[国立東医療センターの北側の窓からの展望]
やっとひと夏が終わろうとしている今日この頃です。
古賀市に「独立行政法人国立病院機構 福岡東医療センター 」という長ったらしい名前の病院があります。
そこへ、今年のお盆前に入院しました。
その体験記をちょっと書き留めておこうと思います。
入院したのが、8月10日でした。そして、退院が8月18日です。
入院としては短期のうちに入るでしょう。
入院したところは外科の西病棟2階です。
この入院日は、ちょっとした行き違いがあって8月3日が一週間ずれて、この10日の日になったのです。
この話をすると担当医である井口友宏先生、松本婦長(師長)さん、そして、これを知っている看護婦さんも皆笑ってしまうでしょう。
つまり、8月3日の日はお昼ご飯だけご馳走になって三時過ぎに帰ることになったからです。そして、8月10日に正式に入院したのです。(笑)
さて、僕の病名はここでは述べませんが、井口先生、曰く、「まだ若いから早めに手術した方がいいでしょう」と、ご説明されました。
それで、手術となれば下腹を切開することになるので麻酔についても気になります。なるべく痛くないにこしたことはありません。
その件について井口先生に質問してみると、「下半身麻酔ですね。」と言われました。「脊椎麻酔はとても痛いって聞いていますが・・・」と、尋ねてみると、「う〜ん・・・」と、はっきり言われません。
[入院直後の手術前の待機部屋]
そして、入院当日に、看護婦さんから色々な説明があり、その後、麻酔担当の勝谷裕子先生が病室に来られてから麻酔の説明がありましたので、僕が「痛くありませんか?」と聞いたら、笑って、「点滴と一緒に軽く寝てしまう程度の麻酔を入れます。そして、その後に脊椎麻酔を打ちますから、すぐ寝てしまうのでわからないと思います。」と言われました。
それを聞いて、「それを早く教えてくれれば・・入院する時まで、麻酔の注射が痛いだろうな〜と心配しなくよかったのに!」と言ったら、勝谷先生は笑っていました。
手術前日の儀式としては、下腹部の体毛を剃ることになっていますが、実は僕の場合、三回もこれを行ったのです。
一回目は、例の8月3日です。お昼ご飯を食べた後に電気バリカンみたいなので刈りましたが、途中、電池が切れてしまったのですが、まあこんなものでいいだろう?ということで理由あってそれが終わってからお風呂に入って・・・その日は帰ることになったのです。(笑)
そして、二回目は8月10日の日です。前回と人も入れ替わって刈りなおしをしてくれたわけですが、恥ずかしさは・・・もう、まな板の鯉ですから、どうでもよくなりました。
しかし、こんな可愛い女性に下腹部を見られるのはちょっと恥ずかしいものですが、看護婦さんが仕事として平然とされているのを見ていると僕も患者として毅然としておかねばと思いました。(笑)
このあと、井口先生が刈り具合を見に来られて、「あれ・・・切開するところの毛が刈られていない!」と言われて、看護婦さんを呼び、刈りなおしを指示されました。
と言うことで、三度目の草刈をすることになったのです。何故か?一回目も二回目も、下腹部の深部ばかりが刈られて、切開する上のところが刈られてなかったのです。(笑)
すると、今度の三回目のときは念のためか?別の看護婦さんも立会いで「これでいいよね!」と、一緒に見に来られました。多くの若くて素敵な看護婦さんに僕のすべてを見られて僕は苦笑い!
[病室の南窓から三日月山を観る]
さて、手術までは、夜の九時から水と食べ物は摂れません。これは、なんとか辛抱できました。
翌朝は浣腸してすべてを出し切ってから手術に臨む事になりました。これも、ちょつぴり恥ずかしいことですがもう平然として粛々と儀式に臨みました。(笑)
いよいよ、僕の手術の番となって案内が入り、術着を着用した僕は何故か車椅子で向かうことになりました。(別に歩けるのだけど)
手術室には看護婦さんが四人ほどいて準備を進めてくれました。医療事故防止の為、僕の左腕にはバーコードの入った腕輪が付いており、それを読み取って本人確認の作業と念のために名前と生年月日を聞かれました。
これは、術後も投薬とかの場合もすでに本人であることがわかっていても必ず名前の確認はすることになっているのです。
それは医療事故防止の対応でしょう。やはり、三交代というシステムや入院患者の入れ替わりを考えるとやはり双方にとって面倒でもそうしないといけないのでしょう。
麻酔の点滴挿入が始まると、腕に軽い冷たいような冷痛とその挿入感がわかりました。そして、しばらくすると、すっかり意識を失っていたようです。
その後、「大藪さん!」と言う声が聞こえました。恐らく術後、手術室で井口先生が声を掛けられたと思います。
そして、それに気が付いて目が覚めたのですが、そこでまた寝てしまいました。たいていの人はそうなるみたいです。
そして、もう一度、「大藪さん!」と声を掛けられたときは、病室に戻っていました。そのときは、新鮮でとてもすがすがしい・・・新しくこの世に出現したような神秘的な気分でした。
「とてもすがすがしい気持ちです・・・ありがとうございます。」と言ったのを覚えています。本当に不思議なくらい感謝の気持ちで一杯でした。
それからしばらくして、下半身がまったく感じられないことに気付きました。その後、時間が経つと親指がなんだか少し動かせる感じが出てきて、時間の経過と共に麻酔が取れてきました。
こんな状況ですから手術の痛みは皆無でした。
[静かな西二階病棟]
しかし、その後待ち受けていたのはとてもつらい腰の痛みです。
それはとても辛い体験でした。
術後の切開部は動かない限り痛くないのですが、今まで寝たきりだったのか?とても腰が痛いのです。恐らく麻酔によりまったく寝返り打つことなく、不動だったのが原因だと思います。
なんとか、身体を少しずらしたりして、その辛さから逃れようとしたのですが、身体を動かせば傷口の痛みでたまらない状況でした。
この状態では咳とくしゃみは厳禁です。それだけで傷口にもろに影響して激痛が走ります。術後のひと晩は、それはそれはとても長い一日でした。
一時間が一日に感じるほど長く感じました。辛いときの時間の過ぎる速度がとても遅くてかないませんでした。
術後は熱が少し出ましたが、看護婦さんが氷枕をすぐに用意してくださいました。解熱剤は使用しませんでした。傷の化膿に対する身体の免疫力が働いているから恐らく解熱剤はなるべく使用しないほうがいいのでしょう。
投薬等は体力維持の点滴と化膿防止の抗生物質投与だけで、点滴も朝には終わりました。その後はまったく薬を使うことはありませんでした。
朝の朝食が待ち通しかったのですが、井口先生の診察で許可が出ないと食べられないということで、朝の九時ごろまでオワズケでした。とても待ち通しかったですね。
朝の診察で井口先生は、傷口をふさぐようにシール形状のとても大きなワッペンみたいなのを貼ってくれました。これは、通気性があって水をはじく絆創膏みたいで、これだとシャワーがすぐに浴びれるとのことでした。
診察が終わっても、ご飯を食べても良いとは言わなかったので、「先生、朝食とってもいいんですか?」と、質問したら、「ああ、僕が来たのでもう良いよ!」と笑って言われました。
この朝食から退院するまで、入院中、僕はずっと出された食事は完食しました。僕の場合は消化器系統はまったく大丈夫でしたので、何でも食べられたのです。
体力が回復するにつれて、内緒ですがおやつやアイスクリームも食べました。(笑)
[五階西側病棟から玄海国定公園 相の島を見る]
完全看護体制での看護状況として、術後の看護婦さんは心からとても親切で、色々と身の回りから世話をしてくれました。後でわかったのですが、身体の自由が利かないレベルに応じてサポートを色々してくれますから、元気になるにつれて自分で済ませることが多くなるとなんだか寂しくなるものです。
患者さんの中には、高齢者が幼稚園児のように駄々をこねて、ひとりの看護婦さんに甘えてかなり困らせる人もいましたが、そういう場合は、看護婦さんたちが何人か寄り添って宥めている光景を見ることがありました。
看護婦の皆さんはとってもチームワークがいいのです。
忙しい中でも患者さんにやさしく対応している看護婦さんを見ていると、やはり、ここの看護教育はすごく出来ているなあ〜と感心しました。やはり、リーダーとしての婦長さんが素晴らしいからでしょう。
[五階西側からの曇り空の展望]
日々、快復に向かうにつれて、看護婦さんや医師の行動に目を向けることになりました。観察していると色々とあってとても楽しいものです。
そうそう、術後の朝は、お湯で絞ったタオルをもらったので顔を気持ちよく拭くことが出来ました。そして、シャワー初日のとき、看護婦さんから「付き添ってお風呂場で背中を流してあげましょうか?」と、聞かれたとき、とてもきれいな方だったので、一瞬ためらったのですが、こんなチャンスはそうないなあ〜と思って喜んでお願いしました。
まあ、娘に背中を流してもらったこともないのに・・・と思いつつ、患者としての役得でとても楽しかったです。(笑)
しかし、これも当たり前のことですがその日だけでした。だから僕としては、毎回、手術したい気分でした。(笑)
元気になるにつれて、病室で横になっているばかりでは、身体が鈍ってしまいます。そこで病棟を歩いてあちこちの病棟を散歩することにしました。
僕のいる病棟は二階ですが、ここから海は見えません。それで、食堂にいた知らない他科の看護婦さんに、「上の階に登れば海が見えませんか?」と聞いたのですが、わからないとのことでした。
その看護婦さん、まだ新人でそんな余裕は無かったみたいです。(笑)
それで、担当の看護婦さんに許可をもらって最上階の五階まで行ってみました。もちろん、海は西側に見えるはずですから一番奥の西側まで歩いて行きました。
[五階西側のロビーから外を見る]
そこには、ソファーとテーブルが置いてあって、ちょっとした休憩する場所になっていました。そこからは予想通り素晴らしい展望が望めました。
好天気に恵まれて海がきらきらと輝いています。ちょうど、夕日を見る為に何人かの女性患者さんもおられました。
[五階西側のロビーから夕日を眺める]
僕は、カメラを用意していたので夕日が落ちるのをしばし待ちました。
そして、期待通りの美しい光景を眺めることができました。
[五階西側のロビーから日没を眺める]
まるで病院にいないみたいです。ちょっとした観光気分です。のちに、僕はここに来るとき看護婦さんに行く先を告げるときは、「ちょっとオプショナルツアーに行ってきます」とか、「展望台に行ってきます」などと、ふざけて告げて行きました。最初の頃、看護婦さんたちは、「はあ?」と言っていましたが、意味がわかるとすぐに了解するようになりました。
ある日のこと、ここで、ある男性の入院患者さんと出会うことになります。
その方と僕だけの二人きりのとき、色々と話をすることになりました。
話しかけてきたのは先方の患者さんです。だいたい、入院患者同士が他人でありながら話し始めるときは、相手の身体の具合や病状から、話がポツリ、ポツリと始まります。
その方は、自分から先に自分の病気を説明し始めました。病名が悪性リンパ腫とのことでしたが、それにしてもとても元気そうに見えるのです。
でも、本人曰く、「私の癌は、あちこちに転移するから、白血病と同じで切開して取り除くなんてことは出来ないから、抗がん剤を打つだけです。医者からは余命あと四年ぐらいだろうと言われています。」と包み隠さず話されました。
病院に入って驚いたのは、多くの皆さんはこんな調子で自分が何癌に掛かっているのかをはっきり言われる方が多いのです。
僕はそうですかと頷いて黙っていました。
すると、今度、「余命宣告されたときは、どうしても納得できなかった・・・」といった風に言われました。
[五階西側のロビーからラストの日没を眺める]
それで僕は、思わず、「失礼ですが今お幾つですか?」と尋ねました。
するとその方は、「75歳になります。」と答えてきました。であれば、79歳まで生きられるということだと合点しました。
そして考えあぐねた僕は、「それは贅沢な悩みですね」みたいなことを言ってしまったのです。そして、その言い訳をするみたいに、「僕の父は直腸癌から転移して、胃、肝臓がやられて五十五歳で亡くなりました。だから、僕の場合はすでに、父の年齢を六つも超えていますから、父より長生き出来た分、いつでも死ぬことに対してはなんとも思いません。ただ、まだ、あと下の娘が大学生ですからちょっと気掛かりですが」と、言い添えました。
この僕の変な物言いを聞いたところから、その方との会話がますます広がっていきました。たとえば、余命幾ばくかと言われたことに対して、それが不満であれば、つまり、その年月が少ないと感じるならば、では一体、あと何年生きたいのか?ということになります。
それは切りがないというものでしょう。
生きるということが、決して時間ではなくどう生きるのか?が大切なのであって、限られた時間であればそれなりに生きるだけのことでしょう。
池田晶子さんが、「人は癌によって死ぬのではなく・・・」と言われていることは、まさに、そのことだと思います。
人はこの世に生まれた時から限られた時間でしか生きれないのですね。
この方は、僕との会話をまたすることを望まれていたようで、もう一度お会いすることができました。二回目は少し深い話をしましたがとても楽しまれたみたいで明るい別れが出来ました。
二回目の話の内容は、先月書いた書評(
書物からの回帰)の般若心経に関する見解を引用しました。
[深夜のスタッフステーション看護師は病室へ]
術後、四日目からは僕の体内リズムがよみがえって、夜、十時には寝付いて、朝の二時から三時に起床して、いつものように読書がしたくなりました。ドストエフスキーの「罪と罰」を再読しょうと図書館から借りて本を持ち込んでいました。
しかし、病室内は消灯が義務付けられています。
それで、看護婦さんの詰め所である「スタッフセンター」に行きました。すると、看護婦さんがすぐに寄ってきて、「眠れないのですか?」とやさしく尋ねてきました。
それで、看護婦さんに、「いや、僕は、元々こんな時間に起きて本を読んでいるので、そのリズムが戻ってきたのですが、部屋が暗いので本が読めなくて困っているのです。どこか読むところありませんか?」と申し出しました。
すると僕の場合、病棟内であればどこでも行っても良いという許可条件の患者であったので、一階の急患待合ロビーが明るくてそこだと通常誰もいないから、そこで読めばということになって、その日から退院する日まで毎回、朝の六時までその場所で読書をしてから部屋に戻ることになりました。
そこにいると、交代の看護婦さんなどと出会うことになりますが、その都度、皆さんから、「眠れないんですか?」と心配して声を掛けられました。
ある日、婦長(師長)さんともそこで出会って同じことを聞かれたのですが、そうでないことを説明すると安心しきってそこで色々とお話しました。僕は婦長さんは夜勤はないのだと思っていましたが、そうではなく、深夜から早朝の間、病棟の婦長さんたちが、交代で責任体制をしいているのを知りました。
そして、松本婦長さんに「外科の看護婦さんたちは、とてもよく仕事をされますし、患者さんに対しての看護が手厚いので感心しています。」と話しました。特に、医師も看護師も、患者に対して上から目線をとらない姿勢は、この病院がCS(顧客満足度)に取り組んでいるのを物語っていました。
[電子カルテ体制になってからの看護師の作業]
国立病院も、そうした取り組みをしないと存在価値が問われる時代になっているようです。でも、それはいい方向だと思います。ある患者が看護婦さんに向かって、「あんたたちの仕事はサービス業だ!」と、僕の前で失礼なことを言っていましたが、確かにそうした一面はありますが、そうであるとしても、それは人として最善のサービス業といえるでしょう。
婦長さんとの会話の中で「婦長の帽子も無くなったのですよ」といわれた時、改めて、そういえば看護婦さんも全員、帽子を着用していないので、患者に対するそうした医療従事者との壁を取り払った試みには合点がいきました。
医師もとてもよく病室に来て重症度に応じて頻繁に丁寧に見てくださっていました。僕の担当医の井口先生は、あまり喋らないのですが、パッと来て、「大藪さんどうですか?」とスパッと登場するのですが、なんだか、幕末の勤皇の志士みたいで、侍着と日本刀を持たせたらとても似合う先生でした。
下腹の切開部も八センチ程度でしたが、どうしたことか、ちょうど皺が寄っているところに沿って切っているのであまり目立ちません。傷口を目立たないようにそうしたのかは聞かずじまいでした。
退院日が近づくと、退院の予定確認がありました。先生が、「抜糸してすぐその日の退院か、それとも、その翌日でもどちらでもどちらでもいいですよ」、と言われました。
それで、「ずっと、ここにいたいのですが・・・仕事も溜まっているので、残念ですけど18日でお願いします」とお願いしました。確かに、病院と自宅ではやはり体に対する負荷が全然違いますので、本当は何もなければもう一日いた方がよかったかもしれません。
退院後は、疲れてまた睡眠リズムが狂って、幾度寝ても眠たい毎日が続きました。そうした中で、やっとドストエフスキーの罪と罰の本を読み終えました。これについては、今月中に書評(
書物からの回帰)に投稿する予定です。
[退院後に見た我が家の前公園の鶏頭の花]
退院して変わったといえば、私の場合は消化器系統の病気ではなかったですが、今後あと五十九年間しか生きれないので飲食生活態度を変えることにしました。酒は三日に一度、食事は腹八分目ということで、今までの毎日の飲酒と腹十二部目の大食を止めることにしました。どうせ生きるなら元気でいないと意味が無い!
[退院後に見た我が家の前公園の生気を感じる花]
何故かと言うと、入院時の同室の患者さんを見て反面教師になったのです。
でも、いつまでそれが続けられるか?疑問ですね。(笑)
さて、最後に、私の担当の医師も婦長(師長)さんも、ここでは実名で記載しました。すでに病院のHPや掲示板にも顔写真と共に氏名も公表されていますし、公人でもありますので・・・そして、特に誹謗する内容でもないのでそうしました。(笑)
あらためて、東医療センターの外科40名以上のスタッフの皆様には大変お世話になったことをこの場を借りてお礼申し上げます。
ありがとうございました。
by 大 藪 光 政