日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

ヨハネによる福音書5:1-8「いやすキリスト」

2016-02-05 10:01:00 | 説教
イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」
 
ヨハネによる福音書5:8

ベトザタの池での病人の癒しの話。多くの人に親しまれている箇所です。
この池は口語訳では「ベテスダ」と呼ばれていて、キリスト教関係の病院の名前に用いられたりしています。この池には5つの回廊があり、そこには病気の人や体に障がいを持った人が大勢横たわっていました。間欠泉のようなものだったのでしょうか、池の水が動く時、最初にその水に入った人は癒されると言われていたからです。ここにいた38年間病気で苦しんでいた人とイエスさまが出会います。
長い間患い癒されることがなかった人に向かって、イエスさまは「良くなりたいか」と問いかけられます。この男の心にある希望を捜し出しているようです。
そして、関わろうとしている主イエスの姿があります。
金子みすずさんの詩に「さびしいとき」という詩があります。
私がさびしいときに
よその人は知らないの

私がさびしいときに
お友だちが笑うの

私がさびしいときに
お母さんややさしいの

私がさびしいときに
仏さまはさびしいの

さびしいという状態は友人や知人があまりいないことを指すことだけではないと思います。というのは、周りに人がいても、人は誰でもみんなさびしいと思うことがあるのではないかと考えるのです。誰にも言えないような深い悩みを抱えた時にも孤立感はあるでしょう。
絶望と孤立は人を床に伏させます。
 今日読みました聖書もそのような物語のひとつです。ベトサダの池のところに38年間病気のまま横たわっている人がいたというのです。
38年という歳月がどれだけの苦痛をその人に与えたのかは想像するに余りあります。しかもその人は、イエスが声をかけたとき「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです」と言っています。ベトサダの池の水が動くときに池の中に入れば病気がいやされるという言い伝えでした。でも、38年の長い間その人を助け起こして池に入れてくれる人は誰もいなかったというのです。ということは、その人はひとりぼっちのさびしさの中にずっと生き続けていました。
  主は孤立させる方ではありません。私達の苦しみや悲しみに近づいてこられるのです。
「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」(7節)という言葉にこの人の、そして周りの人々の呻きを聞き取ることができます。このことは、ユダヤ教はじめ多くの宗教の限界を暗示しています。多少の恵みがそこにあるので、近づくことができないのです。
 
 1節には、イエスは、「エルサレムに上られた」とあり、先立って近づき、「良くなりたいのか」と声をかけて下さり、「起き上がれ」と命じて下さるのです。恵みそのものが私たちに近づいてくださる。
神の恵みそのものが決定的に、向こうから到来してくださり、私たちの目の前に共にいて下さり、私たちを助けて下さるからです。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのである」(17節)。神は6日間で天地万物を創造され、7日目に休まれたと創世記に語られています。しかし、毎週休むとは書かれていません。主イエスは、苦しむ人がいれば、休まずに働く救い主です。神は休むことなく働いておられる。それを受けて主イエスも、「わたしも働く」と言われます。
 内面的孤立状態から解放されたこと、ここに奇跡があります。
 絶望し、そのことに慣れきっているこの男の前に突然、主イエスが表れて、「良くなりたいのか」と言われます。
そして、突然、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と命じられました。
ここに「起き上がる」「床を担ぐ」「歩く」という三つの動詞による命令が語られたのですが、この三つの言葉は、絶望の中から新しい出発をする象徴的な言葉であると思います。
 「起き上がらせる」エゲイローという言葉は、元来は、「目を覚まさせる」という意味でありました。さらに「死人を復活させる」というのも、この言葉なのです。
絶望しきったこの男を、主イエスが立ち上がらされたということは、あたかも死人を復活させるような出来事であったのです。
朝起きる時、その日にしんどいことがあると起き上がるのが苦しい時がありますが、主が共にいてくださることに目覚めると、起き上がる力を頂けるのです。
 次は「床を担げ」という言葉です。この「床」というのは、これまで彼がそこに横たわっていた場所、いわば彼を担いでいたものです。これからは反対に、お前がそれを担ぐのだということです。もうそれには頼ることはないということを示しています。
 この<床>は、ただ死を待つしかないという絶望に身を任せて横たわっていた所、絶望へと向かわせた場所です。そして、孤独に身を横たえる場所です。彼が主と出会うまでには、それに縛られていました。
 担げはアイローというギリシャ語です。
 移動の意味もありますが、取り除くという意味があります。
 三つ目は、「歩く」ということです。歩き始める。もうその同じ場にはいない。そこから前進していくのです。これについては、特に説明の必要もないと思います。
 彼をしばりつけていたものに支配されずに、それを自由に動かせること。
 この人は命じられたように、<床を担いで歩きだした>のです。
私たちが年老いた時、床で過ごす時間が長くなってくるかもしれません。床を担ぐというのは、その床に縛らずに、その床を神の栄光を表す場にするということです。
 イエス様の力なしにはそれは不可能なことです。
 関わりが生まれる場所、エンパワーメントが引き出される場所、復活の備えの場所へ床を運んでいく。そんな施設や家庭になるように、イエス様からお力を頂きましょう。


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