写真上:西伊豆の戸田港
下:戸田港の西岸にある洋式船ヘタ号建造跡地
浦賀の入り江を約100年かけて造船の町に育て上げた浦賀船渠(浦賀ドック)は、なぜここに設立されたのだろうか。
江戸幕府が大船建造の禁を解いたのは、ペリーが浦賀に来航した1853(嘉永6)年のことだ。大船建造の禁は諸大名の水軍力を弱め、幕藩体制下で幕府の統治を盤石にする目的で1609(慶長14)年に第2代将軍の秀忠が制定した。その禁止令が250年の星霜を経て解かれたのは西洋の東漸(ウェスタン・インパクト)で欧米の艦船が日本の近海を遊弋し、これに危機感を抱いた幕府が海防の充実を迫られたからだろう。幕府は諸藩に率先して浦賀港で見よう見まねの西洋型帆船鳳凰丸を建造し、これを機に各藩に対して大型船の進水を奨励した。1854(安政元)年のことだった。浦賀に造船拠点(浦賀造船所)が設けられたのは、諸外国が江戸湾の入り口を扼する浦賀港を目指して艦船を回航し、浦賀の船大工や役人がしばしばこれらの洋式艦船を目撃し、実地に多少の西洋艦船の建造に関する研究を積んでいたからである。
この年、下田沖に接近したロシア帆船ディアナ号が下田地震(1854年11月4日)による津波で大破し、修理環境が整っていた西伊豆の戸田(へだ)まで回航途中に駿河湾で沈没した。戸田の船大工たちは遭難したロシア船員の指揮のもとに洋式帆船ヘタ号を突貫工事で建造してロシア使節の窮地を救った。このことは日本の船大工が洋式船の構造や建造技術を会得するのに大きな役割を果たしたようだ。
諸藩も一気に大船建造に動いている。水戸藩は隅田川河口に設けた造船所で西洋型船「旭日丸」の建造に着手した。この造船所が石川島播磨重工業(IHI)の前身である。薩摩藩は3本マストの西洋型船「昇平丸」の建造を始めた。
鳳凰丸の建造主任は浦賀奉行の与力職にあった中島三郎助だった。中島はペリーが浦賀沖に現れた際、最初に旗艦のサスクエハンナ号に乗り込み、その後も数回に渡って米艦との応接に当たったため、黒船を詳細に観察していた。そのことは中島が建造主任に任命された有力な理由になったにちがいない。『ペルリ提督 日本遠征記』には中島三郎助が久里浜で挙行された国書受渡儀式の後、もう一人の与力であった香山栄左衛門とともにサスクエハンナ号に乗船した際の光景が以下のように記されている。
これ等の日本役人は何時もの通りその好奇心を多少控えめに表していたが、しかも汽
船の構造及びその装備に関するもの全部に対して理解深い関心を示した。蒸気機関が
動いている間、彼等はあらゆる部分を詳細に検査したが恐怖の表情をせず、又その機
械について全く無智な人々から期待されるような驚愕をも少しも表さなかった。彼等
はすぐ様蒸気の性質を多少洞察したらしく、又蒸気を使用して大きな機関を動かす方
法及び蒸気の力で蒸気船の水輪を動かす方法についても多少洞察したらしかった。
幕府は1855(安政2)年、長崎に海軍伝習所を設立し、翌年にはオランダから咸臨丸を回航してきたファン・カッテンディーケを所長に迎え、中島はそこに派遣されて造船学や航海術などを学んだ。
幕府はさらに1857(安政4)年、築地に軍艦操練所を設け、その5年後の1862(文久2)年には榎本釜次郎(武揚)ら15名をオランダに派遣し、造船や航海術、国際法、軍事知識を学ばせ、海軍の創設に備えた。
この時期、浦賀造船所以外に長崎製鉄所、石川島造船所、横浜製鉄所、横須賀製鉄所などが相次いで設立され、西欧型艦船の造船による海防の充実が図られた。この浦賀造船所が後にこの小さな入り江の町で浦賀船渠がスタートするきっかけとなるのである。浦賀船渠の創立者は、オランダに留学して造船や航海術を学んだ榎本釜次郎(武揚)その人である。
〔参考文献〕
浦賀船渠株式会社『浦賀船渠六十年史』(浦賀船渠株式会社、昭和32年)
須藤利一編『船』ものと人間の文化史1(法政大学出版局、1968年)
土屋喬雄ほか訳『ペルリ提督 日本遠征記』(三)〔岩波文庫、昭和28年〕
カッテンディーケ著、水田信利訳『長崎海軍伝習所の日々』(東洋文庫、1964年)
星亮一『長崎海軍伝習所』(角川文庫、平成元年)
下:戸田港の西岸にある洋式船ヘタ号建造跡地
浦賀の入り江を約100年かけて造船の町に育て上げた浦賀船渠(浦賀ドック)は、なぜここに設立されたのだろうか。
江戸幕府が大船建造の禁を解いたのは、ペリーが浦賀に来航した1853(嘉永6)年のことだ。大船建造の禁は諸大名の水軍力を弱め、幕藩体制下で幕府の統治を盤石にする目的で1609(慶長14)年に第2代将軍の秀忠が制定した。その禁止令が250年の星霜を経て解かれたのは西洋の東漸(ウェスタン・インパクト)で欧米の艦船が日本の近海を遊弋し、これに危機感を抱いた幕府が海防の充実を迫られたからだろう。幕府は諸藩に率先して浦賀港で見よう見まねの西洋型帆船鳳凰丸を建造し、これを機に各藩に対して大型船の進水を奨励した。1854(安政元)年のことだった。浦賀に造船拠点(浦賀造船所)が設けられたのは、諸外国が江戸湾の入り口を扼する浦賀港を目指して艦船を回航し、浦賀の船大工や役人がしばしばこれらの洋式艦船を目撃し、実地に多少の西洋艦船の建造に関する研究を積んでいたからである。
この年、下田沖に接近したロシア帆船ディアナ号が下田地震(1854年11月4日)による津波で大破し、修理環境が整っていた西伊豆の戸田(へだ)まで回航途中に駿河湾で沈没した。戸田の船大工たちは遭難したロシア船員の指揮のもとに洋式帆船ヘタ号を突貫工事で建造してロシア使節の窮地を救った。このことは日本の船大工が洋式船の構造や建造技術を会得するのに大きな役割を果たしたようだ。
諸藩も一気に大船建造に動いている。水戸藩は隅田川河口に設けた造船所で西洋型船「旭日丸」の建造に着手した。この造船所が石川島播磨重工業(IHI)の前身である。薩摩藩は3本マストの西洋型船「昇平丸」の建造を始めた。
鳳凰丸の建造主任は浦賀奉行の与力職にあった中島三郎助だった。中島はペリーが浦賀沖に現れた際、最初に旗艦のサスクエハンナ号に乗り込み、その後も数回に渡って米艦との応接に当たったため、黒船を詳細に観察していた。そのことは中島が建造主任に任命された有力な理由になったにちがいない。『ペルリ提督 日本遠征記』には中島三郎助が久里浜で挙行された国書受渡儀式の後、もう一人の与力であった香山栄左衛門とともにサスクエハンナ号に乗船した際の光景が以下のように記されている。
これ等の日本役人は何時もの通りその好奇心を多少控えめに表していたが、しかも汽
船の構造及びその装備に関するもの全部に対して理解深い関心を示した。蒸気機関が
動いている間、彼等はあらゆる部分を詳細に検査したが恐怖の表情をせず、又その機
械について全く無智な人々から期待されるような驚愕をも少しも表さなかった。彼等
はすぐ様蒸気の性質を多少洞察したらしく、又蒸気を使用して大きな機関を動かす方
法及び蒸気の力で蒸気船の水輪を動かす方法についても多少洞察したらしかった。
幕府は1855(安政2)年、長崎に海軍伝習所を設立し、翌年にはオランダから咸臨丸を回航してきたファン・カッテンディーケを所長に迎え、中島はそこに派遣されて造船学や航海術などを学んだ。
幕府はさらに1857(安政4)年、築地に軍艦操練所を設け、その5年後の1862(文久2)年には榎本釜次郎(武揚)ら15名をオランダに派遣し、造船や航海術、国際法、軍事知識を学ばせ、海軍の創設に備えた。
この時期、浦賀造船所以外に長崎製鉄所、石川島造船所、横浜製鉄所、横須賀製鉄所などが相次いで設立され、西欧型艦船の造船による海防の充実が図られた。この浦賀造船所が後にこの小さな入り江の町で浦賀船渠がスタートするきっかけとなるのである。浦賀船渠の創立者は、オランダに留学して造船や航海術を学んだ榎本釜次郎(武揚)その人である。
〔参考文献〕
浦賀船渠株式会社『浦賀船渠六十年史』(浦賀船渠株式会社、昭和32年)
須藤利一編『船』ものと人間の文化史1(法政大学出版局、1968年)
土屋喬雄ほか訳『ペルリ提督 日本遠征記』(三)〔岩波文庫、昭和28年〕
カッテンディーケ著、水田信利訳『長崎海軍伝習所の日々』(東洋文庫、1964年)
星亮一『長崎海軍伝習所』(角川文庫、平成元年)