比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

冬の北海道・・・函館散策・・・五稜郭・・・江戸徳川幕府終焉の地

2014-02-07 | 道を行く 北海道
・・・彩風人の写真帳・・・
(比企の丘からブログのギャラリー開放です)
冬の北海道の旅・・・箱館(箱館)の風景です。いまは函館という地名表記になっていますが明治期までは箱館だったそうです。
今日は明治の夜明けの箱館戦争の舞台「五稜郭」がテーマなので[箱館」と表記していきます。

五稜郭・・・五角形の城郭‥・徳川幕府が幕末、安政の5カ国通商条約を結んだあとの最初の開港地箱館に作った西洋式城郭です。

五稜郭タワー(107m) 。こういう城郭は高いところから俯瞰してみなければその全貌をつかむことができません。

五稜郭タワーから見下ろした五稜郭・・・5つの稜・・・星形・・・ペンタゴン(5角形)・・・の郭です。

五稜郭・・・1857年着工、1866年築城、1869年廃城・・・わずか3年の命でした。戦国時代からの城郭スタイルにない洋式スタイルの城郭です。江戸幕府に関係していたフランス海軍の幹部が築城のノウハウや参考書籍を江戸幕府に渡していたといいます。これと同じ形式ので現存するのに三河奥殿藩大給松平家の飛び地領の長野県佐久市の龍岡城があります。大給松平氏は何を思ったのか1863年に藩をこちらに移転して田野口藩として、1864年五稜郭を着工、1867年竣工(いまは小学校に)。いずれも幕末、崩れゆく徳川幕府の・・・ドロ縄的なものに見えます。箱館の五稜郭は新政府軍の艦砲射撃にさらされ、なすすべもなかったといいます。佐久龍岡の五稜郭は大金を投じて(領民からの借金といいます)いちども戦火を交えることもなく廃城になりました。日本の城郭は大砲など西洋式新兵器が導入された幕末には何の役にも立たなかったようです。

復元された五稜郭内の旧箱館奉行所です。

戊辰戦争の終了後、新政府により1871年に解体、復元は2006年着工、2010年竣工。

※江戸末期から箱館戦争までの年譜を追ってみた。
1854年 日米和親条約締結、即、箱館湊にアメリカ船が入港、翌1855年、薪水、食料の穂補給港に。
1857年 五稜郭・・・築城に着工
1859年 安政の5カ国通商条約。箱館港は国際貿易港に。
1862年 江戸幕府は箱館奉行所を元町から亀田村に移転建築着工、
1864年 箱館奉行所竣工。
1866年 五稜郭竣工築城。
1868年 江戸城無血開城、榎本武揚率いる幕府海軍艦隊は引渡しを拒否、8月品川沖より北に。
    10月12日、仙台より土方歳三らを乗せて箱館へ。10月26日、箱館五稜郭を占領。
1869年 5月、江戸幕府軍は新政府軍の前に降伏。五稜郭廃城。
1871年 箱館奉行所解体。、

《五稜郭といえば箱館戦争、総司令官榎本武揚、総指揮官土方歳三・・・この二人の薀蓄です》

※榎本武揚(たけあき、ぶよう)・・・1836~1908年。江戸市中下谷御徒町で徳川家直参旗本の家に生まれる。父は備後国安那郡箱田村の庄屋格の百姓の次男、箱田良助・・・上京して学問を修め伊能忠敬の地図作成チームのスタッフであったというから優秀な人材であったと思われる。幕臣である榎本家の株を買い養子に。武揚は幼名釜次郎(兄の名は鍋太郎・・・食うに困らぬだろうという父親の配慮?)。釜次郎は秀才だったらしく昌平坂学問所、ジョン万次郎私塾、長崎海軍伝習所。オランダへ国費留学、軍事、航海、船舶、造船、国際法など学ぶ。幕府海軍総司令官。
箱館五稜郭陥落で囚われの身となるが新政府軍の総参謀黒田清隆、福沢諭吉の助命嘆願により死刑を免れ、1872年出獄。そのご新政府のロシア全権大使、文部大臣、農商務大臣、逓信大臣、外務大臣として活躍、1897年足尾鉱毒事件の責任をとって農商務相を辞任。以後、政府高官の椅子に座ることはなかった。
崩壊した徳川幕府の艦隊を率いて、必敗決死の闘いをして大勢の部下を犠牲にしたことを責める人もいるが、彼自身は運命に従ったのであろう。藩閥政治の明治時代にあって旧幕臣、しかも最後まで抵抗した反逆人を明治政府が要人として登用したのは、比類なき才能・知識とバランス感覚、人格の持ち主であったと思う。

土方歳三・・・1835~1869年、武州多摩石田村(現日野市)、百姓の出、新選組副長、1869年5月11日箱館五稜郭に死す。埋葬場所は不明という。
この人のことは、司馬遼太郎の長編小説「燃えよ剣」(文藝春秋社 1964年刊) が面白い・・・ので省略。歳三オタクの人はさらに子母澤寛著の「新鮮組始末記」(万里閣書房 1928年刊)・・・いまは中公文庫で出版。・・・が面白い。子母澤寛の祖父は元彰義隊士、箱館戦争で戦死。新聞記者の子母澤の丹念な聞き取り取材の随筆、記録、史談のような今でいうノンフィクション小説です。


わたしのブログフレンドの広島県神辺の「自然を尋ねる人」さんから函館・・・五稜郭の榎本武揚はわが町の出身者の倅だととのコメントをいただいた。
そういうことで《薀蓄》を長々と書くはめになってしまった。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿