比企の丘

彩の国・・・比企の丘・・・鳩山の村びと
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荒川の西遷・・・久下橋

2007-06-14 | 川と水と海と橋の風景
6月の1週に深谷のユリ祭りに行ったとき熊谷市と大里を結ぶ久下橋を渡りました。
久下は今から380年前の荒川の西遷の起点の場所です。

久下橋、2003年完成。778m、アプローチを含めると1500mを超えるようです。

大里町(現熊谷市)方面の河川敷から見てます。黄色く見えるのは河川敷内の麦畑。

4年前までの久下冠水橋です。282m、巾2.6m。(「きまぐれ旅写真館」より)

荒川の西遷の話です。
1590年、江戸に入府した徳川家康はインフラ(公共基盤)の整備の一環として江戸市中の後背地の関東平野の整備を始めます。それが利根川の東遷、荒川の西遷です。江戸の水害対策、農業用水、舟運のための流通網、新田の開発など多角的な開発事業です。利根川は1594年埼玉県羽生市川俣で締め切って銚子方面に川の方向を変えます。荒川は1629年熊谷市久下で締め切って入間川方面に瀬替えを行います。
この一大公共事業を仕切ったのが三河以来の家臣伊奈家(関東郡代)の一族です。利根川の東遷は初代伊奈熊蔵忠次、荒川の西遷は三代半十郎忠治が手がけます。一族は世襲で200年続きます。関八州に限り国交省、農水省、総務省、警察庁のトップだったのです。「百姓は生かさず殺さず」と言ったとかの時代に不思議にこの一族は悪くいわれていません。一揆もあまり起こっていないようです。それどころか顕彰碑や神社、備前堀、備前渠などの名前が残っています。埼玉県で一つ、茨城県で一つ、町の名前に冠せられていました。

この一族を追って行きますと面白いのですが今日はこれまです。
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