ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

我が母

2018-01-13 04:21:05 | 短歌





いざよひの 月をあふぎて 我が母の ねぶりの夢は いかにとぞとふ





*親子というのは時に悲しいものだ。たがいに似ているがゆえに、愛するがゆえに、心がすれちがうことがある。

今背いている子が、親にたてついたのは彼が高校生の時でした。霊的障りもありましたが、美しい母親を持つ息子の苦しみもあったのでしょう。

かのじょの苦しみも深かったが、その息子の苦しみも深かった。

はじめて子供に立てつかれたとき、かのじょはもうとても疲れていましたから、その難に挑むことがもうできませんでした。子供の心に立ち向かうだけのエネルギーがもうなかった。だからかのじょは、子供の心を変えるより、世の中の方を変えてやろうと考えたのだが。

それもできぬままに死んでしまった。

たとえ人生の主役を変わっても、彼の目から子供を見ることができる。終わりの方でそう言っていたのを覚えている。愛したかっただろう。もっと。わが子との和解を経験したかっただろう。そんなことを思うとわたしも涙が出てきます。

生きているうちにはその夢はかなわなかったが、わたしたちがこの人生をやっている間に、なんとかあの子との和解は果たしたいと思っています。

霊的障りはあるのです。天使の活動を妨害しようとする馬鹿の霊が、子供たちの自己活動を妨害している。彼らはかのじょを不幸にしたくてたまらなくて、子供に障ることによってそうしようとしているのだが。

それもなかなかうまくいかないようです。子供の本霊自身が、やはり母親を愛しているからです。

なぜことさらに女を不幸にしたがるのか。それは人の不幸ばかり願っている自分が不幸だからでしょう。

愛が欲しいなら、それなりの礼儀を守ってやればいいものを。上段に立って支配しなければ何もできないほど馬鹿なのだ。

弱いものほど、いやらしい権力を欲しがる。そのために、影からあらゆる暴虐をなす。

わたしたちはいま、かのじょが考えていた、世の中の方を変えるということに、半ば成功しかけている。

やってみせましょうとも。かのじょのためにも、我が子が生きやすい世界をつくってやる。

それは、ほんとうのいい人間が伸び上がっていける、正しい社会なのです。






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