植民地主義と抵抗

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雑誌「前夜」を読み返す(2)

2016年03月02日 | 帝国主義・植民地
連続する戦時体制の遺産/封印される戦争責任(中野敏男、「前夜」2、P186)


前回、小熊英二の「<民主>と<愛国>」が描く「戦後神話」への批判からはじめた中野敏男。

第二回、中野は「戦後思想」が敗戦直後のその状況にどのような思想的課題を見いだしたのかに注目する。そうすることによって、「戦後」に抗する「戦後思想」が何に対して抗しているのかという意味を探る、というのが本稿の狙いであったといえるだろう。

△「八・一五革命」という神話

- 中野はまず、丸山真男の系譜を受け継ぐ石田雄の1995年における言説を取り上げながら、戦後民主主義の担い手たちが敗戦直後に「大きな断絶」があったという実感を当為的に高め、戦後の価値を堅く守ろうとした事実を確認した。

「私は『わだつみの世代』の一人として『学徒出陣』によって戦争に参加し、敗戦当時は陸軍少尉であった。欧米帝国主義からの『東亜の解放』という戦争目的を信ずる軍国青年として『臣忠報国』の努力をして来た私は、敗戦によってアイデンティティの危機に直面した。国全体の価値が180度転換した戦後の日本で生きる意味を見いだすためには、戦前の日本を社会科学的に分析することが必要だと私は考えた」。(石田雄)

- しかし、このような意識を前提として、少なくとも断絶を「全否定」することはできないということを確認しつつ、中野は近年の研究で明らかにされてきた敗戦前後の事情を見ながら、「180度転換」という認識にある種の事後解釈やすり替えがあったのではないか、という疑問を呈する。

 中野は、戦後民主主義者の代表者としての丸山真男と宮沢俊義という二人を取り上げ、「超国家主義の論理と心理」(丸山)、「八学革命と国民主権主義」(宮沢)によって敗戦の日(1945年8月15日)を一大変革の日と認める共通認識を提出したと見る。

丸山真男は上書において、「日本軍国主義に終止符が打たれた八・一五の日はまた同時に、超国家主義の全体系の基盤たる国体がその絶対性を喪失し今や始めて自由なる主体となった日本国民にその運命を委ねた日でもあったのである」という見解を提出した。一見するとやはり、戦後日本において「八・一五」という日が、新たな民主主義の出発点となったことを「確認」させてくれる。

・しかし、これに対して異を唱えたのが米谷匡史の研究業績である。

 米谷によれば、丸山の上記のような認識は、実は新憲法の骨格が「憲法改正草案要綱」として発表された1946年3月6日以降になって生まれたものであるというのだ。

※ 丸山自身の回想においても明らかなように、丸山は戦時においては、「一君万民」思想としての天皇制に一定の評価を与えており、戦後においても最初期には立憲君主制を肯定する方向で憲法研究委員会(委員長は宮沢)は憲法改正討議に参加している。

丸山はこのような時期を経て、GHQ民政局起草の草案をベースとした「憲法改正草案要綱」の発表後、すなわち1946年3月においてはじめて「主権在民」と「象徴天皇制」を基調とする憲法改正を現実的なものとして考え出したのである。しかし、自身の著作で丸山は、このような自己認識を前年の八月にまで遡らせている。カラクリがあったのである。

・このような丸山の思想状況をかんがみるとき、戦後民主主義の原点ともいうべき丸山の思想は、実は占領軍の主導下においてそこに天皇・為政者たちが加担する形で作られた「戦後秩序」ともいうべき新憲法を「革命の所産」として、正当化し受容する仕方で登場することになる。しかし、現実的には丸山がこのような考えに及んだのは46年3月であり、はじめからこのような「革命」を目論んだわけでは決してなかったのである。

 だからといって、上記の認識は、丸山が憲法改正の意味を天皇主権から国民主権への主権の移譲という形で認識し、その意識を国民の中に確立することによって、国民の主体としての自覚を促そうとするものであったということを否認するものに繋がるものではない。問題は、「八・一五」における「180度転換」という「神話」を作り上げることによって、戦時と戦後の「断絶」を人々に認識させ、戦後秩序の中にある戦時からの「連続性」から目をそらせ、連続を抱擁する道として開かれたところにあるのだ。

-敗戦と国家主権に対する認識(天皇制と「国体」の存廃をめぐる事態の推移)

 ・戦争末期に見られる戦争終結の動きは「近衛上奏文」にもみられるが支配層に「国体」を守るため、という認識が先にありきでポツダム宣言を受諾するに至る。

 ・天皇裕仁の戦争責任を追及するアメリカ国内、連合国の世論は天皇制存続において予断を許さない状況であった。が、46年1月にGHQは天皇訴追せずと決定する。
 この間、共産党以外のところからの天皇制廃絶の動きがもっと強く公然と起こっていれば事態が変わっていた可能性もあった。

 ・このような攻防を考えると、46年3月に発表された「憲法改正草案要綱」は、日本政府の松本案に比べると明らかに進んだ民主主義志向を基調にしてはいたが、一方では天皇訴追問題の決着がつき、天皇制の維持が確定した結果としての産物なのである。

小結

このような「天皇制民主主義」、君主制に民主制を接ぎ木した奇妙な政体の成立は、「国体」護持という為政者の目論み、そして天皇の権威を利用し円滑な占領統治を完遂しようとしたGHQの思惑と一致した。かくして、天皇の「人間宣言」は天皇の意志が民主主義と直結するという方向で編まれ、マッカーサーもそれを歓迎する声明を発表することによって、戦時下の為政者とGHQの思惑によって「天皇制下の民主主義」という戦時期との連続の相が生まれたのである。

 この過程に天皇制が組み込まれた新憲法体制を、戦後民主主義は「革命」と呼び、その断絶の神話の下いくつもの連続の現実を見落としてしまったのである。

△「穏健派リベラル」という騙り

-残された記録、フィルムを見る限り、敗戦後の日本の様子は革命や解放を迎えた時の民衆とは雰囲気を異にしている。

 たとえば、1945年8月15日を解放の日として迎えたソウルでは対極旗や「独立万歳」のプラカードなどをもって歓喜し、他方パリではナチ協力者と見られる女性の髪を鋏で切り落としている。さらにイタリア・ミラノでは、パルチザンによって逮捕、銃殺され姿態をさらすムッソリーニがいる。

 このような「戦後」を想起するとき、日本では天皇の全国巡幸に歓呼する日本人の情景の異質性が際立ってくる。他国の「戦後」の善悪云々を抜きにして日本とこの他国との「戦後」の質の差は、決して無視することはできない参照項となる。

・三木清の獄死という「事件」
 三木清は、官憲によって捉えられ戦争終結を迎えた後にも誰一人救出に向かうものもおらず、獄中において病死した。
※ロイター通信はその際、「思想取締りの秘密警察はなお活動を続けており、反皇室的宣伝を行う共産主義者は容赦なく逮捕する」と当然のように語る山崎巌内相へのインタビューに成功

これは、マッカーサーによる「政治・信教ならびに民権の自由に対する制限の撤廃、政治犯の釈放」という指令の一契機となり、当時の東久邇宮内閣はこれを実行できずに翌日5日に総辞職、そして幣原喜重朗内閣のもと、10日には徳田久一をはじめとする500名の「政治犯」が釈放されるにいたる。

 中野はこのような事象を挙げながら理想主義的な民主主義が進んだ一時期としての敗戦直後は、それほど単純ではないということ、そこにすでに旧体制を維持しようとする力が、また変革を都合よくねじ曲げ引き戻そうとする力が、さまざまな形で実際に強くはたいていたことを示唆しているのある。そして、単純な「断絶」などではなく重症なのは、実際に「何が連続してしまったのか」を見極めることだと指摘する。

・中野はさらに次のように指摘する。「軍国主義者VS穏健派」という対立が「決して絶対的なものではなく、多くは外交と軍事にわたる戦術やタイミングについての些細な意見の相違に過ぎなかった(P191)」
 
中野は、ここで「穏健派」という名づけ自体が実は、「国体護持」を名分に天皇と共に戦争責任を回避しようとする彼らの生き残り戦略に好都合であったとして、さらにそれをGHQが利用しようとするものであると指摘している。現実的にこのような「穏健派」の中から戦後の日本政治を動かす保守本流が生まれてきていることは、戦時体制が戦後体制へと連続するもっとも太い通路の在処を示している、というのである。(たとえば吉田茂など)

・そして、言論出版界、言論人たちに対しても戦時における自分たちの戦争協力を隠ぺい、あるいは正当化する足場となったことについて語った。

 「君らのような出版者はいまにでもぶっつぶしてやる」という虚像、戦時をひたすら暴力と退廃をもって描きだし、それとの「断絶」を装うことで延命をはかる、もう一つの連続の問題に関して問題意識を提出した。(主に知識人の問題)
 
吉田裕「軍人グループ」によって力でねじ伏せられていく中で戦争への道が準備されたという歴史認識:「多くの人々は、後者のグループ(抑圧された人々)に自己の心情を仮託することによって、戦争責任や加害責任という苦い現実を飲み下す、いわば『糖衣』としてきた」

 こうして、多くの日本人が自分たちも被害者であったと気づきだすと、その被害意識という『糖衣』に包まれて、他民族への加害の記憶の方は逆にその苦さを薄めていく。自分は確かにひどいことをした。しかし自分もまた、『被害者』なのだと。このような被害意識が敗戦直後の状況に生まれ、ときの「民族」をめぐる言説に影を落とすことになる。

△ 民族問題の潜在と顕在

-「ナショナリズム不在現象」

・敗戦直後のナショナリズム価値暴落(丸山真男)

戦時の国体ナショナリズムの極端な自己中心主義への反動から、敗戦直後の民主主義という真っ直ぐな「普遍主義」への「思想状況の振り子現象」
 
※石母田正の弟からの書簡「敗戦直後には『愛国』だなんてそんなに簡単に言えなくなっていたのだ。」

・他方、『自由』『平等』という普遍主義的価値にアクセントがおかれたはずの戦後改革を、旧植民地出身の在日朝鮮人や中国人の立場から見直してみる。

1945年12月、衆議院議員選挙法改正:「婦人参政権」、その代償として在日朝鮮人、中国人は参政権否定、「日本国憲法」が施行される前日の1947年5月2日、最後の勅令=「外国人登録令」:憲法による人権保護対象から外される。憲法における「国民」規定

 中野は、このような状況に対してのさしたる批判も抵抗も生まれなかった日本を「普遍主義的価値」を重視していた時代として表象できるのか?という疑問を呈す。
つまり、「民族主義」というものが、その実質の一部において国民主義の形で、生きのびていたのであった。「民族主義」は言説上は、しばらく対決が後方に退いたに過ぎないが、この対決があいまいにされる中で、「民衆の加害という意味での戦争責任の問題」も直視されなくなり、「糖衣」につつまれた戦争観が前面に立ちあがってくる。=民族の加害という認識に封印をしてしまうのである

-ふたたび人々の意識にのぼる「民族」の問題

竹内好「ナショナリズムとの対決をよける心理には、戦争責任の自覚の不足があらわれている」

敗戦後の思想が対決すべき問題の核心である。このようなことから前回みた「民主と愛国の両立」という語りがこのような点を隠ぺいされていることが気づかされる。
 しかし、このような問題意識は、51年から立ち上がったものなのだが、それは竹内が言うような「戦争責任の自覚」を通してではなく、冷戦状況の進行と占領政策の「逆コース」という「民族の屈辱」の経験(被害者意識に駆り立てられた民族問題の再覚醒)として現れることになる。

石母田正(50年の講演)
 「日本民族の隷属」からの脱却のための「民族の発見」

民族の被害という意識が全面解禁される。敗戦直後にはどうしても「加害」を連想させるものであった「民族」というシンボルが数年後には「被害を語る重要な拠り所」に変貌しているのである。

まとめとして

 中野が今回、提出した問題意識はこうである。「民族」「戦争責任」など戦後に何よりも問題として浮上せねばならなかった中心テーマが、敗戦直後からの状況変化の中で実はずっと危うい隘路に追い込まれ続けていたということ。

①敗戦直後の民主改革の「普遍主義」という装いの下、民族問題との対決が避けられ潜在化
→加害意識が最小限に封印
②「逆コース」を背景に被害という形で民族問題が再興
→民族の被害意識が全面的に解禁、加害の記憶、戦争責任はさらに後方に追いやられる
 
 このような過程は、「普遍主義」の立場に立って戦後民主主義の主体的担い手となって、その次に占領という異民族支配に抗する民族的な抵抗主体になり、このプロセスを通じて日本の戦後に国民的主体のアイデンティティを確かめるようになった。 戦後日本思想史上、「主体性」という問題が浮上するが、このような「主体性」は実は戦後のこのような状況の中で「引き受けられた」ものである。
 →「普遍主義」:進歩派ナショナリズムも占領と東京裁判の被害体験に固執する保守派ナショナリズムのも、自治は同じ基盤の上に成立しその根を共有しているのである。(帝国主義・植民地主義・戦争責任を引き受け、日本を割り割く道が開かれることはなかった)

 では、このような「戦後」の中で、どのような試行錯誤があったのか。(それは次回からの文で明らかになるであろう)
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