十数年前NiftyServeで常連をやっていたフォーラムでは、私は原稿用紙10枚程度の発言やコメントをときどきアップしていました。資料を調べたり本を一冊読んでから書くとどうしてもその程度の長さになってしまうのですが、その程度でも「長文ですねえ」と言われることがありました。パソコンの一画面(MS-DOS当時は約1000字くらい?)からはみ出すと長文、と思われていたようです。(ついでですが、そのころの「さっと一冊読んで内容のまとめと自分の考えをアップする」ことが、現在の一日一冊の読書日記に通じています)
やがて「長文」の“規格”は携帯画面の大きさになり、今ではツィッターですか。私には140字では短すぎるのですが今の世相では「原稿用紙1枚とは、長文ですねえ」と言われるようになるのかな?
【ただいま読書中】『つぶやき進化論 ──「140字」がGoogleを越える』エリック・クォルマン 著、 武村詠美・原田卓 訳、 イーストプレス、2010年、1500円(税別)
ビジネス書のスタイルで社会の現在と未来を論じる、という本です。アメリカンタイプのビジネス書は、平易な言い回しと章ごとのまとめ(箇条書き)、わかりやすいたとえや印象的な表現は何回でも使い回す、が特徴ですが、本書もそれはしっかり踏襲しています。
現代は「みんなの○○」の時代です。経済なら「みんなの経済(ソーシャルノミクス)」、政治なら「みんなの政治」(有権者の目線で自らの“ブランド”を作り上げる)。
バラク・オバマはソーシャルメディアを活用することで選挙戦を有利に戦い抜きました。数々の企業も、ソーシャルメディアを活用しているところは伸びる(あるいは不利な状況に陥らない)が、旧来のやり方にこだわるところは時代に置いていかれようとしています。そういった実例が本書では次々挙がられます。もちろん個人レベルでの活用例も。
本書で強調されるのは、時代が変わっていることです(現在形または現在完了進行形)。旧来の経済手法(宣伝戦略、販売戦略)はすでに終り、ソーシャルメディアによってソーシャルノミクスの時代になっていると著者は主張します。ここで重要なのは次の一文でしょう。「地域社会とは、ソーシャルメディアのおかげで、アメリカ社会全体である」。小さな地域社会で重要なのは、「他人からの評価」と「口コミ」です。田舎の小さな町ではそういった「古いパラダイム」がずっと生きていましたが、巨大な近代社会では人はみな「他人」であり権力とマスメディアがそれを束ねていました。それが、ネット上で駆使されるソーシャルメディアによってアメリカ社会全体が「地域社会」になったことによって、古いパラダイム(他人からの評価、口コミ)が新しい形で復活したのです。
ツィッターはいわば「雑談」です。特定の誰かに対して言うわけではなく、文章に起承転結があるわけでもなく、メールのように特定の作法や礼儀があるわけでもない。ところがその雑談が「その人が持つネットワーク」に乗せられた瞬間、“何か”が起きます(起きる場合があります)。雑談が発展し、無関係に見える話題が交錯し、その話が他の人の独自の人的ネットワークに転載され……いつしか社会に影響を与える、下手すると社会を変える運動へと発展することがあるのです。
ネットではもともと集合知による情報整理や管理が行なわれてきました。フリーソフトや「コピーレフト」運動やwikipediaなどがその好例でしょう。現在ツィッターを使っていてしかもそれで満足感を得ている人は、きっと本書の主張に諸手を挙げて賛成をするでしょう。「マスメディアとかプロの評論家とか、“権威”なんてクソ喰らえ」と。しかし、自分が知りたいあらゆることに対する判断が自前のネットワークで間に合う人はあまりいません。おそらく口コミによる「この人の判断は面白い/有用だ」といった評判が集まることによる、ある種の“権威”が育つことになるだろうと、私は予想します。(オークションでの出品者あるいは入札者の相互評価をイメージしています。どんなに盛んに情報発信をしていても、根拠がないクズ情報ばかりの人は“信頼”されないだろう、と。で、その評価をするのは「みんな」です。ただそうなると、政治的・経済的・宗教的な理由などで、特定個人の“信用”を落とすための組織的な動き、というものが生じる恐れがあるでしょうね)
すこし視点を拡大してみます。マスコミは「第4の権力」とも呼ばれますが、マスコミを含めて「権力」の構造が、現在ドラスティックに変化しているのかもしれません。ベンサムが考案したパノプティコン(一望監視装置)は近代的な権力構造を特徴づけているとミシェル・フーコーは考察しましたが、パノプティコンの前提(二分法によって人を分け(見る者/見られる者、正常な人間/正常ではない人間)、その片方が「権力」を握る)がソーシャルメディアの世界では崩れ去り、「みんな」が見る者であり見られる者である時代がやって来たのかもしれません。
もちろん「みんな」と言っても、「全員」のことではありません。これだけ異なったバックグラウンドを持った個人が集合して社会を構成している以上、「全員一致」はあり得ないでしょう。では多数決? それほど単純な話ではありません。
「自分の主張はすべてかなえられなければならない」はだだっ子の主張です。社会の中で独立した個人として生きる人間は「自分にとって優先順位の高いものが(100%ではなくても)どのくらい適えられたか」の“歩留まり”を重要視するでしょうし、さらに自分の要望や意見が通らなかった場合でも、そのことにきちんと耳を傾けてもらって考慮されたことがわかればそれなりの満足感を得るでしょう。それが「社会に生きる適正な個人」の態度です。そして、だだっ子ではなくてきちんとした個人をどのくらい“味方”につけられるか、が社会を動かしていく鍵になるでしょう。バラク・オバマ、あるいは本書に登場する“成功した”企業はそこをうまくやれたのです。(「きちんとしていない個人」の行き場は、たとえば新興宗教かな、と私は予想します)
“昨日までのコマーシャル”は「良いイメージ」を「全員」に売り込もうとするものでした。しかし“今日からのコマーシャル”は違います。「みんなの評判」を広め、それによってある割合(社会的な“臨界量”)以上の人に具体的な行動(その商品の購入、評価を口コミで広げる)をさせることが目的となります。つまり、より具体的に、より個人的でかつより社会的なコマーシャルでないといけないのです。
本書で重要視されているのは「ソーシャルメディアはビジネスになる」です。単なるバナー広告やクリック数のカウントではなくて、たとえば、無償であることが前提の個人が書いた文章のハイパーリンクに“価値”が見出されてスポンサーがつく、などの形で。で、私がここまで書いたネット上の書評、これもまた本書で扱われているソーシャルメディアの周縁に位置するものとは言えるでしょう。私が書いた本書の“評判”が誰かに読まれ、それが誰かに影響を与える、かもしれないし、与えないかもしれません(このブログを読んだ人の何パーセントかがこの本に興味を持ちそのさらに何パーセントかが購入するあるいは自分のブログやツィッターで触れることで影響が広がっていくことがあり得ます)。私の読書日記が世界を変えるとまでは主張しませんが、宝くじの一等が当たる程度には可能性があるかもしれません。で、どちらが嬉しいかと言えば、もちろん「世界を変える」方です。そして、そういった気持ち(の集積)がソーシャルメディアの推進力なのでしょう。
ただ、今回私はPDFファイル(「R+」からの献本というか、提供されたゲラ)で読んだので本書の内容をこちらに引用するのがやりにくかったのが残念でした。密接にハイパーリンクしていないと、ネットで繋がっている意味が薄くなってしまいますもの。










