金八先生と言う酷い学園フィクションへの賞賛と中傷の空しさ
最近は、大阪を始め義務教育学校の諸問題が顕著にクローズアップされているので少し書いておきたい事がある。日本で恐らく最も有名な学園ドラマであろう金八先生についてである。
学校教育が絡むと高い確率で出てくるのがドラマ「金八先生」(主演:武田鉄也)です。
無事にシリーズが完結した本作ですが、私は本作を不幸にも長く続いてしまったシリーズだと言う認識を持っております。
多くの年代の方が観てきたシリーズなので嫌でも今後もしばらくは比喩の対象となるでしょう。
お気づきの方も多いでしょうが、金八(以下、敬称略とさせて頂きます)の言う事は道義的に最もであり、非常に人間らしくあります。
反面、金八の考え方に以上に反感を覚えてる方も大勢います。何故でしょうか。
答えは意外と簡単だったりします。
『時代背景や状況が全く異なるのに、同じ心情や理念で教育の在り方(正義)を貫こうとした』
これは、第1作から最終作まで脚本や演出部分が似通ったスタッフだった事も原因にあります。
「なにいってんの?最近の作品はそれなりに過激になってるじゃん?第一、それが金八作品らしさだろ?」
と思われる方も当然いるでしょうが、それは物語の蛇足の部分がそうであるだけで、根幹部分は変化がありません。
数年前に天海ユキ主演の「女王の教室」と言うドラマが放送されました。
まあ、ドラマですからあくまでフィクションではあるのですが、21世紀に入っての「学園ドラマ」としては非常に秀逸で現実に則した完成度の高い作品であったと思っております。
金八がシリーズ初期(1979年)に置いて、その時代の背景に合わせて生徒たちに真正面に向かって行ったように
女王の教室の主人公もまた、21世紀と言う時代背景にマッチングした生徒との向かい方をしました。
成人した人間に置いてはその関係構造や精神理論などが極端にブレルと言う事は非常に少ないかと思われ、だからこそ橋田壽賀子の「渡る世間は鬼ばかり」は今日まで違和感なく続けてこれました。(勿論、完璧な構造とは言いませんが)
しかし、金八は思春期の少年・少女と言う一番厄介で難しい存在を主題として扱って居ながら大筋では初期のスタンス(金八流の道徳とでも言いますか)を延々と貫いてしまい、それが90年代ごろの作品から徐々に現実との乖離が発生してきた。
金八流の世界が通用しなくなって居たと言っても過言ではありません。
GTOの鬼塚も女王の教室も「その世代を非常に考慮した作風表現を施しています」
一方、金八は『教師と生徒が分かり合えば、黒板に向かって字の意味を教え、その意義と心の大切さを教えれば生徒も分かる』
大雑把に言えば、この様な考え方の中で30年も似た様なドラマを作って来たのです。
勿論、時代に合わせて不良のスタイルが代わったり、暴力事件の方向性を変えたりなどはありましたが、最終章まで根幹の部分は揺るぎませんでした。
これは、初期の作品を観ている人にとっては「金八先生らしい筋の通った教育方針を貫いた」と懐古心と感慨があったでしょうが、まさに現実にその世代を生きている若者たちに取ってみれば「何いってんのこのジジイ?」と言う感じになったのでは無いでしょうか。
金八の初期の頃の様な、家庭が割かししっかりしていて、ガキ大将みたいなのがいて、正義感が強いからこそ不良になってしまった、みたいな感じの人間など現代から見ると絶滅危惧種であり、現実はもっと異なる形式を作りだして居ました。
そして、その今ある現実を実際の金八先生のドラマに投影できないまま、しなかったままドラマは完結しました。
後に残ったのは、あんな時代もあったと懐かしむ高視聴率世代と何にもわかっちゃ居ない金八と言う教師が出演するドラマがあったよなと言う否定派です。
事実、テレビ局も認めるようにごく近年のシリーズの視聴率は散々なものであり、視聴率の悪さによってようやく「ああ、もう金八の考えは現代には通じないんだな」とスタッフに痛感させると言う皮肉な結果を生み出しました。(主人公が定年になると言う理由もあったのかも知れませんが)
本来、金八先生は有名作品として10年位で終わっておくのが一番鮮やかに記憶に残る作品だったのではないかと今では推察できます。時代の変化に適応できないまま大人気シリーズと言う事でダラダラと似通ったスタッフで作品作りをして来ましたが、それが結果敵に時代遅れの時代錯誤の学園ドラマと言うレッテルを張られてしまうと言う結果を作り出しました。
10年も経てば、その時代の学生の主義主張もスタンスも大きく変化します。その時に、次の時代にあった学園ドラマにバトンタッチするべきであると言う事に気づけていたら幸せだったのでしょう。
実際、私がリアルで中学生の頃に置いても金八先生はシリーズ制作が続いていましたが、金八の様な教師が実際の現場に居る事は無く、仮に出てきても直ぐに情熱を失う燃え尽きてしまう教師しか居ませんでした。
理想も無い、道理もない、正義も無い、何もない空虚で無秩序な思春期たちの子供たちが集う集合体、それが私が眼にした「学校」と言う媒体の現実だったのです。
ただ、一つだけ金八先生を庇うなら、何も彼自身がこのドラマを作りたかった訳でも、このドラマの脚本を書いていた訳でも無いのです。各々の時世に存在する公立中学校の時代考証をしっかり行い反映する事が全くできなくなった演出家たちの影がそこに見え隠れてしているのです。
時代劇ドラマや渡る世間はゴールテープを切るまで過度な罵詈雑言を受けなかったのは、「変化しない事こそが最も大切」だと言う大命題を持って居たからです。そして、これらの作品はその命題を見事にクリアーして終えました。
しかし、学園ドラマは真逆であり「時代に合わせて必ず『大きく詳細に』変化させなければ行けないと言う指名を帯びていた」これが本質です。
そして、その本質を最後まで掴めずに、しかし花の栄光時代の遺産を楯に無事に最終回を迎えました。初期作品以外は最終回まで時代に結合する事はできませんでしたが、「金八先生と言うそれこそ良くできた学園フィクションドラマ」としてはその歴史に名を刻みました。
もし、私が学園ドラマの脚本を書く事を許されるなら嬉々として実情を反映しまくったものを作るでしょう。しかし、あまりに惨たらしいその脚本を学園ドラマとして出そうなどと責任をとる人はきっと居ないでしょう。空虚で無秩序で悲惨で夢も希望も無い、そんなものを。
これらのシリーズは再放送もよくやっていました。初期の3作ぐらいまでは時代背景を良く反映できた良いドラマだったとは思いますが、やはりそこでシリーズを完結させて置くのが一番美しい終わり方だったのだとつくづく思います。
3年B組金八先生は初期の作品を観て育ち共感を得た多くの方たちのバイブルであり、良き思い出の一ページなのでしょう。
しかし、私にとっての3年B組金八先生は「今の時代が全く理解できないでいる可哀そうな中年・老年教師の惨めな奮闘劇」であり、また空虚な絵空話に過ぎないのです。
だから、私は金八の話をしませんし、したくもありません。何の共感もありません。
称賛もききたく無し、批判もしたくありません。どちらもききたくありません。
突き詰めて言えば
私たちの世代には関係の無い人物であり、ドラマであり、作品。ただ、それだけなのです。
しかし、関係の無い事も一度は声や言葉にしないと伝わらないのでここに記しておきます。