ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

黄葉(もみち)

2016-12-05 22:05:16 | Weblog



 12月5日

 晴れた日が続き、雨の日があって、また晴れた日が続き、少し寒くなって、穏やかな秋の日から、穏やかな冬の日へと続いていく。
 それでいいのだ。何事も起きないことが、私の望みなのだから・・・。

 10日ほど前のこと、ふと見たテレビを、最後まで見てしまった。
 それは、”足元の小宇宙”と題された、NHKのドキュメンタリー番組だった。
 京都は北のはずれにある嵯峨野(さがの)、その観光地の名所などからは少し外れた農村地帯・・・広く畑が続く田園風景の中に、麦わら帽子をかぶったおばあさんが一人、あぜ道のそばに座り込んでは、手元だけを動かしている。
 周りの草花を、写生しているのだ。
 何時間も、その場所に座り込んだまま、画用紙に草花の姿を写しとっていく。
 時々、草花たちに、まるで小さな子供たちと遊んでいるかのように、話しかけ、時には親しみを込めて、少し乱暴な口もきく。
 それも、その相手はといえば、だれも見向きもしないような雑草たちである。
 おばあさんは、日がな一日をそこで過ごし、夕方になると、写生したスケッチブックを抱えて、家に戻って行く。

 その白髪のおばあさんは、まだ足腰もしっかりしていて、話し言葉も若々しかった。
 彼女、甲斐信枝さんは85歳。今までに、こうした草花の絵本を30冊以上も出している、有名な絵本作家であり、そのうちの一つ『雑草の暮らし』は、30年も続くロングセラーになっているという。
 私も、その名前を聞いたことがあり、絵本も手に取ったことはあるのだけれども、それ以上の詳しいことは、まして嵯峨野でこうした生活を送られていることなど、知らないことばかりだった。
 彼女が出したそうした絵本の数々は、観察や科学的事実に基づくもので、”科学絵本”と呼ばれているとのことである。

 彼女は、広島の出身で、ご結婚された後、家族とともに東京に住んでいたのだけれども、その後、この京都の嵯峨野に移り住んできたとのことである。
 東京にいたころ、いろいろなことに悩み苦しんでいた時に、こうした雑草たちの生き方を観察しているうちに、人生観が変わってきて、これらの雑草たちが素晴らしい財産だと思えるようになってきたという。
 毎日の町の暮らしの中で、グズグズと悩んでいることが、いかに小さなことかと、そこで一番大切なことは、雑草たちのようにそこに”安住(あんじゅう)”することだ、と思えるようになったというのだ。
 私は、テレビ画面に向かって、思わずうなずいてしまった。 

 確かに、ある一つのことを求めて、努力することは必要だけれども、”あれもしたいしこれもしたい、あれも欲しいしこれも欲しい”などと、すべての自分の思いをかなえようとすることなど、土台無理な話であり、そんなことは夢と呼べるものではなく、身の程知らずの欲張りなだけで、結局は何一つ得ることができなくなって、そんな自分がつらくなるだけなのだ。
 私たち年寄りは、こうした若いころの経験から、余分な期待はしないようになり、多大な労力をかけて失敗するよりは、今のままでいたほうが良いと思うようになるのだ。
 無駄な欲望をぎりぎりに削って行けば、つまるところは、すべての執着を脱ぎ捨てていって、とにかく生きているだけでもありがたいと思えるようになり、さらにもう一つ加えるならば、なんの代わり映えもしない”毎日の静かな暮らし”があれば良いし、それらが保たれている今こそが、一番幸せな時だと思えるのかもしれない。
 もちろん私にも、まだまだ年寄りとしての艱難辛苦(かんなんしんく)の時が待ち構えているのだろうが、例え自分の周りから様々なものが失われていったとしても、大げさに言えば、人間の尊厳を保ちながら生きてさえいればいいし、そして、それが生から死への”静けさ”の中に続いていけば、それだけで十分だと思ってはいるのだが。

 しかし、そこが矛盾の多い人間の難しいところであって、様々に頭をよぎる煩悩(ぼんのう)の世界からは、そう簡単には離れることはできないだろうし、その時がくれば、その辛さに耐えきれずひとり泣き叫び、とんだ醜態(しゅうたい)をさらすことになるのかもしれないが、たとえそうした苦行(くぎょう)の時が待ちかまえているとしても、すべての物事に執着することなく、まずは”生きている今を”と心に念じるように思ってはいるのだが。

 ともかく、この番組を見て、そして彼女から、私は、生きる意味を知る先達(せんだつ)の言葉として、ありがたくいただき、そうあるべく受け止めたのだった。
 自分の心のうちに、”安住する”こと・・・。 


 ところで、話は変わるけれども、前々回の山歩きで、この秋の私の紅葉登山は終わったのだが、今では里の紅葉も終わりを迎えていて、里の秋の最後の一大ページェントでもある、イチョウの大木の黄葉が華やかな見ものになっていて、その根元には黄金色のカーペットが敷き詰められているかのようだ。
 やせた山地の斜面にある、わが家の庭には栄養分が乏しいためか、母が植えていたイチョウの木は、いつまでたっても大きくはならない。
 前回も書いたように、今わが家の庭の最後の紅葉は、コナラとドウダンツツジの残り葉だけである。それでは、他の常緑樹は紅葉(黄葉)し落葉しないのかというと、すべての木は、いっせいに色を変え落葉するか、あるいは少しずつ色を変え落葉していくかの違いがあるにせよ、すべての木は落葉樹なのである.
 マツやスギなどの針葉樹も、そしてちょうど今が時期であるヒノキも、細かい黄色や茶色の葉を大量に落としているし、いつも濃い緑の葉をつけている、ツバキやサザンカなども時々葉を落としているし、中でもシャクナゲの葉は、その幾つかが鮮やかな黄色になって、見方にもよるが、これもまたなかなかに良い秋の黄葉風景ではある。(写真上)
 
 そこで思い出したのはあの”万葉集”の時代である。
 この古代の歌集の中におさめられた歌の中で、最も多いものは、秋の歌ということになっているらしいが、私たち現代人からすれば、秋すなわち”紅葉”と思い浮かべる所だが、この万葉集の中では、紅葉の美しさをたたえるような歌はそれほど多くはなく、むしろ今の都会生活ではなかなか見ることのできない、里山の植物である、ハギやススキ、オミナエシなどをうたったったものが目につくし、それも自分の思いや相手の気持ちにかけて読み込んだ、叙情歌が多く、単純な風景の叙景歌としてうたわれたものはそう多くはない。
 その中でも、私が気になる歌を一首。

” 一年(ひととせ)に ふたたび行かぬ 秋山を 心に飽かず 過ぐしつるかも”

(『万葉集』 巻第十「秋雑歌」 2218)

 私がこの歌を初めて知ったのは、注解がついただけの全二巻の角川文庫で、自分なりに解釈して、”すぐに盛りの時が終わってしまう、紅葉の秋山には、そう何度も行くことはないのだから、今が盛りのこの眺めを、心ゆくまでゆっくりと楽しんでいこう”、というふうに理解していた。
 それは、まるで前々回に書いたように、あの時の秋山の紅葉風景に、思わず座り込んでいた自分と重なるようなもので、古代の人も同じような気持ちでいたのかと、今も昔も変わらぬ、自然を愛する人の気持ちに思いをはせていたものだった。

 しかし、その後再び、万葉集の歌を通読することがあって、手持ちの現代語訳の文庫本(『万葉集』 一~四 伊藤博訳注 角川文庫)の他にもう一つ別の文庫本(『万葉集』 一~四 中西進訳注 講談社文庫)も手に入れて、この歌の解説の所を読んでみたのだが、いずれも同じような訳の意味だった。
 すなわち、”一年に二度とはめぐってこない秋山(の風情)なのに、満足することなく過ごしてしまったことだよ(心ゆくまで賞美しないまま過ごしてしまった)”
 
 つまりこの歌の意味は、この秋に私が計画していた、東北の秋山への遠征を(ヒザの痛みで)あきらめた時のような気持ちを歌ったものであり、その代わりにと、早めに九州に戻ってきて、九州の秋山の紅葉風景の中で、穏やかなひと時を過ごした時のような、満ち足りた気持ちをうたったものではないということなのだ。
 こうした、高名な万葉集学者のお二人が解釈なされたことが、正しいことはわかっていても、一方では、私が自分勝手に解釈したような、秋の光景の中にいる思いとしても、考えてみたいのだ。
 前々回に書いたように、青空の下、明るい緑から深紅の紅葉の木々に囲まれて、ただ一人で30分余りも過ごした、あのひと時のことが忘れられないからでもあるが。
 
 この歌は、詠(よ)み人知らずの、雑歌(ぞうか)の中におさめられた一首に過ぎないのだけれども、さらには、さしたる技巧も感じさせないさらりと詠まれた歌のようにも見えるから、あまり注目されることはないのだけれども、恋い慕いの叙情歌が多い万葉集の中では、少数派の叙景歌であるこの歌に私がひかれたのは、自分の年齢がそう感じさせたのかもしれない。
 ちなみに、この歌は、〝黄葉(もみち)を詠む”というくくりの中にいられた41首のうちの最後の一首であり、巻頭に載せられた二首は、この万葉集での最重要歌人の一人である柿本人麻呂(かきのもとひとまろ)の歌である。その項の中の一首をあげておくと。

”朝露に においそめたる あきやまに しぐれな降りそ ありわたるがね”

(自分なりに訳すれば、”朝露にきらめき、いろどられはじめた秋山に、時雨が降りかかってこの眺めを隠してしまわないように。このままの姿を見せていてほしい”ということになるだろうか。)
 それにしても、先にあげた、”詠み人知らず”の歌と比べれば、その歌の巧みな差は歴然としているのがわかる。それでも私は、あの詠み人知らず”の歌が好きなのだ。八丈島のキョン(昔のマンガ『こまわり君』に出てくる意味のない感嘆詞)。
 さらに、当時は紅葉よりも黄葉のほうが多く賛美されていたらしく、黄葉と書いて”もみち”と呼んでいたとのことである。(旺文社 古語辞典より)

 ついでに秋の情景を描いた歌で、私が最も心惹かれるのは、あまりにも有名すぎてここにあげるのは気がひけるけれども、『百人一首』にも選ばれている、あの『古今集』の在原業平(ありわらのなりひら)の一首。
 
”ちはやぶる 神代(かみよ)も聞かず 竜田川(たつたがわ) からくれないに 水くくるとは”

(『古典名歌集』 窪田空穂編 「古今集」 巻第五 秋の歌下 294 河出書房)

( 私なりに意訳すれば、”荒々しい風が吹き渡っていた、遠い昔の神々の時代のことでもないのに、今、この竜田川の水面を、韓紅(からくれない)色の紅葉が渦巻き流れているのだ”。”ちはやぶる”は神代の枕詞(まくらことば)であり、韓紅とは当時渡来したばかりの新色だとのことであり、さらに水にくくるとは、着物を染める時に、一部分を絞りに結んで川の水に浸していたとのことである。)

 この歌は、一度聞いたら忘れられない、古文名調子の一つだし、何より、眼前に見えるかのように、幾つもの鮮やかなモミジ葉が流れていく、情景の記述が素晴らしい。


 ところで、黄色い黄葉の話のついでに、私は昨日、黄色い柿の皮をむいて、干し柿にするために軒下に吊るした。(写真下)
 ビニール一袋に、かなり大きなシブ柿が19個入っていて、980円だった。
つまり一個あたり、50円にもなるから、最盛期の富有柿(ふゆうがき)の一番安い時と、たいして値段は変わらない。
 そんなシブ柿を、手間ひまかけて干し柿にするのは、余分な年寄りの遊びのようにも見えるだろうが、それは長年続いている、わが家の年中行事の一つになっていたからでもある。

 母が元気なころは、二人で一緒に出かけて行って、近くの誰も取らないシブ柿を取ってきては、母が皮をむいて一つ一つをひもに通して、軒下にずらりと並べて下げていたものだった。
 しかし母がなくなってからは、一人で行くのも面倒になり、自宅の木になる小さなシブ柿や、それに買ってきたものを加えて、数本くらいの干し柿を作っては、母の仏壇に供えていたのだが、年々面倒になってきて、今回はたまたまスーパーの店頭に置いてあって、思わず買ってきてしまったのだ。
 年を取れば、次第にいろいろなことをやっていくのが、おっくうに思えてくるようになる。
 しかし、長年続けてきた、四季折々の行事や習わしを繰り返していくことは、何も、日本人としての自分の在りようを知るためだとかいうような、こむずかしい理屈はつけなくても、ただだそれが、自分の習慣であり、そのことで、今年もまだ生きていると思えるだけでも十分なのだ。

 あのビートルズの名曲、「THE LONG AND WINDING ROAD」がポールの歌声で聞こえてくるような・・・。 

 
   


  


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