いざよひの 月をあふぎて 我が母の ねぶりの夢は いかにとぞとふ
*親子というのは時に悲しいものだ。たがいに似ているがゆえに、愛するがゆえに、心がすれちがうことがある。
今背いている子が、親にたてついたのは彼が高校生の時でした。霊的障りもありましたが、美しい母親を持つ息子の苦しみもあったのでしょう。
かのじょの苦しみも深かったが、その息子の苦しみも深かった。
はじめて子供に立てつかれたとき、かのじょはもうとても疲れていましたから、その難に挑むことがもうできませんでした。子供の心に立ち向かうだけのエネルギーがもうなかった。だからかのじょは、子供の心を変えるより、世の中の方を変えてやろうと考えたのだが。
それもできぬままに死んでしまった。
たとえ人生の主役を変わっても、彼の目から子供を見ることができる。終わりの方でそう言っていたのを覚えている。愛したかっただろう。もっと。わが子との和解を経験したかっただろう。そんなことを思うとわたしも涙が出てきます。
生きているうちにはその夢はかなわなかったが、わたしたちがこの人生をやっている間に、なんとかあの子との和解は果たしたいと思っています。
霊的障りはあるのです。天使の活動を妨害しようとする馬鹿の霊が、子供たちの自己活動を妨害している。彼らはかのじょを不幸にしたくてたまらなくて、子供に障ることによってそうしようとしているのだが。
それもなかなかうまくいかないようです。子供の本霊自身が、やはり母親を愛しているからです。
なぜことさらに女を不幸にしたがるのか。それは人の不幸ばかり願っている自分が不幸だからでしょう。
愛が欲しいなら、それなりの礼儀を守ってやればいいものを。上段に立って支配しなければ何もできないほど馬鹿なのだ。
弱いものほど、いやらしい権力を欲しがる。そのために、影からあらゆる暴虐をなす。
わたしたちはいま、かのじょが考えていた、世の中の方を変えるということに、半ば成功しかけている。
やってみせましょうとも。かのじょのためにも、我が子が生きやすい世界をつくってやる。
それは、ほんとうのいい人間が伸び上がっていける、正しい社会なのです。