京都で万祝(まいわい)

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信長ゆかりの地めぐり その12( 紫竹・紫野コース ) 大徳寺

2017-08-10 22:22:23 | 日記
 今回は、秀吉が信長の葬儀を挙行した!と言われている総見院について書きます。




 芳春院から元来た道を引き返して、芳春院の山門をくぐって右へ曲がる!と、上の写真にあるように綺麗な石畳の道が伸びています。その道を少し歩いて行くと、右の方に総見院の正門が見えてきます。






 この正門は、創建当時のままです。通説は、この総見院で秀吉が信長の葬儀を営んだ!と考えています。






 これに対して、大徳寺で小僧さんをしていたことのある倉部きよたか先生『 京都人は日本一薄情か 』の97頁で、信長の葬式は大徳寺の住持が出向いて船岡山の麓で行われた!と主張しています。




 その理由として、倉部先生は、本能寺の変があった1582年当時、大徳寺が葬式寺ではなかった!ことをあげています。

 しかし、ボク個人は、通説が言うように信長の葬儀は大徳寺で行われた!のではないか?と思っています。そう考える理由は2つあります。

 ひとつは、このブログで上述したように、本能寺の変があった1582年から遡ること110年くらい前に起きた応仁の乱の時と、その応仁の乱の少し前に大徳寺は2度焼失している!からです。このことは、当時の大徳寺の住持も当然知っていたはず!で、秀吉から主君である信長の葬儀を挙行してくれ!と頼まれた時に、この2度の焼失のことが頭をよぎった!のではないか?と思います。

 もうひとつは、より現実的な問題として、本能寺の変から遡ること11年前の1571年に、信長が比叡山延暦寺を焼き討ちしている!からです。






 秀吉も、この比叡山の焼き討ちには参加しています。なので、もしも、信長の葬儀を大徳寺で行わなかったら、怒り狂った信長の家来である秀吉が、延暦寺のように大徳寺も焼き討ちにするのではないか?という高度な危機感を大徳寺の住持が持っていた!としても、おかしくはない!のではないか?

 仮にそうだ!とすると、大徳寺が葬式寺ではなかった!などとは言っている場合ではなかった!のではないか?と思います。

 ちなみに、信長の葬儀が大徳寺で行われたことが契機となって、それ以後、戦国大名たちにとって、大徳寺に塔頭(たっちゅう)をもつ!ことが一種のステータスになりました。前回紹介した前田家の菩提寺の芳春院や次回に紹介する予定の細川家の菩提所の高桐院が代表例です。

 なお、大徳寺には22の塔頭(たっちゅう)がありますが、芳春院やこの信長の葬儀が行われた総見院を含めて、そのほとんどが非公開です! 常時拝観できるのは、次回に紹介する高桐院を含めて4つだけです。

 しかし、そのおかげで、大徳寺の境内にはとても落ち着いた静かな空気が流れています。なので、京都の街をのんびりと散策したい!と思っている人たちにとっては、ほとんどが非公開であることは全く気にならない!と思います。

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