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-日本は自己の国際的評判を冷静に知っていた-(GHQ焚書図書開封 第64回)

2017-05-20 13:51:49 | 近現代史
GHQ焚書図書開封 第64回
-日本は自己の国際的評判を冷静に知っていた-
 昭和7年(1932年)に刊行された「日米戦う可きか」に書かれた①排日の動き②アメリカ合衆国における日本人の生活③対日世論④日米関係の前途。
1913年(大正2年)の第1次「排日土地法」成立以降、日米戦の淵源のひとつとなったと言われるサンフランシスコにおける移民の排斥・排日運動はすさまじかった。後に、昭和天皇はこれが、日米戦争の原因のひとつであったと表現されている。
排日感情は、①日本人は好戦国民である。彼らのアメリカ移住は侵略である。②日本人の迅速な繁殖は白人米国主義の脅威である。③日本人は低級な労働者である。④日本人は労働者たることをもって満足せず、直ちに事業家となって白人の領域を侵す。⑤日本人は労銀を本国に送金するにより地方の経済状態を攪乱する。⑥日本人は好んで土地を買う故、良田美地は結局彼らの所有に帰することになろう。⑦日本人は日本人区域を作って群居する弊がある。⑧日本人は白人区域に侵入し、好ましからざる東洋人の空気を伝播する。⑨日本の文化及び日本人の長所は認めるとするも、日本人によりて代表される東洋文明侵略は純潔なる西洋文明を破壊する。等々であった。
日本人移民に対しては、1913年第1次、1920年2次「排日土地法」により、アメリカが諸外国に対して宣言した綺麗ごと「人権保護、平等主義、機会均等」の原則は一切適用されなかった。
排日移民法、移民禁止法、黄白人結婚禁止法の存在は、中学、高校、大学では人種差別がなかったが、いったん社会人になると徹底的に差別されるという悪質なものであった。また、日本人はヨーロッパ人と違い帰化できない人種とされていた。
アメリカは民主主義の国、人権の国と言われているが、黒人に選挙権を与える公民権法が確立したのは、日本よりずっと遅れて1965年である。
ジョン・ヘイにより1899年からヨーロッパに対してはモンロー主義を唱えていたが、東洋に対してはモンロー主義を貫かなかったアメリカのダブルスタンダードの現実。満州を(MANCHURIA)巡って、国際連盟(LEAGUE OF NATIONS)に加盟していないアメリカは日本への誹謗中傷を続けた。
人種的差別撤廃提案(じんしゅてきさべつてっぱいていあん Racial Equality Proposal)とは、第一次世界大戦後のパリ講和会議の国際連盟委員会において、大日本帝国が主張した、人種差別の撤廃を明記するべきという提案を指す。イギリス帝国の自治領であったオーストラリアやアメリカ合衆国上院が強硬に反対し、ウッドロウ・ウィルソンアメリカ合衆国大統領の裁定で否決された。国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界で最初である。大東亜共栄圏の思想は、アジアは日本の領域のモンロー主義、アフリカはヨーロッパ領域のモンロー主義、南米はアメリカ領域のモンロー主義を認めるというものであった。
言葉は本を出版することによって、夢はみることによって、悪夢は正視することから逃げようとすることによって現実を引き寄せることがある。
当時から、外交のしぶとさのなかった日本。
日本への挑発ともいえる経済封鎖を大統領に提言していたハーバード大学総長や著名大学の総長達。
石原莞爾は中部支那から南部支那への戦線拡大(南進)に反対し、北進してドイツと組んでソ連を挟み撃ちにすべきと考えていたが、コミンテルンの手先であったゾルゲと尾崎秀美に翻弄され南進政策をとった近衛内閣がアメリカの参戦を許す結果をもたらした。
日本からアメリカに生糸を、アメリカから日本へ綿花をという双務貿易の経済関係を無視して、日本へ軍事的圧力をかけ始めたのはアメリカの謎である。(経済封鎖は同時に逆経済封鎖をももたらすのものである)
参考文献:「日米戰う可きか -世界知識増刊-」新光社
ジャンル:
学習
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