戸惑い八景

見たり聞いたりしたモノを独自に味つけしました。

葬儀

2017年07月13日 | 想うこと

葬儀とは、儀式なのですね。

当たり前のことですが、儀式を執り行うことにより、故人との関係をはっきり認識させるのでしょう。

私にとって、親戚のおじさん、おばさんで、子供の頃からお世話になっておられる方が数名いらっしゃいます。

正確には、いらっしゃいました。

未だ、いらっしゃる方も何名かみえますが、亡くなられた方もおられます。

おじさん、おばさんというのは、父、母の兄弟姉妹ですから、何人もおられるわけです。

そのなかでも、とりわけて、自分が成長するのに大きく影響を受けた方というのも、何名かいらっしゃいます。

本当にお世話になりました。

感謝の言葉が尽くせぬほど、人生の節々で助けていただきました。

すでにお二人亡くなりまして、どちらも、自分が物心つく頃から大人になるまで関わらせていただいたました。

名古屋のおばちゃんと、三福寺のおじちゃんです。

三福寺のおじちゃんが今週の月曜日に亡くなわれまして、それが急でして、衝撃的でしたが、お家で寝かされているときから通夜、葬儀と関わることができまして、見送ることができました。

布団に寝かされているときも、お棺に納められたときも、荼毘に付されるときも、お顔を拝見するたびに、在りし日に色々語りかけられたことが思い出され、涙を抑えることができませんでした。

子供の頃から、色々なことを教えられたなと、深く関わってきたんだと、改めて思い知らされたのです。

いまは感謝の気持ちでいっぱいです。

それと同じくらい影響を受けて、関わりが深かった名古屋のおばちゃんは、晩年は神戸に住まわれていたこともあって、葬式にでることはできませんでした。

それも10年くらい前のことなんですが、一度、法事に出席したくらいで済んでしまいました。

不思議なことに、思い出はたくさんあるのに、ありすぎるほどたくさんあるのに、喪失感は胸に響いてこないのです。

三福寺のおじちゃんに対しては、もう会えないのだな、という思いが強くあります。

リアルに響いてくるのです。

身近におられたというのも大きいでしょう。

ですが、葬式の一連の流れの中で、この人との関係が徐々に失われていくというのを間近に感じて、生前の面影が強くあぶり出されてきた、ということがあるのではと考えるのです。

そういう点では、名古屋のおばちゃんとは、別れ方が中途半端なのかもしれません。

葬儀に出なかったために。

徐々に薄れていったのでしょう。

葬儀は、バッサリと関係を絶ち、新たな生活に向かうための儀式でもあるのでしょう。

 

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