自我が幻という事を認めようとすると、ある種の強烈な不安が沸き上がることがあります。
「でも、ちゃんと考えないと現状が悪化するかもしれない。」
「考えたり、感じたりする私が居なければいずれ大失敗するかもしれない。」
というような不安。
これは、自我によって現実をコントロールしているという意識があるせいで起こる不安です。
通常私たちは、自発的な思考と行動という原因がまず起こり、その結果として様々な形に現実が変化すると思っています。
「私がこう考えたから、こんな結果になった。」
「私があそこで行動したから、こんな結果になった。」
始めに原因があり、それに応じた結果が出る。
考えたり、行動をするという原因を自分がコントロールしているので、原因を通じて予想される結果を選べる。
つまりこれが自由意志がある、という考え方です。
しかし悟りを開き、原因となる思考に何の力も意味も無い事に気づくと、いずれ認識がこのように変わります。
「こんな結果が出てきた。そういえば、あの時こう考えてたっけ。」
「こんな結果が出てきた。そういえば、あんな行動してたっけ。」
一見すると順番が変わっただけですが、先ほどの認識とは大きな違いがあります。
自我の幻に気づいた後、結果にとって原因はただの後付けに過ぎなくなります。
考えたり、行動することの全てが全自動的に発生している事に気づく。
すると、原因をコントロールしようとする事の無意味さを知るんです。
次第に原因に振りまわされなくなり、不安に思うことも、悩み苦しむ事もなくなります。
私たちは自由意志があると思っていたからこそ、逆に不自由な思いをしていたんです。
なので、悟りを開くと自由意志がそもそも必要ないという事が分かります。
まあ簡単に言うと、自我が幻なんだから「私」の自由意志も幻って事です(笑)
おっと・・
(´自Д我)「自由意志がないなんて嫌っす!自分で選べない人生なんて意味ないっす!」
ちゃんと話を聞いてください。
自由意志がないんではなく、必要がないんです。
確かに原因をコントロール出来ないなんて、何だか不安で怖いですよね。
しかし、ご安心を。
自由意志が必要ないことに気づくというのは、 それゆえに究極に自由だと気づくって事なんです。
続きます・・・。
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呉「GUの女神。」
(´自Д我)「・・・きゃりーぱみゅぱみゅって事すか?」
呉「・・・思いついたから言ってみた。」
呉「思いついたから言ってみた・・!」
呉「・・・・思いついたから(´自Д我)「もうやめるっすよ!(涙)」
「でも、ちゃんと考えないと現状が悪化するかもしれない。」
「考えたり、感じたりする私が居なければいずれ大失敗するかもしれない。」
というような不安。
これは、自我によって現実をコントロールしているという意識があるせいで起こる不安です。
通常私たちは、自発的な思考と行動という原因がまず起こり、その結果として様々な形に現実が変化すると思っています。
「私がこう考えたから、こんな結果になった。」
「私があそこで行動したから、こんな結果になった。」
始めに原因があり、それに応じた結果が出る。
考えたり、行動をするという原因を自分がコントロールしているので、原因を通じて予想される結果を選べる。
つまりこれが自由意志がある、という考え方です。
しかし悟りを開き、原因となる思考に何の力も意味も無い事に気づくと、いずれ認識がこのように変わります。
「こんな結果が出てきた。そういえば、あの時こう考えてたっけ。」
「こんな結果が出てきた。そういえば、あんな行動してたっけ。」
一見すると順番が変わっただけですが、先ほどの認識とは大きな違いがあります。
自我の幻に気づいた後、結果にとって原因はただの後付けに過ぎなくなります。
考えたり、行動することの全てが全自動的に発生している事に気づく。
すると、原因をコントロールしようとする事の無意味さを知るんです。
次第に原因に振りまわされなくなり、不安に思うことも、悩み苦しむ事もなくなります。
私たちは自由意志があると思っていたからこそ、逆に不自由な思いをしていたんです。
なので、悟りを開くと自由意志がそもそも必要ないという事が分かります。
まあ簡単に言うと、自我が幻なんだから「私」の自由意志も幻って事です(笑)
おっと・・
(´自Д我)「自由意志がないなんて嫌っす!自分で選べない人生なんて意味ないっす!」
ちゃんと話を聞いてください。
自由意志がないんではなく、必要がないんです。
確かに原因をコントロール出来ないなんて、何だか不安で怖いですよね。
しかし、ご安心を。
自由意志が必要ないことに気づくというのは、 それゆえに究極に自由だと気づくって事なんです。
続きます・・・。
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呉「GUの女神。」
(´自Д我)「・・・きゃりーぱみゅぱみゅって事すか?」
呉「・・・思いついたから言ってみた。」
呉「思いついたから言ってみた・・!」
呉「・・・・思いついたから(´自Д我)「もうやめるっすよ!(涙)」
記事更新をもっと頻繁にしてもらいたいです。
特にこのテーマは興味があるので続きが早く
読みたいです。
よろしくお願いします。
質問なんですが
他人はいない世界は自分の意識の投影だから全部自分だと言う人。
他人はいるがみんな違う世界を生きていると言う人。
悟った人はだいたいこの二つに分かれますがどちらなんですかね^_^;
いやぁ嬉しいです。ありがとうございます。
記事更新については、ノリのいい時に一気に書くので、不定期になって申し訳ないです^^;
自由意志は、確かに大きなテーマだと思います。
新しい記事を書きましたので、よかったらまた見てみてください。
>>たやさん
コメントありがとうございます!
「私」の視点から見ると、他人はもちろん居ますよね。
これが、自我が幻と気づくと「私」がなくなるんです。
「私」があるから他人が居るわけで、そうなると自分も他人も「私」の認識する何もかもが無くなります。
つまり、全てが自分と言えます。
後者についても、自我から見ると他人はいるけども、それぞれ違った世界(自我)で生きているといえます。
要は自我の無い側から見るか(前者)、自我のある側から見るか(後者)という視点の違いなので、どちらか一方が正しいということも無いんです。
自由意思の記事読みました。面白かったです。気になったのは引き寄せや神との対話にあったような人生は自分で自由に創造出来るというのは違うんですかね?
創造すらしないでただ起こった事を楽しめばいいのかな?^_^;
僕は神との対話を読んだことないんで、もし聞きたい趣旨と違ってたらすいません(笑)
自由意思の正体2でも書いたように、創造(結果)は常に起きているんです。
それを起こすのに、自分の意思(原因)が必要ないと分かると、今まで無理だと思っていた事でもすぐに創造出来るようになり、だからこそ究極に自由だと気づくって事なんです。
なので、ただ楽しめるならもちろんそれでOKですが、「自分で創造したい」と思っている自我や、「楽しまなきゃ」と思っている自我に気づくというのが近いかなと思います。