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近世における浦賀の繁栄

2010年06月27日 17時23分11秒 | 浦賀
相州浦賀(歌川広重画)


歌川広重(1797~1858年)の画に『相州浦賀』という作品がある。まだ風景写真が普及していなかった江戸末期の浦賀をビジュアルで伝える貴重な資料である。この絵は現代の私たちにふたつのことをもの語ってくれていると思う。ひとつは当時の浦賀港の様子であり、もうひとつは著名な浮世絵師の広重が浦賀を訪れているという事実である。いま悲しくなるほど寂れてしまったこの町に江戸末期の売れっ子絵師が来訪し、その殷賑を活写したのだ。なにが広重を浦賀に向かわせたのだろうか。

亨保5(1720)年、関東の海の表玄関だった伊豆下田の番所が相模国の浦賀に移され、そのときが浦賀の発展に転機を与えたというのは政治領域でのことである。徳川家康が豊臣秀吉から所領として関東を与えられ江戸城に入ったのが1590(天正18)年である。秀吉が没し、関ヶ原の戦いを経て江戸が政治都市になると、そこに居住する武士と庶民が消費するための膨大な物資が上方から樽廻船、檜垣廻船で江戸に運ばれた。お船改めの要港を拝命して江戸湾の入り口を扼した浦賀はその恩恵を存分に浴し、「浦賀港は是れ日本無双の津にして万国の商船出入り自在なり。海向より朝日滔々として舛り、両岸の人家は甍を並べ、港中の危檣は屋を貫くが如し。岸に山の如く荷を重積み、日市をなす。繁栄の地なり…」(加藤山寿『三浦古尋録(1812年)』)という盛況を呈した。こうした繁栄によってもたらされた資金力は町人の文化意識を高揚させ、江戸をはじめとする徘徊、歌壇、和漢学などの著名人との遊歴交流が盛んになり、書画においては北斎、広重らがしばしば来浦したと伝えられる。

浦賀は古来、江戸湾の入り口に位置した天然の良港である。近世からイワシ漁の基地として太平洋に面した諸港から漁船が集まった。北海道から北前船で上方に運ばれたニシンほど肥料効果はなかったものの、干鰯(ほしか)、魚油、〆粕などの加工と販売の要港として諸国の商人が蔵や出店を構えて繁栄をきわめた。

浦賀の繁栄は全国津々浦々あるいは外国からの諸船が直接に横浜、東京港に向かうようになった明治維新以降の一時期に衰え、数百年もつづいた天然の良津としての地位を失うが、明治29年に榎本武揚らの主唱によって創立された浦賀船渠(ドック)の創立を機に日本の近代(富国強兵)を担う重工業部門の一角に組み込まれ、ふたたび歴史のスポットライトをあびることになる。


〔参考文献〕
浦賀船渠株式会社『浦賀船渠六十年史』(浦賀船渠株式会社、昭和32年)
浦賀古文書研究会『浦賀中興雑記』(浦賀古文書研究会、昭和56年)
大日本地誌大系(23)『新編相模国風土記稿』第五巻(雄山閣、昭和55年)





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