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黛信彦の時事ブログ

浜矩子語録(47)自動車産業はなぜポシャる?

2009年02月22日 | 浜矩子語録
(危機に立つ世界経済 どうなる日本-09)
以下は2月18日、碧南商工会議所主催の新春経済講演会で、演題『危機に立つ世界経済 どうなる日本』を講演した、妖艶なエコノミスト・浜矩子の語録第九編である。

浜矩子は、第七編で示した「恐慌が、ここからどうなるか?」を規定する2つのキー・ワードのうち第一の「自分さえ良ければ病」について第七、第八編で合成の誤謬(ごびゅう)という哲学的解説を与えたが、本編と次編では、キー・ワードの第二「生存の論理」について、やや宗教的解説を試みる。

~・~・~
このように、合成の誤謬がどう展開するか、我々は良く見定めなければなりません。
もうひとつの、これからを決める要因として「生存の論理」ということを申し上げました。
これで何を言わんとしているかということですが、
今、合成の誤謬の落とし穴に落ちて行く、「自分さえ良ければ病」に侵されて、カネがモノの世界を置いてきぼりにして暴走する。こういう展開を見ておりますと、経済活動を営む人間たちの「生存の論理」、行動原理と言い換えても宜しいかと存じますが、それがおかしくなっていることがあると思います。
何故こんなにも金融は本来の役割を忘れて行くのか?大暴走するのか?何故我々は容易に「自分さえ良ければ病」に罹ってしまうのか?
そこには何か、本質的なところ、基本的なところで生存の論理、行動原理の調子がおかしくなっていると思えてならない。

いろいろな形でどこかに行き過ぎがある。
いろんな側面でそれは出ていますけれども、カネとモノの決別関係ということを申し上げてきましたが、一方で、モノの世界がどうなって来ていたか?ということも、生存の論理との関わりで目を向けておく必要があります。
というのは、カネはモノを置いてきぼりにして暴走し始めましたが、じゃあ、モノの世界の方もまた、カネの世界と決別して一人歩きを、「カネは勝手に一人で出て行った、じゃあモノのほうもカネのことは構わず、気軽な一人暮らしをしよう」という風に決め込むことが出来るかというと、そういう状況ではない。
それどころか、モノの世界がこれほどまでにカネの世界に依存する状況になったことはいまだかつてなかった。

「経済の金融化がすごく進んじゃった世の中なんだなあ!」とつくづく思いますが、それを非常に思わしめる現象が何かといえば、それは自動車産業という産業が恐慌、そして世界同時不況という展開の中でこれだけ大打撃を受けているというところに問題が本質的な形で現れていると思えるのです。
おそらく皆様も、何故自動車産業が、何故急激に影響を、ダメージを受けるのか?アメリカの金融機関たちの暴走の結果として、どうして自動車産業というモノづくりに、かくも集中的に痛みがやってくるのか?と思われることでしょう。
その凄まじさに唖然とするわけですが、よく考えれば、当然の結果だったといえるのです。
と申しますのは、自動車産業ほど金融に依存して販売を伸ばし、生産台数を伸ばしてきた産業はないからでございます。
いまどき、自動車を現金で買う人は殆どおりません。自動車ローンというものがあったからこそ、自動車産業が世界規模でここまで大きくなってきたといえるのです。
とりわけ、アメリカの自動車産業は然りでございます。
あの自動車ローンというのがなければ、アメリカの自動車販売台数は絶対にあのレベルに行くはずはありません。

ゼロ金利という手段を使ってまでも、本来ならば買える資産能力・資金力のない人に、ローンで自動車を買わせるということをやることによってガンガンガンガン自動車産業は自らを膨張させていったのです。
ということですから、金融がポシャれば、自動車産業がポシャるのは当たり前のことだったわけです。

金融という「泡ぶく」が存在することを前提に、モノづくりも業容を膨らませてきたわけで、ここにも「生存の論理」がおかしくなってきた側面を感じ取れます。
住宅産業も同じく、ローンに依存している、だからこそ、今の状況の中で非常に手痛い打撃を蒙っている。 
~・~・~ 以下、次編

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