近代への助走

2010年07月29日 08時54分03秒 | 浦賀
写真上:西伊豆の戸田港
  下:戸田港の西岸にある洋式船ヘタ号建造跡地


浦賀の入り江を約100年かけて造船の町に育て上げた浦賀船渠(浦賀ドック)は、なぜここに設立されたのだろうか。

江戸幕府が大船建造の禁を解いたのは、ペリーが浦賀に来航した1853(嘉永6)年のことだ。大船建造の禁は諸大名の水軍力を弱め、幕藩体制下で幕府の統治を盤石にする目的で1609(慶長14)年に第2代将軍の秀忠が制定した。その禁止令が250年の星霜を経て解かれたのは西洋の東漸(ウェスタン・インパクト)で欧米の艦船が日本の近海を遊弋し、これに危機感を抱いた幕府が海防の充実を迫られたからだろう。幕府は諸藩に率先して浦賀港で見よう見まねの西洋型帆船鳳凰丸を建造し、これを機に各藩に対して大型船の進水を奨励した。1854(安政元)年のことだった。浦賀に造船拠点(浦賀造船所)が設けられたのは、諸外国が江戸湾の入り口を扼する浦賀港を目指して艦船を回航し、浦賀の船大工や役人がしばしばこれらの洋式艦船を目撃し、実地に多少の西洋艦船の建造に関する研究を積んでいたからである。

この年、下田沖に接近したロシア帆船ディアナ号が下田地震(1854年11月4日)による津波で大破し、修理環境が整っていた西伊豆の戸田(へだ)まで回航途中に駿河湾で沈没した。戸田の船大工たちは遭難したロシア船員の指揮のもとに洋式帆船ヘタ号を突貫工事で建造してロシア使節の窮地を救った。このことは日本の船大工が洋式船の構造や建造技術を会得するのに大きな役割を果たしたようだ。

諸藩も一気に大船建造に動いている。水戸藩は隅田川河口に設けた造船所で西洋型船「旭日丸」の建造に着手した。この造船所が石川島播磨重工業(IHI)の前身である。薩摩藩は3本マストの西洋型船「昇平丸」の建造を始めた。

鳳凰丸の建造主任は浦賀奉行の与力職にあった中島三郎助だった。中島はペリーが浦賀沖に現れた際、最初に旗艦のサスクエハンナ号に乗り込み、その後も数回に渡って米艦との応接に当たったため、黒船を詳細に観察していた。そのことは中島が建造主任に任命された有力な理由になったにちがいない。『ペルリ提督 日本遠征記』には中島三郎助が久里浜で挙行された国書受渡儀式の後、もう一人の与力であった香山栄左衛門とともにサスクエハンナ号に乗船した際の光景が以下のように記されている。

  これ等の日本役人は何時もの通りその好奇心を多少控えめに表していたが、しかも汽
  船の構造及びその装備に関するもの全部に対して理解深い関心を示した。蒸気機関が
  動いている間、彼等はあらゆる部分を詳細に検査したが恐怖の表情をせず、又その機
  械について全く無智な人々から期待されるような驚愕をも少しも表さなかった。彼等
  はすぐ様蒸気の性質を多少洞察したらしく、又蒸気を使用して大きな機関を動かす方
  法及び蒸気の力で蒸気船の水輪を動かす方法についても多少洞察したらしかった。

幕府は1855(安政2)年、長崎に海軍伝習所を設立し、翌年にはオランダから咸臨丸を回航してきたファン・カッテンディーケを所長に迎え、中島はそこに派遣されて造船学や航海術などを学んだ。

幕府はさらに1857(安政4)年、築地に軍艦操練所を設け、その5年後の1862(文久2)年には榎本釜次郎(武揚)ら15名をオランダに派遣し、造船や航海術、国際法、軍事知識を学ばせ、海軍の創設に備えた。

この時期、浦賀造船所以外に長崎製鉄所、石川島造船所、横浜製鉄所、横須賀製鉄所などが相次いで設立され、西欧型艦船の造船による海防の充実が図られた。この浦賀造船所が後にこの小さな入り江の町で浦賀船渠がスタートするきっかけとなるのである。浦賀船渠の創立者は、オランダに留学して造船や航海術を学んだ榎本釜次郎(武揚)その人である。


〔参考文献〕
浦賀船渠株式会社『浦賀船渠六十年史』(浦賀船渠株式会社、昭和32年)
須藤利一編『船』ものと人間の文化史1(法政大学出版局、1968年)
土屋喬雄ほか訳『ペルリ提督 日本遠征記』(三)〔岩波文庫、昭和28年〕
カッテンディーケ著、水田信利訳『長崎海軍伝習所の日々』(東洋文庫、1964年)
星亮一『長崎海軍伝習所』(角川文庫、平成元年)







室蘭の世紀 5  ~小樽・前編~

2010年07月09日 06時07分20秒 | 室蘭
すべてはここから始まった:旧手宮線 

 
 北海道において、明治、大正期にすでに勃興していたもうひとつの都市は、小樽である。都市の人口が最大になったときを指数100とすると、大正期までに50を超えていたのは、函館と小樽のみである。
 小樽は今でも観光地として残る運河に代表されるように、明治期には物流、貿易港として栄えた歴史を持つ。石炭の積出港であったことも相まって、前世紀の初めには国際貿易港として一躍世界の小樽へと上り詰めていったのである。樺太はもちろん、満州などの日本の植民地への前線基地となるのもこの頃である。また第一次世界大戦の勃発によってヨーロッパの穀倉地帯が軒並み壊滅的になり、結果的に北海道の穀物の輸出量が激増したことも、積出港としての小樽の繁栄に一役も二役も買った 。

 その結果、ヒト、モノ、カネが集り、商都・小樽は誕生したのだ。「北のウォール街」として世界で名を馳せもした。
 今、小樽の町を散策すると、函館同様、観光業に活路を見出していることもあって、金融の町であったころの形跡がそこかしこで見ることができる。石作りの重厚な建物が立ち並び、往時はさぞ華やかであったろうことを偲ばせる。
 大正の頃、小林多喜二や伊藤整が小樽高等商業学校(現小樽商科大学)で学んだのも偶然ではない。当時の小樽における商学がいかに華やかであり、優秀なものの目指すべき道であったかということを物語っているのである。花巻農学校の教員をしていた宮沢賢治も修学旅行で生徒を引き連れ、高商を訪問していた。文明開化の響きを聞くには、華やかな商都の頭脳に触れるのが一番手っ取り早かったのだろう。
 今でも一橋大学や神戸大学など、商業を生業としてきた大学が垢抜けたイメージを持っているのは、こんなところに原因があるのかもしれない。

 商業を学ぶということは、日本の近代化にあって、世界の中での経済体制に組み込まれていく過程で極めて重要な地位にあった。もっともそれは同時に植民地の拡張、つまり大陸、あるいは樺太への進出、そしてそもそも北海道自身の開拓にそろばんがつきものであったということでもある。殖民の最前線であった港町・小樽に、日本でも数番目という速さで超近代的な高商ができたのは歴史の必然だった。

 さて、今でも、樽が垢抜けたお洒落なイメージを保っているのは、モダニズムの建築群が残っていることや、北の荒野へのある種のロマンチシズムの残滓、さらには国際都市として世界とつながっていたことへの見果てぬ夢がそうさせているのではないだろうか。
 函館も同様なイメージが残っているが、そういったものは本州の国際都市とある点では一致し、ある点では異なるように思えるのだが、その異なるほうは、やはり「フロンティア」と「国際」ということが同時発生的に起こったということではないだろうか。北海道にはアイヌはもちろん、和人も含め明治以前からかなりの数の人々が暮らしていたけれど、北海道を語るとき、そういったことは忘れ去られ、荒野に踏み入った開拓者たちというイメージが形成されるのである。
 そのため、荒野に忽然と国際都市を作り上げたという陽気楼の先にある幻都のようなイメージが働いているように思えるのである。そのような幻の先にある見果てぬ夢を見て、人々は一旗揚げようと、あるいは再起をかけて多くが海を渡ってきたのである。
 そしてまた、この両都市は日本の一都市としてよりも、世界の中の都市として発展してきたことは前述の通りである。

 だから、と言っていいのだろうけれど、小樽は日本海側にある街の中で、数少ない華やかさを持った街である。裏日本(日本海側)や東北と、北海道のイメージは完全にといっていいほど断絶している。北海道のこの両都市に、「裏」やうらぶれた日本海、あるいは豪雪の中、息を潜めて暮らしてきた人々というイメージは、ほとんどと言っていいほどない。
 日本海側に付随するこれらのイメージは、ほとんどが明治以降のものである。裏と表の日本の関係を象徴する「三国峠をぶっ飛ばせ」と角栄が言ったとか言わないとかも、つい数十年前のことである。それらは日本の経済成長と取り残される地域という対立構造の中であぶりだされたイメージでもあったのだけれど、これらが北海道にまで押し寄せることはついぞなかったのである。それは取りも直さずこの街に、上記のイメージが付随していたからなのであろう。

ペリー久里浜上陸

2010年07月06日 18時23分52秒 | 浦賀
手前からサスクエハンナ号(外輪蒸気船)、ミシシッピ号(同前)、サラトガ号(帆船)、プリマス号(同前)


浦賀に来航したペリーの黒船に最初に乗船したのは、浦賀与力の中島三郎助だった。浦賀副奉行と身分を偽って黒船の副官と商議し長崎への回航を求めたが容れられず、ペリーは合衆国大統領から将軍に宛て認められた親書を手交する幕府役人の来船を求めた。翌日、今度はやはり与力の香山栄左衛門が浦賀奉行に成り済ましてサスクエハンナ号に訪船し、相変わらず長崎への回航を要請した。これに対してペリーは、幕府が親書を受け取る役人を派遣して来ないのなら武力を持ってしても上陸し、親しくこれを将軍に奉呈すると恫喝した。

幕府は協議の結果、浦賀の隣村の久里浜の仮館でペリーと会うよう浦賀奉行に命じ、嘉永6(1853)年6月9日に米国使節の日本上陸が実現したのである。黒船が浦賀沖に投錨してから6日目のことだった。上陸した米国人の人数は水兵、陸戦隊、楽師および士官をあわせて約3百人、これに対して日本側は5千人以上だった。浦賀奉行所付与力の合原総蔵の聞き書きは当日の米兵の様子を次のように伝えている。

  小屋の側を浦賀人數にて固める。小屋の左右を彦根、川越の人數にて圍む。異人何れ
  もゲヘル(剣付鉄砲)にて備を固む。彦根、川越の備の前を歩き、組頭様の者、剣を
  ひらめかしなどして指図す。浦賀人數の固めを見て、異人共、耳こすりなどし、或は
  指さしなどして、悉く嘲弄の體に見え、無念いわん方なし。又異人調整の能く整い候
  こと、奇妙驚人候。

厳粛で緊張した雰囲気の幕府側に比して米国士官たちは一様に陽気で、耳を掻いたり、なにかを指差したりしてリラックスしていたようだ。しかし合原の聞き書きが伝えるように「異人調整の能く整い候こと、奇妙驚人候」で、隊列は整然として一糸乱れぬ様子に日本側は驚愕し、さすがは東インド艦隊の士官というべきだろう。

無事に親書を手渡したペリーの黒船艦隊は浦賀から琉球を経て香港にもどって太平天国の乱に遭遇した米国居留民の保護に当たり、翌嘉永7年1月にふたたび江戸湾に至った。幕府と米国が和親条約を結んだのはその年の3月3日のことだ。下田、函館を開港して薪水、食糧、石炭等を供給し、遭難船員およびその財産の保護、開港場における遊歩区域の設定、最恵国待遇の提供、外交官の駐在などが決められた。米国との和親条約が締結されて間もなく、ロシア、英国、オランダとも同様の条約を交わさざるを得なかった。安政5(1858)年にはさらに米国、オランダ、ロシア、英国、フランスと通商条約を結び、日本の近代は欧米諸国によってなかば強制的に抉じ開けられたのである。よどんだ平穏が破られた幕末の日本は大騒ぎになった。「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん)、たった四杯で夜も寝られず」とは、あながち大きな誇張ばかりではなかったようである。


〔参考文献〕
浦賀船渠株式会社『浦賀船渠六十年史』(浦賀船渠株式会社、昭和32年)
浦賀古文書研究会『浦賀中興雑記』(浦賀古文書研究会、昭和56年)
加茂元善『浦賀志録』(浦賀志録刊行委員会、2009年)
横須賀百年史編纂委員会『横須賀百年史』(横須賀市役所、昭和40年)
三谷博『ペリー来航』(吉川弘文館、2003年)







黒船来航

2010年07月03日 17時38分33秒 | 浦賀
明神山の頂上から浦賀水道を望む。対岸に見えるのは房総半島


日本の近代は、いつどこで明けたのだろうか。さまざまな見方があると思うが、近代の幕開けにもっとも大きなインパクトを与えたのがペリーの浦賀来航であることに異論はないでしょう。黒船は4隻でやってきた。旗艦のサスクエハンナ号とミシシッピ号は舷側に水車のような推進装置を備えた外輪式の蒸気船で、サラトガ号とプリマス号は帆船だった。これら4隻が鴨居村の沖合いで船首を浦賀に向けて一列になって停泊したのである。ちょうど浦賀水道に突き出た明神山の半島直下だった。ここから4隻の船上で甲板作業に従事する水夫の姿や巨大な外輪が回転する音などが見え、聴こえたはずである。せいぜい数百石積みの樽廻船か檜垣廻船しか見たことのなかった浦賀の人々は、ど肝を抜かれた。とくにサスクエハンナ号とミシシッピ号は大きな煙突からもくもくと黒煙を天高く吹き上げていたからだ。

浦賀湾の入り口にある神寂れた明神山の頂上には、かつて北条氏水軍(小田原)の海賊城がそびえていた。この城は戦国時代の後期、安房里見氏の水軍攻撃に対抗するため築城されたものらしい。浦賀の人々は役人も、町人も、そして農民や犬猫までもがこの海賊城趾の空き地からペリーの黒船を認め、驚愕の叫び声をあげたに違いない。江戸や東海道の近隣から噂を聴いて駆けつけ、明神山の天辺からおっかなびっくり黒船を眺めた人もいただろう。

ここからは眼と鼻のさきに展開する房総半島が視界に入り、右手には日本最初の灯台といわれる灯明堂が浦賀湾を隔てた対岸に広がる西浦賀の東京湾岸に立っている。その場所はいま灯明崎とよばれ、夏になると海水浴や磯辺のバーベキューで賑わうのだが、地元の人は積極的には足を向けない。なぜなのか…。

ここは江戸が終わるまで浦賀奉行所が管轄する首切り場だったからである。ここで首を刎ねられた罪人で引き取り手のない仏は奉行所の西に隣接した寿光院に無縁仏として納骨された。いま浦賀奉行所の跡地には、浦賀ドック(住友)の従業員住宅が古びた老醜をさらしている。その住宅のぐるりを小さな掘り割りが囲み、そこが奉行所と外界を画する境だったのだという。

浦賀の町を丹念に歩くと、近世にまで散策の触覚をひろげることができる。それら近世の事跡の集合が、この町の近代の礎になったとみることもできる。ペリーの黒船は近世と近代の錯綜する無数の糸を電光のごとく繋ぐ触媒のような役割を果たしたのではないだろうか。明神山の天辺から150年前に浦賀水道を遊弋した黒船の勇姿を想像していると、そんな想念にとりつかれてしまうのである。


〔参考文献〕
浦賀船渠株式会社『浦賀船渠六十年史』(浦賀船渠株式会社、昭和32年)
浦賀古文書研究会『浦賀中興雑記』(浦賀古文書研究会、昭和56年)
横須賀百年史編纂委員会『横須賀百年史』(横須賀市役所、昭和40年)
三谷博『ペリー来航』(吉川弘文館、2003年)







室蘭の世紀 4  ~函館・後編~

2010年07月02日 00時15分33秒 | 室蘭
 その後も戦前までは北海道を代表する都市として磐石な地位を築いていた。もちろん国際都市というだけでなく、青函連絡船の時代まで、北海道の玄関口として本州と北海道の架け橋としても栄えていた。北洋漁業の前線基地も、ここ函館だった。意外なことだけれど、北海道の最大の都市が札幌になったのは戦後の1950年のことであり、それまではこの函館が最大の都市だったのである。

 さて、1967年に北海道の玄関口は空の時代が到来する。北海道を訪れるヒトが青函連絡船より新千歳空港を使うほうが多くなったのである。北海道に渡るのが海上の道から空の道へという交通の劇的な変化が起こったことで、函館は北海道の玄関ではなくなってしまったのである。
 そしてもうひとつ。この変化によって北海道は津軽海峡を越える、まさしくあちら側とこちら側といったような、北海道と本州の間に横たわっていたいわゆるロマンチシズムや辺境性、あるいは時間的、空間的、視覚的効果を取っ払うことにある程度、成功した。飛行機ではブラキストン線を感じることも容易ではない。連絡船で北海道に訪れた写真家の森山大道が見出した、「まさに異郷という他ない風景」 は、多くの本州以南に住む者たちが抱いていた感覚だったのだろう。そしてその感覚は失われようとしていた。

 また貨物に限って言えば、函館の衰退は「内航海運の機械化、大型化、高速化、専用船化による急速の伸び」 に大きな打撃を受けた結果であった。ここで言う内航の港とは、室蘭や釧路、あるいは小樽に加えて、もっとも大きかったのは1963年に開港した苫小牧港であった。
 北海道の玄関口の変化、異郷という感覚の喪失、そして苫小牧港の勃興は、一見無秩序に、しかし実際はそれぞれに密接な関係性の中で起こった出来事であった。そしてこういった地理的、時間的に断絶した断片をパズルのように組み合わせていくことで、より大きな「時代」とでも言うべき事象が浮び上がってくるのである。

 ところで、この劇的な変化が起こる前の函館は、立地条件のよさが最大の武器であったと言っていい。しかしひとたび玄関口としての役割を失うと、今度はその立地条件が仇となった。北海道の中心が札幌を核とした道央圏に移ると、函館は辺鄙な一地方都市に過ぎなくなってしまったのである。渡島半島の、しかもその先端に位置する函館は、今や陸の孤島と化したのである。

 爆発的な技術革新が起こった近代という時代において、交通手段の変遷は、これから見ていく街の興亡に大きくかかわってきた。おそらく我々が想像している以上に、交通網の整備と街の盛衰は相互に密接な関係にある。鉄道に始まったダイナミックなヒトやモノの大量輸送時代の到来から、航空や海運、そして自家用車によるミクロなヒトやモノの移動まで、大きくは世界や日本の中でのある街の勃興と衰退、そして小さくはある街の中における地域間の盛衰までをも規定していったのである。

 蛇足ではあるけれど、数年後に控えた北海道新幹線の開業は、再び北海道の都市間の興隆を促すことだろう。現在は新函館までの開業が決定しているが、このことはすなわち函館の再浮上を意味している。
 そしてさらに札幌・東京間が3時間57分 で移動できるということは、再び空よりも陸の時代が訪れるということでもある。「たくさんの夢を乗せて走る北海道新幹線」 がくるということは、それだけ大きなインパクトを持っているのである。関係者の鼻息も荒い。
 
 しかしである。これらすべては、近代的思考の範囲内においてはということである。もちろんこの先も、交通網の発達が都市の興隆を左右することは間違いないであろう。けれど、この北海道新幹線にまつわる思考のほとんどすべてを、数十年、あるいは百何十年遡った過去に見出すことが可能なのだ。大量輸送、高速化、定時制、快適性、そして夢や豊かさは中央からもたらされるといったことどもが、である。
 依然として中央に縋るしかない地方の悲哀と言ってしまえばそれまでであるけれど。

 さて、再び函館。
 いくつかの要因によって北洋漁業が急速に衰退し、産業としては成り立たなくなってしまう時期も戦後に訪れた。あれほど押し寄せてきたニシンの群れが、パタッと消えてしまったのも戦後すぐのことである。漁業の衰退は、思いのほか大きかった。
この二重の打撃によって函館は産業構造の転換を求められることになり 、新産業を観光と位置付けるわけだけれど、それはある面では成功したといえるが、やはり町の衰退は止められなかったというべきであろう。
 
 しかし先に書いたように、函館が北海道の中で特殊な地位を占めているのは、長い時間をかけて発展してきた都市なので、衰退もまた緩やかということである。北海道の他の都市は、この百年ほどの殖民によって爆発的に人口が増加し、あるいは産業の衰退によって町が捨てられたかのように爆発的に減少しているのである。その点、函館は漁業が衰退したあとも人口は若干増加し、人口のピークとなるのは1981年のことである。その後は緩やかに人口減少が続き、今に至るまで歯止めがかかっていない。
 今、函館に観光に行けば表面的な華やかさとは裏腹に、駅前のホテルなどでも一泊5,000円以下というのがザラである。湯の川あたりの旅館でも、それほど変わらない価格で宿泊できるのだから、観光都市といえども、それが必ずしもうまくいっているわけではないことを意味している。もっともこの観光の衰退は、北海道全体に言えることなのだが。