのか
       
黙っていても
       
二人にはわかるのであってほしい



【データ】

吉野弘(Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E9%87%8E%E5%BC%98





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2014/01/08  【訃報】やしきたかじん

2014-01-08 23:09:04 | (17)気になる人

今日驚かされたニュースだ。
病気療養中だったやしきたかじん氏が、3日に亡くなっていたとの報道があった。

手術後復帰を果たし、休養はしているものの復帰は時間の問題と思っていただけに驚いた。

「たかじんのそこまで言って委員会」は、今最も面白いTV番組の一つだ。
このところ、存続が危ぶまれるようなことが連続している。
まずは三宅が死亡、勝谷が降板、辛抱が謹慎中となり、年が明けて委員長自らが天国に行ってしまった。

ニュース番組が、平板でつまらない中、「たかじんのそこまで言って委員会」は、タブーを恐れずに切り込むので内容の正否はともかく、視野が広くなることは確かだ。

柱が何本も折れてしまって大変だが、この番組は存続してほしい。


youtube
でたかじんを偲んでみよう。

「たかじん @ やっぱ好きやねん」

http://youtu.be/WkDCQMynIOU

懐かしい人達の顔が見える。


「やしきたかじん ラブ・イズ・オーヴァー」

http://youtu.be/NrBNMK8qb4c


「宮根さんら別れ惜しむ やしきたかじんさん死去」

http://youtu.be/2jGx8Rjl1Ks

橋本大阪市長の涙の中に、男の気持ちが見える。


冥福を祈りたい。


【データ】
やしきたかじん(Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%84%E3%81%97%E3%81%8D%E3%81%9F%E3%81%8B%E3%81%98%E3%82%93




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2011/11/04 和紙作家・堀木エリ子

2011-11-04 23:25:11 | (17)気になる人


文化の日のTV asahi「モーニングバード」で、和紙作家・堀木エリ子を取り上げていた。
 
 11月03日(木)  TV asahi放送 08:00~ 
  「モーニングバードのAウーマン」



(ERIKO HORIKI より転載)


和紙というと書・絵などに使われる平たい紙のイメージしか持っていない。
 しかし、それは伝統的な和紙の世界であって、堀木氏は和紙の世界に独創的な立体の和紙の世界を創りだした。


機械で漉かれる和紙ではなく、手漉きによる芸術品のような和紙の世界を造出し、建築関係に和紙の利用分野を広げている。
 伝統の世界に革新を持ち込む斬新な世界は、海外からも注目されている。


立体的な和紙の世界も興味深かったが、人間堀木エリ子氏も面白かった。
 普通の銀行員でしかなかった堀木氏が何故和紙の世界に入ったのか。立体的な和紙を考えたのは何故なのか。がんの病を宣告されたが乗り越えられたのはどうしてか。
 それは、偶然のようでもあるが、必然のようでもある。


『...
和紙で独創的な作品を生み出す和紙作家の堀木さんは、独自に開発した技術で特許も2つ取得しているのです。1500年続く伝統の「手漉(す)き和紙」に新たな技術や素材を取り入れた堀木さんの作品は、世界でも高い評価を得ています。


赤江がお邪魔したのは、京都にある堀木さんのショールーム。和紙のイメージを根底から打ち砕くような斬新な作品の数々に、赤江はただただ圧倒されるばかりです。独自に開発した技術による巨大和紙を用いることで、建築空間に取り入れることも可能に。堀木さんの工房では最大で「横16m×縦6m」のサイズまで1枚で漉くことができます。また二次加工によって「破れる」「燃える」「汚れる」といった難点も克服しました。究極の作品は、なんと「立体和紙の自動車」です。ボディもハンドルもシートも全て和紙なのに、人を乗せて時速125kmで走ることもできるといいます。


銀行員から和紙の商品開発会社の経理へと転職した堀木さんは、福井の手漉き和紙工房で見た職人さんの姿に衝撃を受けました。転職先が閉鎖なり「このままでは伝統産業が失われてしまう」「何とか職人さんの姿を次の世代につなぎたい」との使命感からこの道に入ったといいます。以来25年、伝統の世界に一人で挑み、常識を打ち破る技術を次々に編み出していきましたが、当初は受け入れられなかったそうです。


壁にぶつかった時、堀木さんはいつも「原点」に戻って考えます。職人さんが大事にしている「伝統」だって、最初は「革新」だったんだと考え、「大切なのは、自分が開発した革新的な技術が人の役に立ち未来の伝統になっていくこと」と信じる道を進んで行ったのです。その情熱はやがて職人さんの心を動かしていきました。そして世界的な評価も獲得していったのです。和紙で作った車は国際博覧会に出展され、感嘆の声に包まれたそうです。


独立して自分の会社も設立し、順風満帆に思えた39歳のとき、堀木さんの身体に悪性のガンが発見されました。死に直面して遺言状を書いた堀木さん。書くことでやらなければならないことが明確になり、逆にパッションが沸いてきたというのです。退院後、3年で遺言状に書いた「これからやるべきこと」も全て実現しました。今では「現在の自分を見直すためのもの」として、「安心して生きるために」2~3年ごとに遺言状を書き直しているといいます。


赤江は今回、「秋」をテーマに、和紙を使った光柱(ひかりはしら)作りに挑戦しました。漉いた和紙に水滴で穴を開けたり、楮(こうぞ)の茎や色のついた糸を置いてデザインしていきます。1時間かけてデザイン入れを完成した和紙は、「すごく大胆で、自由なところがいい」と堀木さんから評価されました。


堀木さんのAウーマンの提言は「出来る前提で物事を進める」です。伝統の世界に単身飛び込み革新の技を確立した、前向きで情熱的な堀木さんならではのコトバです。』(TV asahi モーニングバード)


銀行員という畑違いの仕事から、和紙の世界に飛び込んで20年を生きてきて、仕事・健康の課題を克服してきた堀木氏。
 問題・課題が与えられた時、人の取りやすい態度は、できないと言い訳することだ。堀木氏は、そうは考えない。
 上に書かれているように、「出来る前提で物事を進める」とういう態度で生きてきたと話していた。


もう一つ、記憶に残った言葉がある。
「天職というのは決心すること」。
自分に向いた仕事が無い、自分に合わないという若者が増えている今、立ち止まって考えてみる重い言葉だ。


 
(おのぞみドットコム より転載)


最初から、自分の転職が与えられている人は、幸せだ。
だが、殆どの人は天職が見つからない。
 それは、運だと人は言うが、堀木氏はそうではない。決心だと言っている。


未来は、霧の中だ。
20年先を見通せる人は誰もいない。
自分の進むべき自分の道は、どちらに進むか決めるのは、自分の決心しか無い。



【データ】
堀木エリ子&アソシエイツ
住所: 京都市右京区太秦森ヶ前町18
TEL: 075-863-6330
FAX: 075-863-6331
URL: 
http://www.eriko-horiki.com/



 

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2011/04/30 気になる人 永井荷風

2011-04-30 20:03:03 | (17)気になる人


今日4月30日の忌日にあたって、供養のために感謝の気持ちを込めて記事を書いてみたい。



永井荷風は、気になる人である。


永井荷風は、遠くて近い人。
だが、近くて遠い人でもある。


文字の創る世界を虚とすれば、その世界は近い。
生活を実とすれば、その世界は遠い。


その虚実の中に、荷風は気になる人である。


 



(クラカスはつらいよ弐 より転載)


荷風の右手は、素直な手だ。
左手は、微妙だ。
肩に置けば普通だが、乳に置けばいやらしい。
左手は、微妙な荷風の位置に置いている。


荷風は実業家の父と漢学の血筋の母の血筋を引いている。
どちらの血筋も実の血筋で虚の血筋ではない。
 その荷風が人生の若い時期に虚実を取り違えた。


荷風は、自分が実の血筋に生まれた異端であることを自身よく承知していたに違いない。だからこそ、子もつくらなかったのだろう。


若くして父の資産を背景に、色町に遊び、小説を読み・書く高等遊民の生活を送った。
老いては、毎日浮華の街に脚を運び、街を眺めた、ストリップ小屋・ミュージックホールに通った。
 身を俗の世界に置きながら、浮薄な西洋のモノマネの日本を蔑視し、江戸情緒を重視した。生活は俗だが、心は高雅ですらあった。


断腸亭日乗は、荷風の日記である。
だが、身辺雑記を記したいわゆる日記ではない、虚実が複雑に入り組んだ世界でもある。
 荷風の書く「日本」は、荷風の眼にに曝されている。


明治・大正・昭和という激動期を生きた荷風の眼は「日本」を見つめている。
 荷風の最高傑作は「腕くらべ」でも「墨東綺譚」でもなく「断腸亭日乗」と言われる事は正しい。


明治以降の急速な西洋化・産業社会化の中で、江戸の持つ高尚な趣味や一般民衆の人情や遊びごころ・余裕を失ってしまった事が反省され始めている今、荷風の視線は正しかったことが理解できる。
 だから、断腸亭日乗は文明批評の大作とも言われる。


若い時に読む文学は、芥川であり、漱石であり、川端であり、太宰であるが、荷風は読まれない。
 荷風の虚の世界が理解できるようになるためには、長い人生の生活経験が必要だ。
 高校生が読むべきなのは荷風ではないはずだ、もっと実に近い本を読むべきだろう。
 荷風が好きな高校生の将来は単なる遊蕩児か天才だ、その差・リスクは大きい。
 おとなになって読めば、理解もでき、間違わないはずだ。


荷風という人は、生活そのものが、作品であった。
毎日、朝起きて流れる時間に身を任せて、無自覚に生きてるのではなかった。
 生活そのものを自分の美意識に忠実に合わせて生きた一つの文学作品であったと言える。


荷風の作品は、文字で書かれた文学作品だけではない。荷風の生きた生活・時の流れ・人生・姿それらの全体が文学作品なのだ。
 虚と実が複雑に入り組み・転変している世界。
小説も人生も文化勲章もストリップ小屋もゴシップも大金の入ったバッグを置いて孤独死した最後も、すべてすべてが荷風の文学作品と言える。
 虚実の彼方に荷風の世界はある。


荷風ななぜ左手を其処に置いた写真を撮らせ残したのだろう。
荷風はなぜお世話になった人の夜の営みを覗き見したのだろう。
それは、理解が出来ないことだ。


やはり、永井荷風は、遠くて近い人。
だが、近くて遠い人でもある。


そして、気になる人である。



 

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2011/01/20 気になる人 玄侑宗久 (その1)

2011-01-20 23:23:11 | (17)気になる人


NHK番組プレミアム8<人物>を見た。


「玄侑宗久 なりゆきを生きる」
.チャンネル:BShi
放送日: 2011年1月20日(木)
放送時間:午後8:00~午後9:30(90分)
番組HP:
http://www.nhk.or.jp/bs/premium8/
【講師】玄侑宗久,【語り】渡邊あゆみ


 




この番組は、2007年に放送された「NHK知るを楽しむ
人生の歩き方」 全4回を90分にまとめた番組である。
第一回/「やおよろず」への興味  放送日:11/7・11/14
第二回/飲みこむまでの苦さかな  放送日:11/14・11/21
第三回/此れあるとき彼あり    放送日:11/21・11/28
第四回/「あはひ」に立ち、「あはひ」を描く 放送日:11/28・12/5


番組の内容は、玄侑宗久の人を、少年時代から現在の曲折のある歩みを辿ると同時に、その歩みが文学作品と密接な関係があることを紹介する。
 お寺の長男として出生、少年時代の悩み、家出、大学進学、転職、文学への目覚め、出家、修行、芥川賞受賞...。
 芥川賞受賞後も作家として僧侶として縦横無尽・東奔西走の人生を歩む玄侑宗久師を紹介する。
 その作品に加えて、玄侑宗久師の悩み多き生き方、人そのものの姿が悩み・迷う人への導きの灯であることを示している。



福島県にある古刹の長男として生まれ、跡継ぎとして期待されていた玄侑宗久師。宗教への不信やお寺のあり方への悩みから、家出を繰り返した。


エピソード。
・小学校時代のあだ名は、「坊主」。
少年は、それならばと坊ちゃん刈りを止め、坊主頭にした。    みんなにうけた。
・寺のあり方への反発
  お布施を生活費にあてていいのか?
  檀家の不幸ごとによって寺は生活している。
  中学二年の時に福聚寺に来た臨済宗妙心寺派管長    山田無文老師に質問した。
「いただいたお布施を自分たちの生活費に使う
    のは、おかしくないですか。」
無文老師 「入ってくるものはな 仕方がないんだ。」
 論理的な説明ではなかったが、何か納得できるものがあった。


慶応大学文学部入学のために上京。同人誌に参加し小説を書着ながら、土木工事やナイトクラブなど様々な職業を転々としたことが紹介される。
 いろいろな自分をある時まとめられなくなった。其処から書くことが始まる。
 これまでの自分をまとめる必要があった。


作家として芽が出ないまま25歳になった。周囲の仲間は次々と就職していく、父親から「作家修行は27歳まで」と期限を宣告される。


26歳で小説「百花金泥」を書き上げ編集者から認められるが、その掲載誌が廃刊になり日の目を見なかった。開けかかった文学への道が閉ざされる。


文学と家業としての寺との板挟みの中で、苦悶する。
寝れば悪夢を毎日見る。
体中から毛が生え、身体が毛に埋もれる夢。
友だちは、「頭をそるのがいやだっただけだろう」と言った。


その頃、父親と縁があった哲学者星清に相談する。
星氏は言った。
"僧侶と作家 両方やってみればいい"
玄侑は、目が開かれる思いがした。
文学か寺かの二者択一の中で揺れていた彼には、どちらかの選択しか無かった。
 どちらも両方の世界があることみ気づき、故郷に帰る決心をする。


文学はとりあえず休止し、10年間は修行することにする。
しかし、事実は意外なものだった。


京都・天龍寺の修行道場へ行く。しかし厳しい禅の修行は、刺激的で目が覚めるものだった。
 作務、坐禅、読経、托鉢…。


托鉢の歩く速度は早い。最初は走らなければついていけなかった。 3ヶ月過ぎると付いていけるようになった。
予断に人間は縛られている。
12月1日から8日(=臘八)まで、昼夜分かたずひたすらに坐禅修行(=摂心)を行う臘八摂心がある。
 不眠の座禅は3日しか続かないと予断を持っていても、4日目がやってくる。
 4日目に入ると予断が破綻し、価値を失う。
玄侑師は、"思いを変えると身体がついてくる。"と言う。


☆なりゆきを「決然」と生きる
人生の「なりゆき」を受け入れながら「決然」と生きる事。


アブラクサスとは善と悪の両面を持った神。
人間もいくつもの顔を持った存在。


文学への道を一時休んで出家し修行した。3年の修行の後、父親の病気により、寺に戻り、僧侶として生きることを始める。
 文殊堂を作り、会合の場所として利用し、蔵書を公開し図書館として利用出来るようにした。
 音楽会、イベントを開催した。


41歳の時、再び小説を書き始める。
 檀家さんの戒名を500名付けた頃、文学が再開する。戒名では書ききれない人の歩みを書きたいというのが動機だった。
 た数文字の短い戒名では死者を弔う気持ちが表せない。その思いが作品を書かせた。
 3作目の小説『水の舳先』が芥川賞候補となり、2001年『中陰の花』で第125回芥川賞を受賞し、作家として認められることになった。


作家かお寺かではなく星氏の言ってくれた作家も寺もの世界がひらけた。
 文学の道を闇雲に突き進まず、僧侶になったために結果として作家になることができた。
 人は壁にぶつかった時、真正面からぶつかるのではなく横に行くと言う解決方法もある。


文殊堂、『胡弓よ、わが思いを語れ』コンサート、檀家との付き合い....僧侶の仕事は多方面な経験だった。
 その広がりが、人間を豊かにし、壁を破り作品を書くことができるようにさせた
  人生の不思議である。


小説『水の舳先』
主人公の僧侶玄山は、末期患者に湯かんを行う。今では、病院での死が多く、病院で遺体の清掃が行われるが、昔は湯かんが死後に行われた。
 湯かんを生きているうちにしてほしいと頼まれたる。
 玄山は
 「寧に丁寧にお湯を注ぎながら、掌指を這わせていった。     久美子が水だけに包まれる感触を、掌もいつしか目指していた。」
 湯かんで看取ることの恍惚感。
 
芥川賞受賞作『中陰の花』
自分たちの子供を流産させてしまった僧侶とその妻。
現実主義者で懐疑的な僧侶とあの世を信じている妻。
妻「人は死んだらどうなんの?」
僧侶「知らん。死んだことない。」


中陰とは、仏教で人が死んでからの49日間を指し、死者があの世へ旅立つ期間である。霊が仏になる期間である、一般的には、四十九日と言われる。死者が生と死・陰と陽の狭間に居るため中陰という。


「私らが目指してるのもたぶん、故人の成仏じゃなくて、     残った家族の心の成仏じゃないかなあ。」


お経をあげる。すると本堂一杯に飾られた紙縒りが、読経に反応するように動き、夫婦はわが子の成仏を感じる。


玄侑宗久師は、35歳で結婚。
妻智子は檀家のお供え物の包装紙を使って紙縒りをつくる。その小さな紙縒りを組み上げて大きな作品を作った。
 妻智子は語る。
"紙縒りには檀家さんの死者への届かぬ想いが込められている。七夕飾りのように、作品には多くの届かぬ思いを届く願いがが込められている。"




福聚寺に咲いた大きな紙縒りの華は、極楽浄土の世界のようでもある。
 この白い華が中陰の花である。


「中陰の花」で芥川賞を受賞した玄侑師は、授賞式の挨拶のマイクに向かって、話す。
"この賞を受賞して、なぜか判りませんけど、坊さんとしての自覚が強まっていまして..."。


玄侑師は、番組のインタビューで語る。
"成り行きに任せられれば強い。成り行きに任せられたら一番良い。何処に行き着くのか判らない。判らないですけれど、判らないところに向かって生きて行くのが人生と思いますし、お釈迦様もそう生きられた。どうなるか判らない縁起の中で決然と生きていく意志があればよい。
 成り行きを決然と生きるというのが私の基本方針ですね。"


人が生きて行く道は、多岐に分かれている。どの道が何処へ通じているのか判らない。
 今の次の瞬間には何が起きるか判らない。それはどうすることも出来ない。
 仏教では諸行無常と呼ぶが、日本語で言えば成り行きである。
任せるより他のない成り行きの中で、決然と生きることが大事である。
 寺への道が文学の道に通じていることが、予め判らなかったように。



 


 

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2011/01/20 気になる人 玄侑宗久 (その2)

2011-01-20 23:00:38 | (17)気になる人

玄侑師は、人間が必ず向かい合わなければならない問題、根源的な問題を作品で取り上げている。人間一人ではどうすることも出来ない生老病死の問題を作品世界として書いている。


僧侶という職業から死にまつわる様々な問題について檀家、福聚寺への来訪者、関係者から相談を受ける。
 病、老などの悩みに付いても直面する。そして、個人としてはどうにもならないこれらの問題を作品で取り上げている。


玄侑師は、これらの問題を「間(あわひ)」の視点から見つめる。
「あの世」と「この世」の間、「病気」と「元気」の間。「老」と「壮」の。
 生老病死の根源的な問題に直面して悩んでいる人、苦しんでいる人を間の問題として見つめる。
 その「間」の立ち位置に立って初めて見えてくる人間の様相。心の救済を求める姿を描いている。



小説「アミターバ・無量光明」は、死者の目線で書いた物語である。
 この作品は、妻の母の死を看取ったことから生まれた。


病室の中で肝臓ガンにかかった義母が玄侑師に話す。
"そろそろお迎えが来るやろか?"
この問が、アミターバを書く切っ掛けとなった


問われた玄侑師は思わず口走ってしまう。
"お母さん、そんな気弱なことを言わないでください。大丈夫ですよ"というようなことを口に出してしまう。


其処に悔いが残った。
義母が僧侶としての自分に、その問を問いかけた時、
"そろそろかも知れませんね"と話すべきだった。
そうすれば、そこから始まる話が、色々と在ったんではないか。


玄侑師は、現実の病室では出来なかった「話」を小説の中で書き上げた。


主人公の女性は、ガンの進行の中で過去と現在の区別がつかなくなり、自分の死を自覚するようになる。
 次第に、死後の極楽に付いて想いを馳せる義母に対して、義理の息子である慈雲僧侶はこう話す。
"お母さん、極楽浄土では、
 自分の望んだとおりの美しい形が
 現れるらしいですよ。
 音楽を聴きたいと望めば聞こえるし、
 いい香りがかぎたいと思えばかげる
 っていうんです。"
 



 





 



 



玄侑師は、番組インタビューんで話す。
"昔から、阿弥陀様のところへ行くと言うが、阿弥陀様はアミターバということから来ている。
 アミターバは無量の光を指す言葉。阿弥陀様というと仏像を考えるが、実在した仏様はお釈迦様だけで阿弥陀様も観音様も薬師如来も弥勒菩薩もフィクション、人が考え出したもの。
 ある種の状態を仏様のイメージにしたものが諸仏。もう一度、そのシンボライズされたものの原点に戻ることが現在の仏教には必要だと思う。
 阿弥陀様を考え出したことには、死に臨む際の光の体験があると思う。その光を書きたかった。"



玄侑師は、また、死後について別の言い方をする。
"相手が禅宗の坊さんであれば、死んでみれば判るだろと言いたいところがある。
 判らないまま生きようとここまで決意して生きてきているわけだから、答えを此処に来て望むのは虫がいいというか、判らないままこのままいけよと、坊さんが相手ならこう言いますよね"


この話を聞いて、思い出したのは山岡鉄舟の死の光景である。
鉄舟危篤の報方を聞いて、勝海舟が山岡を訪ねたときの光景である。


勝海舟は、山岡鉄舟の臨終の見事さに付いて、「山岡鉄舟の武士道」の中で以下のように書いている。


『山岡死亡の際は、おれもちょっと見に行った。明治二十一年七月十九日のこととて、非常に暑かった。
 おれが山岡の玄関まで行くと、息子、今の直記が見えたから「おやじはどうか」というと、直記が「いま死ぬるというております」と答えるから、おれがすぐ入ると、大勢人も集まっている。その真ん中に鉄舟が例の坐禅をなして、真っ白の着物に袈裟をかけて、神色自若と坐している。
 おれは座敷に立ちながら、「どうです。先生、ご臨終ですか」と問うや、鉄舟少しく目を開いて、にっこりとして、
「さてさて、先生よくお出でくださった。ただいまが涅槃の境に進むところでござる」と、なんの苦もなく答えた。
 それでおれも言葉を返して、「よろしくご成仏あられよ」とて、その場を去った。
 少しく所用あってのち帰宅すると、家内の話に「山岡さんが死になさったとのご報知でござる」と言うので、「はあ、そうか」と別に驚くこともないから聞き流しておいた。
 その後、聞くところによると、おれが山岡に別れを告げて出ると死んだのだそうだ。そして鉄舟は死ぬ日よりはるか前に自分の死期を予期して、間違わなかったそうだ。
 なお、また臨終には、白扇を手にして、南無阿弥陀仏を称えつつ、妻子、親類、満場に笑顔を見せて、妙然として現世の最後を遂げられたそうだ。絶命してなお、正座をなし、びくとも動かなかったそうだ。』


海舟も鉄舟も禅を収めた悟境の人である。幕末の動乱期に、死と隣り合わせの日々の中、日本の将来のために大政奉還と平和的な政権移譲に私を捨てて公に生きた人物である。


玄侑師は、義母の問に禅宗僧侶としては答えなかった。
だが、死機を掻い潜って生きた海舟は臨終間際の鉄舟に対し、座りもせず立ったまま、平然と言ってのける。
「どうです。先生、ご臨終ですか」
この抉るような海舟の問に、鉄舟はにっこりとして言う。
「さてさて、先生よくお出でくださった。ただいまが涅槃の境に進むところでござる」と。


禅の修行を収めた覚悟の人同士の会話は、玄侑師の想念ではなく事実として存在している。
 玄侑師は、義母の問に禅宗僧侶として答えられなかったかもしれないが、その代わりに小説「アミターバ」を書いたのである。



小説「龍の棲む家」は、老いがテーマの小説である。
老いは今も昔も死と並んで根源的な問題である。


"龍というのは自然の象徴ですね。自然の変化を引き起こすものは一体何なのか。人間の思い通りにはならないものの象徴が龍ですね。
 痴呆症の人たちを龍と表したのは、戸惑いの連続だからですね。
 思わぬことで戸惑うことを我々は久しく忘れているのではないでしょうか。
 それが増えていることは、長い間我々が忘れていることを想出せよと言っているんじゃないでしょうか"と玄侑師は語る。


認知症になった父の介護をする幹夫は戸惑うばかりだ。介護士の佳代子は幹夫に話す。


 



玄侑師は、正常と痴呆の間に立って、老いを見る必要があることを語る。
"問題なのは老いと痴呆を分けていること。正常な老いとそうでない痴呆を分けて考えている。
 老いは総合的なものであって、本来呆けとか判断がおかしくなるとかも本来含まれている。また、何かが優れてきていることもあるかもしれない。
 我々が住んでいる合理的な社会から外れると、合理的な側から見てしまう。介護のしようによって老いの中に留まることも出来れば、一気に別世界に行ってしまうことも出来る。"



短篇集「四雁川流景」は7つの短編から構成されている。
玄侑師は、インタビューに答える。
"最初から計画的に7編を考えて書いたのではない。成り行きに任せて書いた本。
 こうゆう物語を書いたので、次こうゆう物語を書きたいというように、成り行きに任せて書いた。
 思っても見なかったけどこうゆう風になってしまった。よく作中の人物が勝手に動くと言うが、私がコントロールしきれる世界でなくなってきた時に、私にとっても良い作品になると思いますね。
 人生もそうですけど計画通り上手くできてよかったねというのは全然幸せ感はないし、それが良い人生とは言えないんじゃないでしょうかね。
 頭で考えることができるのはたかがしれていますから、ひょんな事が起きたときにどう取り込むことができるか、其処に身を任せられる方が大きな人生を生きられると思いますね。"



諸行無常の世界を歩いて行くことを和語で言えば成り行きを生きて行く。成り行きに任せながら決然と生きていく。
 これが玄侑宗久師がこの番組で語りたいことである。


玄侑師は、この番組とは別のインタビューで答えている。




 * * *
 現代の日本人は「計画病」による自縄自縛に陥っているが、もうひとつ、ネットワークの発達によってさらに自己を縛りつけている。


 最近はブログなど、自己言及と記録を兼ねたような文章をよく見かける。そして「自分はこういう人」だと、知ったようなことを書いているのだが、果たして人間はそれほど解りやすい存在なのだろうか。熱心な記録や自己言及が、却って自己をことさらに限定し、苦しめてはいないか。


 禅では過去を引き摺ることを泥亀に喩える。泥だらけの亀は歩いた跡を甲羅の分まで大げさに残す。そんなふうに、自分の過去を示してどうなるのかと、禅家では発想するのである。


 歴史家にはうつ病が多いと言われるが、それも過去に一貫した解釈を求めすぎるせいだと思える。現代人の多くは、たぶん情報という泥に浸かりすぎたうつ症状の亀なのだろう。


 さらにはツイッターなるもので、政治家も老若男女の一般国民も対等につぶやく。そこには「待つ」「凌ぐ」「暖める」ということがなく、軽い言葉がネットワークに流れる。すぐにつぶやきたくなるほど政治家も国民も不安を抱えているのだろう。


 不安とは何か。それは今ここにないものを頭の中にあれこれ浮かべている状態と言えるだろう。いわば、過去の材料で未来を想っているのだ。


 現代人の不安ももちろん同じことだ。その時その場になってみなければ何も分からないし、解決にもならないことを、シミュレーションなどと称して見通したつもりになる。しかし、当然ながらそんなことで真の安心は得られない。


 未来は分からないものと割り切り「今」にしっかり立つ。一歩を踏みしめる場所は常に「今ここ」だが、その一歩の置きようで未来は少しずつ変化する。安心してその変化に応じつつ「今、今、今」と進めば、そこには不安も起こらないし、あやふやな未来を信じることさえ不要ではないか。


「今」この瞬間に大問題があるかどうか、それだけを気にすればいい。だが、残念なことに現代日本人は現実を感じる「直観力」を失いつつある。
※SAPIO2011年1月26日号』(提供:NEWSポストセブン)



【感想】
玄侑宗久師は、芥川賞受賞後も旺盛な執筆活動を持続する作家であると同時に、歴史のある臨済宗福聚寺の住職として活躍するマルチ人間である。
 作品は人間の根源に迫る問題作から軽妙なエッセイ、思想的な作品まで縦横無尽の幅と深さがあり、僧侶としては地域に奉仕する寺を守る僧侶として葬祭・相談の一般的寺務の他に音楽などのイベントを開催し地域活動に参加している一方、講演などで全国を回ることも多い活力に満ちた生活を送っている。


玄侑宗久師は、世俗から離れずに、世俗の中で活躍している。
その意味では、少林寺の釈永信法師と通じるところがある。
 ただ、違いも大きい。釈永信法師は総本山の少林寺の管長としての権力と中国人民代表の肩書きも持つ体制側の人間だ。
 施行するのは少林寺の復興と少林寺文化の世界的伝播だ。


一方、玄侑宗久師は僧侶としては、末寺の住職だ。
仏教の組織は多くの組織と同じように、階層的だ。総本山を頂にした三角形の形で、総本山が権力の中心で、その管長になることが僧侶としての最終ゴールであろう。
 末寺、地域の寺院の僧侶は、葬祭と寺院の維持管理で汲々としていることが多いだろう。
 悪事を働く坊主も居れば、衆生を救済するべき立場を忘れて、煩悩に駆られて飲む・打つ・買うの生臭坊主が多いことも事実だ。
 玄侑宗久師は、僧侶としては末寺の住職だが、作家活動・講演活動で、地域以外の人を救済している。


仏教には魔界・悪道ということがあるらしい。
釈永信法師の行く末がどうなるのかは、歴史が証明するのを待つしかなが、かなり危険な道の様に思われる。
 玄侑宗久師が、仏教組織の中でどの様に位置づけられているのは解らないが、目の前の人を救済しているという意味では、本当の仏様のように思われる。


玄侑宗久師は、気になる人である。



【データ】
1956年、福島県三春町生まれ。作家・臨済宗僧侶。
慶応大学卒。さまざまな仕事を経験した後、27歳で京都・天龍寺専門道場に入門。
現在は臨済宗妙心寺派福聚寺副住職。
2000年、「新潮」 に『水の舳先』を発表し、作家としてデビュー。
翌2001年『中陰の花』で上半期の芥川賞を受賞。
生と死、人の精神、老いなど、実感しにくい世界を見つめた独特の玄侑ワールドを小説で展開する一方、対談、エッセイ、時事批評、往復書簡、仏教や禅の解説書など、幅広いジャンルで著作活動を行っている。


Wikipediaの玄侑宗久
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%84%E4%BE%91%E5%AE%97%E4%B9%85


玄侑宗久師の公式HP
http://www.genyusokyu.com/index2.htm
このHPは、ズシリとした重さと読み応えのあるHPだ。
小説と合わせて読めば、ひょんな事になるかもしれない力を秘めた玄侑空間である。



玄侑師は俳句にも関心があるそうだ。
『9月13日NHK俳句に学ぶ
 講師:三村純也さん
 ゲスト:玄侑宗久さん(禅寺の僧侶・芥川賞作家)


○どういうきっかけで作家になられたのですか?
ヒョンなことで。
俳句は17文字、われわれはもうすこし少ない字数の戒名をつけている。
それだけの字数で、その方の人生をちゃんと表すことできないという思いがたまっていて、ある時むしょうに書きたくなった。


○俳句のどういうところに、興味があるのですか?
 俳句は本堂みたいもの、間口が広くて奥行きが深い。
 
 芭蕉自信がかなり禅に興味を持っていたことがわかっている。
 俳句は、禅の自然観、人間観と非常に近いもののような気がする。
 私というものの輪郭をどんどん薄くしていって、自然とか世界と一体になり、一句詠まれるし、座禅もなされるという気がする。


○ゲストの好きな句
  樅高し 雲ながれゆく 明日は旅 (遠藤宗徳)
  樅(もみ)
 近所のたいへん尊敬していた僧侶の句。
 この句は、10月4日の句会に出席して創られました。
 自分の葬式の仕方を指示して、お風呂に入って、白衣(はくえ)を着て、翌日亡くなられた。
 「明日は旅」という表現に、終わりと言う感じがしない、ある種の明るさを感じる。


○三村純也先生
 命の最後になると無季の句になるのかなという気がする。
  死ぬ朝は 野にあかがねの 鐘鳴らむ (藤田湘子)』



最期まで読まれた人のために:
 この番組は再放送の予定がある
2011年1月27日(木) 12:30~14:00
NHKBSハイビジョン
 プレミアム8 「「玄侑宗久(作家・臨済宗僧侶) "なりゆき"を生きる」」 


 

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2010/01/14 -気になる人- やなせたかし 夢を現に~現を夢に (その1)

2010-01-14 20:51:13 | (17)気になる人


やなせたかしについて書くほどやなせたかしをよく知っている訳ではない。


家の書棚に10cm四方くらいの小さな陶板がある。自分で買った記憶はないのでクリスマスとかパーティとか送別会とかの贈り物だったかも知れないし、もともと他の家族のものだったかも知れない。
 だが、陶板に書かれている詩は気に入っている。


 



何故かこの詩を書いた人はやなせたかしと言う詩人であることは知っていた。


彼が作詩した「ジャマスルナ・ワルツ」の歌詞の一節だからだ。


「ジャマスルナ・ワルツ


やなせ たかし 作詞
宇野 誠一郎 作曲


(一)
ジャマスルナ!
生きるよろこびを たのしみを
歌うことを 笑うことを
涙こぼすことを
自由に生きよう 太陽のしたで
前むいて歩こう 光のなかを


(二)
ジャマスルナ!
生きるしあわせに おもいでに
うれしさに かなしみに
心もえることを
元気に生きよう くちぶえふいて
うでをくみ進もう 光をあびて
 ジャマスルナ ジャマスルナ
  ジャマスルナ」



其れ迄は,やなせたかしはお気に入りの陶板の詩を書いた詩人であった。
 先月、例によって通りすがり的にTVのチャンネルを変えると、老人が表彰状を歌いながら読んでいる。賞を受ける若い人二人は並んで少し戸惑いながら笑いながら聞いている。
 変なじいさんだなと思い、番組を見ると
「プレミアム8<人物>
▽アンパンマンが生まれた理由~90歳やなせたかしの漫画家人生」


この人がやなせたかしかと思って、見ていると面白い。
子供向けの人気漫画アンパンマンの作者でもあるが、90歳の現役の漫画家であり、表彰状を読んでいたのは彼が漫画家協会の会長でもあるからだ。


鉄腕アトムとかドラえもんとかのヒット作がなかったやなせたかしが人気漫画家になったのは60歳を過ぎてから。
 子どもたちの声援が逆に出版社、放送局を動かし、知らぬ間に彼を人気漫画家にしてしまった。


漫画,絵本、舞台美術、作詞・作曲、放送作家etc彼の仕事は多彩だが、TVの話を聞いていて彼の人間そのものが多彩で面白そうだった。
 90歳を超えても老いを知らず、人を喜ばすために毎日活動している彼は、今では実生活でも人気者で「オイドル」と呼ばれているらしい。



 (ギネス認定&放送1000回!やなせたかし90歳おめでとうパーティ eiga.com速報 より転載)


 
(やなせたかし:"ディズニー越え"を宣言 毎日.jp より転載)


やなせたかしに付いて知らない人は、以下のWikipediaの記事を参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%84%E3%81%AA%E3%81%9B%E3%81%9F%E3%81%8B%E3%81%97


やなせたかしの人間を理解するために著書を読むことにした。本はアンパンマン、絵本、童話など多数だが詩集、画集、随筆など数多い。
 人間を知るには自伝を読むのが早いので探してみた。


やなせたかしは自伝的な本を何冊も書いている。未だ他にもあるかも知れないが以下の5冊は自伝的なものだ。


(1)もうひとつのアンパンマン物語
  -人生は、よろこばせごっこ- (1995年、PHP研究所)
(2)アンパンマンの遺書(1995年、岩波書店)
(3)痛快!第二の青春 アンパンマンとぼく(2003年、講談社)
(4)人生なんて夢だけど(2005年、フレーベル館)
(5)人生いつしかたそがれてわずかに残るうすあかり(2007年9月、白泉社)


最後の(5)はまだ読んでいないが、内容は共通するものが多いが書かれた時が異なるので、印象はそれぞれ異なる。
 (1)と(3)は詩・メルヘンの香りがするもの、(2)と(4)は実録のもの。


1919年(大正8年)生まれの90歳の人生である。長い歴史である。
・幼くして父と死別、再婚する母と別れて医師であった叔父に引き取られた。経済的には困ることはなかったが実父母との生活ではなかった。
・戦争経験もしている。中国大陸に上陸作戦も行った経験がある。
・復員後は、廃品回収業の後、高知新聞記者となり夫人となる人小松暢と出会う。東京に出た彼女を追って上京。漫画家を志す。
・代表作はないが長く漫画家の世界に住み、漫画家の世界から離れても生きた。絵本、放送、シナリオ、作詩、ミュージカルなどの世界で幅広く交遊した。吉行淳之介・宮城まり子と親交があったのは意外だった。漫画界では手塚治虫より先輩であり、手塚前も手塚後も知っている漫画界の生き字引のような人で有る。
・54歳の時に書いたアンパンマンは当初出版社、評論家からも評価されなかった、しかし幼稚園とかの現場では子どもたちが喜んでみてアンパンマンの仲良しになった。子供の声援に押されて出版が続き、60歳を超えて初めて人気作家になった。
・70歳になりTV放送がされるようになると、人気が爆発し売れっ子作家となる。


花が開くのは遅かったが、それまでの蓄積があり花は大きく咲いた。
 1991年72歳の時には勲四等瑞宝章を受賞し、夫人と共に園遊会に参加天皇皇后両陛下にも親しく声をかけられている。


様々な体験の中でも、本人が最も想定外で苦しかったのは暢夫人の死だ。
 1988年12月癌の診断即入院、そして手術。 手術のあと医師の説明を受け、余命3ヶ月といわれる。
 女流漫画家里中満智子のすすめで丸山ワクチンを試みた。担当医は「そんなもの効きませんよ」と言ったが,夫人の血色が良くなり、体重は50キロを超えて、余命3ヶ月はあっと間に通過し元気になった。
 担当医師は「いやぁ、抗がん剤がよく効きました~」と言ったそうだ。
 その後、奇跡的に回復し、売れっ子作家生活の中で、戦後から生活を共に戦った戦友である暢夫人との生活を大切にした。
 1993年11月13日、丸山ワクチンを止めていた夫人が容態急変、緊急入院。治療、輸血、丸山ワクチンを再開したが22日帰らぬ人となった。
 享年75。やなせたかし74歳であった。


やなせたかしは、長い漫画家生活で後輩がどんどん代表作を世に出し、出世して行くのを横目に、60歳を超えてなお代表作がなかった。その頃を回想して「日暮れて道遠し」と表現しているが、実人生でも同じような状況に陥ってしまった。
 うそ寒い死神に取り憑かれたように元気をなくしていたが、相変わらず仕事は猛烈に忙しかった。


妻の死を契機に、彼の言う「痛快!第二の青春」が始まる。


次の人生の目標を何にしようか考えた彼は,猛烈に活動的になる。
・1994年の春、故郷高知に美術館を建てることを考えた。
・1994年6月、新宿の自宅近くに直営店アンパンマンショップを開店。
・1996年2月、77歳喜寿の祝いの会で、里中満智子と架空結婚式を挙げる。暢夫人とは結婚式は行っていなかったのに。
・1996年7月、計画中だったアンパンマンミュージアムが故里香北町にオープン。
・1998年1月、人気は上昇、老化は亢進。心臓手術を受ける。
・1998年7月、「アンコレパーティー」で里中満智子と2度目の架空結婚式。
・1999年、80歳となり視界が変化、今まで多少の未練が有った金も名も要らなくなった。老化現象による体力低下に苦しみながらも「冗談を楽しみたいという遊び心」で世紀末パーティを開催。
・2000年2月、81歳になって『このくらいの年齢になると人生の先輩の参考書はいたって少ない。考えてみれば自分が先輩になっていて、「老後の過ごし方」とか「健康の秘訣」とか質問される立場になっていたんですね。そんなこと聞かれたってわかりませんや。
 若いときはギラギラすると思ったド派手な服も、なんの苦もなく着られるのが面白い。無理若丸のハデハデ爺さん。物笑いの種になっても素知らぬ顔の恥知らず。こんな男に誰がした、なんてイキがっている間に病気の方はいつの間にやら進行しておりました。』。入院し、胆嚢と脾臓を切除。
・2001年2月全快祝いの復活パーティーで空中浮揚。12月緑内障の手術。
・2002年2月、83歳。熱をおしてミュージカル「涙のデュオ」出演後、腸閉塞で入院。
...
その後も2004年2月85歳まで、高知、旭川、佐世保の地域おこしに参加協力し、東奔西走の忙しい日々を送る。


2005年以降は、(5)を読まないと判らない。
しかし、2009年12月NHKのTVのインタビューでは元気そうだった。
 変りなく、「十病人」でありながら元気に人を喜ばせるべく走りまわってこられたのは確かだ。



 

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2010/01/14 -気になる人- やなせたかし 夢を現に~現を夢に (その2)

2010-01-14 20:45:04 | (17)気になる人

やなせたかしの自伝を読んでいて、想ったのは「胡蝶の夢」の寓話だ。 「胡蝶の夢」は、荘子の思想を表す代表的な寓話である。「荘周が夢を見て蝶になり、蝶として大いに楽しんだ所、夢が覚める。 果たして荘周が夢を見て蝶になったのか、あるいは蝶が夢を見て荘周になっているのか。」という話だ。

【原文】昔者荘周夢為胡蝶。栩栩然胡蝶也。自喩適志与。不知周也。俄然覚、則蘧蘧然周也。不知、周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。周与胡蝶、則必有分矣。此之謂物化。

【書き下し文】昔者荘周夢に胡蝶と為る。栩栩然として胡蝶なり。自ら喩しみて志に適えるかな。周たるを知らざるなり。 俄然として覚むれば、則ち蘧蘧然として周なり。知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。此を之れ物化と謂う。

荘子は、荘周が真実の姿か、胡蝶が真実の姿か、 それはどちらでも良いと言う。 胡蝶であるときは栩栩然として胡蝶になりきり、荘周であるときは荘周となっている。どちらも姿を変えただけのこと、「物化」と言ってる。 夢も現も「物化」であり、夢現一如、どちらも真実であるといっている。

アンパンマンはやなせたかしの夢・メルヘンの世界である。乞われるまま東奔西走し、歌ったり踊ったりパーティーをやったり、ハデハデ衣装に身をくるみ「無理若丸」「少年の干乾し」としてノスタル爺さんは人を喜ばせている。これがやなせたかしの現(うつつ)である。 だが、アンパンマンは夢で、やなせたかしは現なのだろうか?荘子なら「物化」と言うだろう。 夢を現に~現を夢に自由自在、アンパンマンとやなせたかしは夢現一如である。

 

(アンパンマン1月壁紙 アンパンマンポータルサイト よりダウンロード)

彼はこう書いている。 『それならば一日一日は楽しい方がいい。たとえ十種の病気持ちでも運は天に任せて、できる限りお洒落もして、この人生を楽しみたい。 人生の楽しみの中で最大最高のものは、やはり人を喜ばせることでしょう。すべての芸術、すべての文化は人を喜ばせたいということが原点で、喜ばせごっこをしながら原則的には愛別離苦、さよならだけの寂しげな人生をごまかしながら生きているんですね。 茫々として時間は流れ、過ぎ去ったことは夢のようですが、こうなったらヤケクソで残された時間はできるだけ新しいことに挑戦して、詩をかく絵をかく恥をかくの「三かく主義」で生きて行きたいと思っています。 ぼくは老人の星になるぞ!(ムリかな?)』((4)p312)

夢をみることができて、元気で、未来が遠くまでひらけている幼児にはアンパンマンを。疑い深く夢をみることが出来なく、元気が無く、未来も無く明日をも知れぬ老人には、老人向けメルヘン、「老人の星」ノスタル爺さん「やなせたかし」を。 プレゼントして喜ばせているのがやなせたかしだ。

90歳のやなせたかしにもう未来が無いだろうと侮ってはいけない。悲観してはいけない。彼は書いている。 『「もう駄目だ。死ぬかもしれない」と言うと、全員爆笑! 「また始まった。二十年前から言っているが死なないじゃないか。嘘つき」 誰も相手にされず、狼少年ならぬ嘘つき狼爺さんの嘆きを信じる人は皆無! 確かに仕事は忙しく、日本中飛び回っていましたが、危機一髪の綱渡り、明日の運命誰が知る?』((4)p275)

やなせたかしは、遺書はいくつも書いている。が、書いたあと新しく生まれ変わる。書いたあとは第2,3,4,5,6...の青春時代が始まる。 こうなったらもう止まる事は出来無い。夢現一如の命を生き抜く「やなせたかし」だから。

彼は最後に書いている。 『人生なんて夢だけど、夢の中にも夢はある。 悪夢よりは楽しい夢がいい。すべての人に優しくして、最後は焼き場の薄けむり。 誰でもみんな同じだから焦ってみても仕方がない。 未来のことはわかりませんが、とりあえず、さよなら。』

信じますか?

【データ】

(1)「プレミアム8<人物>▽アンパンマンが生まれた理由~90歳やなせたかしの漫画家人生」

 チャンネル : NHK BShi 放送日 :2009年12月17日(木) 放送時間 :午後2:00~午後3:30(90分) 番組HP: http://www.nhk.or.jp/bs/premium8/

アンパンマンの生みの親やなせたかしさん(90歳)。人気漫画家になったのは60歳を超えてから。下積み時代や手塚治虫との仕事など波乱万丈の漫画家人生をたっぷり語る。

「アンパンマンが生まれた理由 ~90歳 やなせたかしの漫画家人生~」やなせたかし,【きき手】渡邊あゆみ

(2)アンパンマンポータルサイト http://anpanman.jp/index.html

(3)やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアム http://www.anpanman-museum.net/

 

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2009/07/15 須藤元気 10のルール

2009-07-15 21:02:12 | (17)気になる人


風呂から出て眠ろうとすると、テレビに須藤元気が映っているのが見えた。


須藤が日本酒について熱く語っている。
画面では、外国人に日本酒のタイプについてjyukuなどと英語で話している。
 明日のことを考えると眠らなければならないが、見てしまった。
(2009年7月15日(水)00:29~00:59 TBS ・私の10のルール)


 



(gooスポーツ 格闘技 より転載)


途中から見たので、最初は何か解らなかったが、須藤の生活のルールを語る番組らしい。


<須藤元気殿の10のルール>
(1)二毛作する
(2)半袖の時はメガネをかける
(3)本に折り目をつける
(4)お酒は日本酒
(5)女性誌に目を通す
(6)声を掛けられたら笑顔で返す
(7)1日ひとつものを手放す
(8)夢を手帳に書く
(9)寝ても覚めてもありがとう
(10)WE ARE ALL ONE



見始めたのは4番目のルールからだった。
日本人が酒について外国人に語る時、その酒は日本酒でなければならないと須藤は言う。行動家の彼は、最近利き酒師の資格も取ったらしい。
 画面では、アメリカ人二人に英語で日本酒のタイプについて話している須藤に、外国人は頷いている。
 若くしてアメリカに渡って、格闘家の道に進んだ須藤は英語は堪能である。
 日本酒に関する須藤の理解はまともである。


須藤元気といっても知らない人も多いかも知れないが、2年前まで人気格闘家であった。
 当時は、トリックスターと呼ばれて、トリッキーな動きが話題だった。彼の格闘理論は円運動であり、中国武術に通じるところがあった。


毎回試合会場に登場する時、仮面をかぶりダンスを踊りながら入場する人の意表を突くパーフォーーマンスで人を喜ばせた。
 マヤ文明をテーマにした2006年12月の試合の時は、バックダンサーは20名を揃え、それだけで一つのショーを構成していた。総制作費は、数百万円に及び、お金も時間もかかった史上最大のパフォーマンスだった。


人気の絶頂に在った彼が突然引退したので、ファンからは惜しまれたが、須藤は格闘技は人生の一つの構成要素でしか無かった。
 魔裟斗もこの12月で引退するが、元気は既にその先を進んでいる。


ルール(5) 「女性誌に目を通す」
女性研究なのだろうが、今一つ解らない。


ルール(6) 「声を掛けられたら笑顔で返す」
人気者になろうとした自分が、人気者になったら、それを疎ましく思うのは矛盾だ。だから、自分に声を掛ける人には笑顔を返す。


ルール(7) 「1日ひとつものを手放す」
 番組では、格闘技のユニフォーム、読み終わった本、ipodなどに入れた終わったCDなどを毎日人にプレゼントする。


ものに束縛されない為に、ものは必要が無くなれば手放す。
古いものを手放せば、新しいものが入ってくる。
何か禅家のようでもある。


(8)夢を手帳に書く
 何時までにも書いてしまう。そうすると現実はそれに向かっていくという。
 須藤は、手帳にハワイに行くと書いていた。


ルール(9) 「寝ても覚めてもありがとう」
これも理念ではなく実行である。
ノートに「ありがとう」と言う文字を、何度も何度も何度も...
書き連ねていく。
 格闘技の練習最中に、相手のパンチを受けながら、「ありがとう」「ありがとう」と言い続ける。


正三が賞めてくれそうな修證の世界である。


ルール(10) 「WE ARE ALL ONE」
須藤がアメリカにいた頃、同時多発テロが起きた。
ある事故にも巻き込まれた。
それで、色々考えることがあった。


須藤は、それまでは、「I am ONLY one」と考えていたそうである。誰かの歌の題名のようである。
しかし、練習も相手がなければ出来ないし、試合も観客がなければ成り立たない、他の人がいるお陰で自分がある事に気付いたと話す。


須藤は、格闘技の試合が終わり、勝ち名乗りを受けると、決まってリング上で大きな「WE ARE ALL ONE」の幕を手で提げて、観衆に見せていた。



以上が10のルールだが、須藤は画面で話していた。
現実を構成するのは「思考・言葉・行動」だという。
これは、詳しくは語らなかったが、ルールの根底にある公準のようなものだろう。
 思考・言葉・行動が相互に作用し合って、無限に運動している生命体、それが須藤元気とも言える。


番組の最後で、よく言われるんですけど、職業は何ですかと?
須藤は言う「自分の職業は、メッセンジャーです」と。


以前、トリックスターとか思索する格闘家と言われたが、今の須藤は思索し、話しかけ、行動するメッセンジャーなのだ。


元気な、気になる人である。



【データ】


1.格闘家のその後
驚いたことに調べてみて解ったが、須藤元気は、格闘家でもあったが、文筆家でもあり、音楽、映像のマルチタレントでもあるらしい。


 



( 須藤元気の結婚式 近添真琴のフルコーラス より転載)



以下を世に出している。


・愛と革命のルネサンス 著者名:須藤元気 出版社名:講談社 


・風の谷のあの人と結婚する方法 著者名:須藤元気 出版社名:ベースボール・マガジン社 


・幸福論 著者名:須藤元気 出版社名:ネコ・パブリッシング 


・神はテーブルクロス 著者名:須藤元気 出版社名:幻冬舎 


・バシャール 著者名:須藤元気 出版社名:ヴォイス 


・レボリューション 著者名:須藤元気 出版社名:講談社 


・無意識はいつも君に語りかける 著者名:須藤元気 出版社名:マガジンハウス 


・キャッチャー・イン・ザ・オクタゴン 著者名:須藤元気 出版社名:幻冬舎 


・ R246 STORY 須藤元気監督作品 「ありふれた帰省」
   須藤元気が監督に挑戦した映画。
   俳優・監督:須藤元気/津田寛治
   メーカー:ポニーキャニオン 価格:?3,150 


・Love & Everything
   須藤元気の曲。
  アーティスト:須藤元気
  レーベル:EMIミュージック・ジャパン



2.TBS番組 「私の10のルール」(My Golden 10 Rules)
TBS 毎週火曜日深夜24:29から
制作著作: TBS/イースト
プロデューサー: 松本彩夏


『あなたにはどんな「ルール」がありますか?


誰もが自分自身に課しているルール。
私らしく生きていくのに必要な私だけのルール。
このルールがなくても生きていくことはできる。
しかし、このいくつものルールが今の「私」を作っている。


「ルール」とは自分自身を組み立てている1ピースである、というテーマのもと、「10のルール」にまつわる、10のVTRを手がかりに1人の人間を裸にしていくオムニバススタイルのドキュメンタリー番組。


ミュージシャン、スポーツ選手、俳優、作家、劇作家、映画監督、学者、有名企業のトップなど、様々なジャンルで「一流」で在りつづける方々の「価値観』に「ルール」という側面からせまります。』(TBS より転載)



自分の「10 ルール」を考えてみたら面白いかも知れない。
ルールが無いことに気付くかも知れないし10どころかルールばかり何十も見つかる人もいるかも知れない。


ルールを考える時、問題は行動だ。



 

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2009/05/02 天狗党挙兵の日

2009-05-02 23:50:02 | (17)気になる人


1864年5月2日(元治元年3月27日)、筑波山で藤田小四郎ら62名が蜂起し- 天狗党の乱が始まった。

水戸藩は光圀以来の尊皇思想で時代をリードしたが、徳川斉昭、藤田東湖なきあと、時代の転換点においてリーダーを失ってしまった。
 時代の振り子に揺られて、水戸藩は分裂・抗争を繰り返してしまった。

天狗党の乱は悲劇的な結末を迎えてしまうが、藤田小四郎らが暗愚だったとは言えない。時代より一足前を進む事は大変な困難に向き合う事になる。

忠誠を誓う慶喜から追討される時の心境は、2・26事件の青年将校と同じだったろう。

乱徒とされ、斬首の後、首級は塩漬けにされた後、水戸へ送られ、水戸城下を引き回され、那珂湊にて晒された。

辞世の句:

武田耕雲斎
 ・かたしきて寝ぬる鎧の袖の上におもひぞつもる越のしら雪
 ・雨あられ矢玉のなかはいとはねど進みかねたる駒が嶺の雪

藤田小四郎
 ・かねてよりおもひそめにし真心を けふ大君につげてうれしき
 ・さく梅は風にはかなくちるとても にほひは君が袖にうつして

悲惨な末路ではあったが、時代の魁となり歴史に名を残した事は志を得たというべきか。


 

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2008/08/19 上司にしたい幕末の有名人ランキング

2008-08-19 22:37:00 | (17)気になる人

 
 「上司にしたい幕末の有名人ランキング」で断トツの1位に選ばれたのは《坂本龍馬》でした。大政奉還の成立に尽力し、明治維新のきっかけを作った薩長同盟の締結に奔走した政治面での手腕はもちろんですが、近代日本最初の商社とも言われる亀山社中(後の海援隊)を結成するなど実業家としても有名です。「映画や小説で描かれる彼の姿は実際の人物像とは違うのではないか?」と指摘する声もありますが、政治活動と会社経営の両方をみごとにこなしてみせたその超人ぶりは「さすが!」というほかありません。


 その《坂本龍馬》の師匠にあたるのが、2位の《勝海舟》。若くして蘭学や西洋の近代兵法学を学び、山岡鉄舟・高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれている政治家です。1860年には福沢諭吉やジョン万次郎らと共に咸臨丸で渡米し、帰国後は江戸幕府の海軍軍艦奉行などを務めました。旧幕府軍と新政府軍との間を取り持ち、江戸城無血開城によって江戸市中を戦火から救うなど、巧みな交渉術を持っていることで知られている《勝海舟》――。もし自分の部署に上司として彼が配属されてきたら、ぜひそのテクニックを教わりたいものです。
 

順位 
 ①坂本龍馬
 ②勝海舟
 ③吉田松陰
 ④西郷隆盛
 ⑤近藤勇
 ⑥土方歳三
 ⑦高杉晋作
 ⑧沖田総司
 ⑨島津斉彬
 ⑩徳川慶喜
 ⑪松平容保
 ⑫天璋院(篤姫)
 ⑬大久保利通
 ⑭木戸孝允(桂小五郎)
 ⑮河井継之助
 ⑯中岡慎太郎
 ⑰お登勢
 ⑱榎本武揚
 ⑲井伊直弼
 ⑳徳川家茂
』(GOO)

 


坂本龍馬、吉田松陰、西郷隆盛は解るが、勝海舟が2位とは意外であった。
 知己を千載に求めた海舟は、自分の人気振りに「ホウ、ソウカエ」とか言っているだろう。

山岡鉄舟はどうしても入って欲しいね。

福沢諭吉が入っていないので、良かった。もともと福沢は志士ではない。ビジネスマンであって生死を志に掛ける人物ではないのである。戦火が収まり、安全が保証されてから物言う人である。

勝は海軍卿の時、仕事は部下に任せていたし、村田新八等の西郷への私淑振りは、西郷が魅力溢れる指導者だったことを証明している。
尊敬できる日本人が存在することは、幸せなことである。


 

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2008/07/12 田部長右衛門という人

2008-07-12 20:03:27 | (17)気になる人


筆者にとっての田部長右衛門(たなべちょうえもん)は沖縄の島根県慰霊碑に県知事として登場する人である。
昨年の慰霊の日に書いたように、島根県の碑文には心に訴える物があり、洒落た県知事がおられるものだと思ったものだ。
http://blog.goo.ne.jp/nabanatei/d/20070623


昭和44年3月に島根県知事であった、洒落た碑文を考える人としての記憶であった。
 最近になりこの田部長右衛門氏は大変な人物であることを知らされた。
 島根県もしくは山陰の方なら誰でも知っている有名な方であった。


田部長右衛門は代々襲名の名だそうで、この方は23代の当主で、島根県の政財界の要人で、一方、茶人・文化人としても有名な人物であった。
 田部家は日本の三大山林王だそうで、中国山脈の大部分は田部家の所有であったらしい。
 田部家は日本刀の鋼で有名なたたら製鉄を生業にした大豪族であった。


『23代田部長右衛門(にじゅうさんだい たなべ ちょうえもん、明治39年(1906年)3月25日 - 昭和54年(1979年)9月15日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。島根県知事。奥出雲の山林大地主田部家の第23代当主。名は朋之。号は松露亭。

経歴の詳細は、Wikipedia参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E9%83%A8%E9%95%B7%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80



田辺家の古式に則った正月風景はNHKでも放送されたらしい。
http://slashdot.jp/~von_yosukeyan/journal/390106


23代が田部家の伝来の収集品を寄付して設立したものが田部美術館だそうである。
http://www.web-sanin.co.jp/insti/tanabe/index.htm

 


『祖父と同じ部屋で寝起きしていたため、大ダンナ教育は早朝から始められた。夜も明けぬ暗いうちに起こされ、武士の出で養子だった祖父の長秋から毎日昔の武士気質を聞かせられたという』
幼少時から英才教育を受けた人らしく多方面に活躍した人物である。


しかし、筆者にとっては、23代田部長右衛門というより、沖縄米須地区島根県慰霊碑の心に訴える・鎮魂と感謝に溢れた碑文の人である。

  

 






美しく花開くためにはそ
 のかくれた根のたえまない
 営みがあるように 私達の
 平和で心静かな日々には
 この地に散ったあなた達
 の深い悲しみと苦しみが
 そのいしずえになっている
 ことを思い ここに深い祈
 りを捧げます


 昭和四十四年三月
 島根県知事 田部長右衛門



 

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