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今、自分が出来ること。やれること。それを精一杯やっていかなくちゃ!!

拾い読み★2012-364

2012年12月29日 07時03分55秒 | マリーンズ2011~15
ロッテ 来季は「どこのチームもやっていないファンサービスを」
 ロッテの中村家国社長は「来年は伊東新監督の下で頂点を目指す。そして、野球を主体としたエンターテインメントを展開したい」と全社員に向けて訓辞。
 今季の観客動員数は123万9168人だったが「来季は動員数10%増を目指す。具体的には言えないが、どこのチームもやっていないファンサービスのアイデアも頭の中にある」。13年はフロントと選手が一体となり、ファンサービスの充実を図っていく。
(スポニチ)


ロッテ・中村球団社長、観客増へ“秘策”
 ロッテ・中村家国球団社長は28日、来季について「健全経営、頂点を目指す」と目標を掲げた。観客動員数は今季の約124万人から「10%アップさせたい」。そのために新たなファンサービスを企画する意向で、「どこのチームもやっていないこととか、いろいろと考えている」と“秘策”を練っているようだ。 (QVCマリン)
(サンスポ)


ロッテ来季は観客動員137万人目標
 ロッテは28日、千葉市内の球団事務所で仕事納めを迎えた。観客動員数が2年連続減少となる123万9000人にとどまったため、中村球団社長は観客動員増へ新たなファンサービスを目指す。昨オフはAKB48を手本にご当地アイドルを発掘し、野球とのコラボを企画。自身も秋葉原のAKB48劇場での公演を視察したが「ファン層が野球とは違うし、難しい。選手を中心としたファンサービスを考えていきたい」と方針を変えた。来季は137万人以上の動員が目標だ。
(デイリー)


ロッテ来季は137万人動員が目標
 ロッテは28日、千葉市内のQVCマリンスタジアム内で仕事納めを行った。
 中村球団社長は朝礼で全社員を前に、来季は健全経営と日本シリーズ進出の号令をかけた。今季は7月下旬まで首位にいながら、失速し5位に終わったことも反省。「大変申し訳なかった。来年はみんなが同じ方向に向かっていきたい」と話した。
 また、来季の観客動員目標については今季の10%アップの136万9000人以上を目標に掲げた。
(デイリー)




ロッテ・角中も同郷のヒーロー引退惜しむ「同じ石川県出身で大きな存在」
 ロッテの角中勝也外野手が28日、同郷の先輩である松井秀喜外野手の現役引退を寂しがった。
 今季は01年、松井が巨人時代に首位打者に輝いて以来の石川出身者の首位打者のタイトルを獲得した。
 角中にとって松井は幼少の頃から、星稜や、巨人時代の活躍を目に焼きつけてきたヒーローだった。
 「同じ石川県出身で小さいころから見てきた大きな存在。自分が追いかけてきた松井さんのプレーする姿が見られなくなるのが寂しいです。自分が言っていいのか分かりませんが、20年間、本当にお疲れ様でした。是非、石川でお会いする機会があればいろいろバッティングについてお聞きしたいです」とコメントした。
(デイリー)




巨人Jrが悲願の初V 本家顔負け破壊力で逆転勝ち
 「NPB12球団ジュニアトーナメント ENEOS CUP 2012」は28日、札幌ドームで大会最終日が行われ、決勝で巨人Jrが5―3でロッテJrを下した。巨人Jrは1点を追う6回に3点を入れて逆転。8度目の挑戦で、悲願の初優勝を果たした。
 本家顔負けの破壊力で、巨人Jrがシーソーゲームを制した。1点を追う6回、先頭の渡辺が中越えソロで同点。1メートル76、84キロと恵まれた体格から弾丸ライナーで突き刺した。これでチーム通算4本塁打となり、大会最多タイ記録。日本一に輝いた兄貴分に続く栄冠に、河埜監督は「選手が頑張ってくれた。それだけ。選手を褒めてやって」と感慨に浸っていた。
(スポニチ)

う~ん、子鴎健闘むなしく…優勝ならず。。。(≧Д≦)
でもよく頑張りました(^ー^)





【気になる記事】


松井 会見冒頭あいさつ「命懸けのプレーもここで終わり」
【松井冒頭あいさつ】
 私、松井秀喜は、本日をもちまして、20年間に及びましたプロ野球選手人生に区切りを付けたいと思い、20年間応援してくださったファンの皆さま、そして報道関係の皆さまに感謝の気持ちを伝えたく思い、このような記者会見を開かせていただきました。
 この決断に至った一番大きな原因は、今年のシーズンは3カ月くらいしかプレーできなかったんですが、少し今までにない、初めての形でのスタートになりました。マイナーリーグからスタートして、メジャーリーグに上がり、そこで最初は多少結果も出たのですが…。その後、たくさんのプレーする機会をいただき、試合に出る時はクリーンアップという形で出させていただいたにもかかわらず、結果が振るわなかった。そのことが一番大きな要因だと思っています。僕がメジャーに挑戦する時の「命懸けでプレーし、メジャーという場で力を発揮する」という気持ちで、この10年間やってきましたが、結果が出なくなったということで、その命懸けのプレーも、ここで一つの終わりを迎えたんじゃないかなと思っています。
 僕の野球人生を、パッと振り返りますと、北陸の小さな街で生まれ育ち、そこで野球を始め、地元の高校に進学して、甲子園に出るという小さな時からの目標を達成することができました。そこで注目していただき、高校3年生の時にジャイアンツからドラフト1位で指名していただき、当時の長嶋監督にクジを引いていただくという、凄い光栄なことだったと思っています。そして、ジャイアンツで長嶋監督に出会い、毎日のように2人きりで指導していただき、その日々がその後の僕の野球人生にとって本当に大きな礎になったと思っています。
 その出会いに関しましては、僕にとっては本当に大きなものでしたし、長嶋監督には感謝してもし尽くせないぐらいの気持ちでいっぱいです。そしてジャイアンツでも、10年間で3度日本一にもなることができ、大変、日々幸せな充実した時間を過ごさせていただきました。僕がセンターにコンバートされる時に、長嶋監督から「ジョー・ディマジオのような選手を目指せ」というお言葉をいただいてですね。当時の僕はジョー・ディマジオの名前はもちろん知っていましたけれども、ヤンキースというチームがどのようなチームなのか、まだぼんやりとしかイメージになかった。けれども、その言葉がずっと僕の頭の中に残り、一度、1999年のオフだったと思うんですけど。その年は日本シリーズに進出できずにちょっと時間ができて、ニューヨークのヤンキースの試合を一回でもいいから見てみたいと思って来たのですが、そこで見たヤンキースのゲームが僕にとっては大きな何か運命だった気がします。
 やはり、ヤンキースの選手たちが放っている空気といいますか、ヤンキースタジアムの雰囲気。これは本当に一言で言い表せないぐらいの衝撃を受けました。3年後に自分がフリーエージェントになるということは分かっていたのですが、3年後にこのチームに欲しいと言われるぐらいの選手になりたいという気持ちで、その後、ジャイアンツの4番バッターとしてやってきました。
 そして3年後、10年前に、運良くヤンキースにも誘っていただきました。当時は本当に悩んで、移籍することに対して苦しい思いもしましたが、憧れのヤンキースのユニホームに袖を通して7年間もプレーできたことは、僕にとって本当に最高の出来事であったし、また、最高に幸せな日々でした。ヤンキースの一員として、初めてヤンキースタジアムでプレーした日のこと、そしてヤンキースの選手として最後にヤンキースタジアムでプレーした日のことは、おそらく一生忘れることなく僕の心の中にずっとあり続けると思います。
 その後もエンゼルス、アスレチックス、そして今年のレイズと、1年ずつでしたが、プレーする機会をいただきました。なかなか力になりきれない部分もありましたが、素晴らしいチームでプレーできたことは、僕の人生にとっては非常に大きな意味のあることだったと思います。
 ここ1年、2年ぐらいから成績も若干下がり気味になってきました。5、6年ぐらい前から両膝の調子もあまり良くない時期があって手術もしまして、体力的にも多少下り坂な中で、手術した後も何とかだましだましやってこれたと思いますが、きょうこういう形で皆さまにご報告することになりました。この20年間、本当にたくさんのファンの方に応援していただき、それが僕の大きな力になりました。そして、素晴らしい指導者の方と出会い、素晴らしいチームメートと一緒にプレーすることができたこと、僕にとってはおそらく一番大きな誇りじゃないかなと思います。
 今後につきましては、まだ本当に(引退を)はっきり決めてから時間がたっていませんので、少しここでゆっくりしながら考えていきたいと思っております。本当に20年間、ファンの皆さま、温かい声援を下さり、ありがとうございました。以上です。
(スポニチ)


松井 巨人でかなえる監督の夢 帰国後に渡辺会長訪問へ
 ゴジラの「第2章」が始まる。今年8月にレイズを自由契約となった松井秀喜外野手(38)が27日(日本時間28日)、ニューヨーク市内のホテルで引退会見を行った。今後は白紙としながらも、将来的に監督就任の夢があることを示唆。その際には、古巣の巨人の監督となることが確実視される。「ミスタープロ野球」長嶋茂雄終身名誉監督(76)に育てられ、日米通算507本塁打を記録した希代のスラッガー。今度は監督として次代のスターを生み出す。
 45分間に及んだ引退会見は松井が愛したニューヨークのホテルで行われた。少しふっくらした顔つき。目は終始、潤んでいた。日本で10年、米国で10年。計20年のプロ生活を終える感慨、寂しさ、安どが、代わる代わる浮かび上がった。
 しかし、今後、指導者を務める可能性について質問が飛んだ時。その目は真剣さを増した。
 「現時点では、そういう想像は正直していません。ただ、もしかして将来、そういう縁があるかもしれない」。言葉を選び、現在は白紙と強調。それでも、自身の経験をファンや選手に「いい形で伝えていければいい」という強い思いがある。
 プロ入り後、松井は2人の監督から大きな影響を受けた。巨人時代の長嶋茂雄氏とヤンキース時代のジョー・トーリ氏(現大リーグ機構副会長)。特に、長嶋氏については最も印象に残る時間を「2人で素振りした時間が、僕にとって一番印象に残っているかもしれない」と語った。どんな試合でも、本塁打でもない。尊敬する監督との練習が脳裏に刻まれていた。
 かつて親しい知人に「プロ野球選手で、監督の仕事に興味を持たない人はいない」と語ったことがある。温厚そうに見えて、根っからの負けず嫌い。野球への真摯(しんし)な取り組み、人望の厚さなど、指導者として多くの適正条件を備えている。期待通りの結果を残せなかったエンゼルス、アスレチックス、レイズ時代についても「僕の人生にとっては非常に大きな意味のあること」と経験値の足しにした。
 監督・松井秀喜。それは巨人しかない。今でも「相思相愛」の関係にあり、松井は会見で巨人を「ふるさと」と呼び、変わらぬ愛着をあらためて口にした。巨人も、日本復帰の際には獲得に動く方針を決め、70人の支配下登録枠も松井のために一つ空け、来年2月まで待つ姿勢を見せていた。
 今後について、松井は「自分なりにいろいろなことを勉強しながら、自分が経験したものを、いい形で(伝える)土台を作る」と語り、当面は充電期間に入る。早ければ年明けにも帰国。その際には引退の経過説明や今後の意見交換のため、渡辺恒雄球団会長(86)の元を訪れる予定だ。
 02年11月1日。松井は大リーグ移籍を表明する会見で「命を懸けてやる」と決意を語った。日本最高のスラッガーとして戦い続けた10年間。この日の会見では「命懸けのプレーも一つの終わりを迎えた」と言った。38歳でユニホームを脱ぐ決断を下したことに後悔はない。ただ、自身に掛ける言葉を聞かれると「もう少しいい選手になれたかも」と本音が口をついた。その思いは、指導者として「ゴジラ2世」を育てることにつながる。松井の夢には続きがある。
(スポニチ)

日米の、グラウンドの中でも外でも、多くの人に愛される、とても紳士的で素晴らしい選手でした。
松井さん、20年間、お疲れ様でした。o(;∇;)o
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