ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

大根

2017-12-01 04:18:20 | 短歌





ひとひらの 切りそこないの 大根の ごとき月あり 昼のおほぞら





*これは若い頃のかのじょの感慨をもとに詠みました。いくつのころだったか、かのじょが心の中で言ったことがあった。昼の月は切りそこないの大根の切れ端のようだと。

たしかに、昼の青い空に見える月はそのようにも見えます。美しいが、はかなげだ。

若い頃というのは失敗ばかりしていますから、そういう色合いもあったのでしょう。大根の薄切りというのはよく失敗するのです。まるくきれいに切ろうと思っても、手元が狂って、半月になったり三日月になったりする。

そんなことは他愛のないことで、別に笑って過ぎればいい、後でやり直せば何とかなることなのだが、人というのは、たったそれだけの失敗で、その人の全人格を否定してしまうことがあるのです。

たった一度、大根をきれいに切れなかっただけで、まったくだめだと言われてしまうのです。

若い頃のかのじょは、まさにそういう人と暮らしていました。故あって父方のおばさんと暮らしていたのですが、とにかく自分が世界で一番偉いと考えているような人でした。他人のことは、悪いところしか見ませんでした。

そういう人と暮らしていたら、心は傷つかざるを得ません。何をやっても認めてもらえず、わるいところだけつかれて、失敗したらことさらに馬鹿にされた。何もいいことは言ってもらえなかった。

そんな日々の中で、かのじょは自分に自信を持つということがなかなかできなくなったのです。あれほどきれいな人なのに、全然それを鼻にかけなかったでしょう。子供のころから、きれいだとかかわいいだとかは、ほとんど言われたことがなかったのですよ。返って、人付き合いが下手だとか、勉強はできても遊びが下手ではだめだとか、そういうことばかり言われてきたのです。

ひどいですね。

実際かのじょは、高校受験の時は県下でも高い進学校に一番の成績で通りました。そのときそのおばさんは、何にも云いませんでした。ほめてもくれませんでしたよ。馬鹿みたいだ。とてもすばらしいことなのに、ひとこともそのことにふれなかったのです。

人が自分よりいいだなんて、全然考えていなかったからです。そういう人が、どういう人生を歩んだかは、知っている人も多いでしょう。

半分に欠けた昼の月は、できそこないだと言われ続けてきた、かのじょの記憶の証でもあるのです。






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