室蘭のファサード

2012年02月19日 02時54分34秒 | 室蘭
 明治の頃と今とでは何が変わったのだろうか。明治の頃の港周辺の写真を見て、愕然とするほど今とは町の風景が違ったと思える変化があった。
 それは、明治の町は「町のファサード」が海を向いていたことである。海岸通りに面したおそらく商店などであろうが、それらの建物がひとつひとつ海と向き合うように建っているのである。町は海に向かって広がり、海に向かって開かれている。

 もっとも今でも海岸通りに面した建物は、もちろん道路に面して出入り口を作るので、方角的には海のほうを向いている。けれどそこにある大きな違いは、今の建物の眼の前にはもう海がないことである。昔海だったところは埋め立てられ、今では陸となっている。つまり、建物は道とは向き合っているが、海とは向き合っていないのである。もっとも海寄りにもう一本道ができているので、そちらに建物が建てば同じではないかと思うかもしれないが、海沿いにある産業道路の両側の建物は、すべてが工場や倉庫あるいは事務所などであり、ファサードと言えるような正面もなく、つまりは海があってもそちらを向いていないのである。

 であるから、今海岸通を歩いても、この町が海と面していることにほとんど気付けないような街の作りになっているのである。海側に行けばいくほど、人目を憚らない工場などが立ち並び、あたかも海を見えなくしているのではないだろうかと訝りたくなるほど、道行く人にとっては海と無縁な町と化しているのである。
 明治期の海と向き合っている町並みを見てから今を見ると、あたかも町のファサード(顔)をなくしてしまったのではないかと思いたくなるほど、町の表情は違う。

 それでは明治の頃の室蘭の町はどうだったのだろう。明治14年の市街地をもとにして当時を再現した文章を借りると、「一丁目には役所、病院、電信所、回漕店、宿屋がびっしり建ち、まさに港の中心街、二丁目は、荒物屋、菓子屋、宿屋とならび、三丁目には、山中、高原の大きな宿屋、室蘭名物の貝がら屋、それに貸座敷、遊女屋が眼をひき、四丁目の現中央町から常盤町入口にかけて、料理屋、貸座敷、遊女屋が七、八軒、民家、商家と軒を連ねており、そして学校さえあった」 という町並みであった。 

 ここで言う一丁目が、明治の初年に誕生した室蘭の玄関口である旧桟橋周辺の街区になる。そして数字が大きくなるに従って、港からは遠ざかっていく。明治初期の一丁目、つまり桟橋付近を写し取った写真を見ても、宿屋などが海を向き、いかにも海から来る客を飲み込もうとしている形相が見て取れる。確かに町が海を見ている。あるいは海から見られることを、町が意識している。
 室蘭の町は、海と向き合いながら、港を中心に発達してきたのである。町には顔がある。それは都市のファサードといいかえることができる。町の顔なのだから、来客に一番みせたい面を向けているのである。そしてそれは町の第一の性格として特色付けられていく。

 そして海と対峙するように町のファサードができたことは当たり前で、当時の幹線道は対岸の森から海路を取り、この室蘭で再び陸路となり札幌まで延びていたのである。だから船で来た人々はここで陸にあがり、その人々に向けられた町のまなざしとでもいうようなものが町のファサードを作ったのである。もっとも昭和の写真を見ても、看板などが海を向き、明らかに海を意識している。
 ちなみに、現在の郊外の国道沿いにネオン交じりの巨大な看板が立ち、その奥に聳える巨大な商業施設の数々は町のファサードの現代版で、少し前までは駅前の瀟洒なデパートがそれであった。

蛇足ながらボクがちょくちょく出没している夜の町は、浜町と呼ばれているのだけれど、地名でいえば中央町であり、上記の丁目にすれば四である。したがってその辺り一体は、明治の頃から既に歓楽街の様相を呈し始めていたことが分かる。
 ただし、同じ四丁目である幕西町にあった遊郭は戦後赤線となり、今では消えた。跡形もなく消えた。今行って見ると何事もなかったかのように住宅街となり、往時の記憶を奇麗さっぱり消し去っていることがわかる。


「山を登って頂上から眺めると、室蘭湾は実に美しい。…この湾の美しさは何ものにもひけをとらない。不規則にたった灰色の町は、高いところに灰色の神社があり、小さな湾の縁をだらだらとのびている。森の茂った険しい坂町である」。(日本奥地紀行)

 これは明治の初年に来蘭したイザベラ・バードが、短期の滞在中に得た感想である。室蘭港の美しさに一際強い感想を抱いていたことがわかる。そしてこの室蘭港の美しさは、数億年がかりの絵鞆半島の上下運動によってできた急峻な陸地と、底の深い湾によっている。
 もっとも、室蘭を訪れた外国人の多くが同じような感想を持った。だからこそ、室蘭が函館から札幌へ通ずる道の途上に選ばれたのである。それもこれも室蘭港の良港さ故であった。
 それまでは人口もわずかばかりの寒村にすぎなかった室蘭が、この港ひとつで一気に脚光を浴びた。だからこそ町は当然のように港に沿って建設され、自然と海を見るように町の顔が整えられたということは、言うまでもないことなのである。

 ところがいくつかの要因によって室蘭港は次第に衰退し、今でも下降の一途を辿っている。下降をすれば港の機能は縮小せざるを得ず、例えば、石炭の積み出しで栄えた埠頭跡は、今では行政などの建物が立ち並び、往時の繁栄をよそに物静かな町へと変貌した。
 海であったものが次々と陸に上がった。そして港から始まる海はあたかも暗渠のような風体となったと言ったら大げさに過ぎるだろうか。
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室蘭、都市の肖像。

2011年11月25日 01時24分38秒 | 室蘭
@御前水町の御傘山神社横にある記念碑。明治天皇がここでお休みになり、室蘭港を眺めたことを伝えている。


 一枚の写真がある。新聞社の写真ライブラリーにある一枚である。掲載年が1958年とあるから、東京オリンピックまで6年の月日があり、ということはまだ東名高速の開通までも10年ほど待たねばならず、したがってこの写真は本格的なモータリゼーション前夜といった時代のものである。
 1958年は「新長期経済計画」が発表された年であり、1960年の「国民所得倍増計画」によって本格的な高度成長が始まる、そんな時勢である。

 写真の中では、工員たちがゾロゾロと歩いて工場へ向かう姿が見て取れる。みな橋を渡って工場へと向かっている。橋の下には鉄道が走っているのがわかる。視界をさえぎるものは何もなく、工場に立つ何本もの煙突と木造らしき建物が奥に建ち、日本橋かと見紛うような立派な橋は、ここが天下の日鋼の玄関口であることを顕示しているようである。

 この写真とは、室蘭市の母恋駅近くにある日本製鋼所に通じる橋を切り取った一枚である。写真の中では、出勤する多くの社員たちが歩いて工場へと向かっている。
 なぜこの一枚の写真に目が留まったかといえば、この橋が現存していることを知っていたからである。今では道行く人はほとんどおらず、車が轟々と行き交っている、そんな車道の脇にひっそりとこの橋は、ある。立体的に新道と鉄道に挟まれているから、余計に存在感が薄く、寂しくもある。だから今ではうっかりしなくても見落としてしまうような橋というまでにその地位は低い。
 写真の中にある“北の”日本橋は、今では所在無げに虚ろな表情をしていたように見えた。


 輪西方面から室蘭に向かう旧道は、現在の市街地や工場が形成されている地域よりも一頭小高いところを走っている。そして輪西と室蘭のちょうど中間点にあたる御前水町で、御傘山神社を右手に見ながらの下り坂となり、一頭の小高さはなくなる。そして坂を下りきったところで東室蘭・室蘭間の現在のサブ幹線(母恋東町通線)にぶつかるのである。鉄道もこの幹線と併走している。
 ちなみにこの御前水という地名は、御前とつくくらいであるから、当然天皇と関係がある。明治の大帝が室蘭に巡幸で訪れ、「母恋小休所(御傘山神社前)」でお休みの際、その地の井戸水を献上したことにちなんで付けられたのである。とても飲む気にはなれないが、今でもその井戸は御傘山神社の境内にあり、御前水を拝むこともできる。
天皇はもちろん歩いたわけではないけれど、この上り下りの激しい道を行き、ご休所で喉を潤すことを所望されたとしてもまったくもって頷ける話である。

 さて、御傘山神社を下ったところにある幹線道路のその先には、日鋼の工場群が広がり始める。そしてそこから左右に向かって室蘭本線の御崎駅と母恋駅があるのだけれど、その間の1キロ強が日鋼のシマである。
 この時ボクは、東室蘭から室蘭までひたすらポコポコと歩いていた。坂を下りきってからは、新道と併走している母恋東町通線を室蘭方面に向かって歩き始める。右手の日鋼の工場には、一際大きな「JSW日本製鋼所」の看板がまぶしい。
 そうこうするうちに、母恋駅が見えてくる。無人のこの駅は、鉄道をお好きな方々がシャッターチャンスを狙いに来るほどその雰囲気はうらぶれており、過ぎ去った鉄道時代の濃密な時間を思い起こさせる。
 この母恋駅の立ち寄り話もしたいのだけれど、駅を通り過ぎたところに“北の”日本橋があるのだから、話を進める。

 前述のように“北の”日本橋はややもすると見落としてしまうような場所にある。室蘭に向かってポコポコ歩いていると、ふっとその橋が現れた。その先の仏坂を下ればもう室蘭駅という場所である。
 車社会化の波に乗ってやってきた自動車専用道と鉄道に挟撃されるようにあるので、歩行前提のこの立派な石橋は、いかにもチグハグに見えた。
 思わず通り過ぎそうになったボクは、ん?と思ってもう一度後戻りし、この橋をクンクンしてみたり、ペタペタ触ってみたり、少し離れて遠めから眺めてみたりした(マーキングはしなかった)。
 何度見てもチグハグだった。一体何の目的で、この場所にこのような橋が架けられたのか腑に落ちなかったのだ。

 ところがこの一枚の写真を見て、すべての合点がいった。歩くことが絶対的であった時代があり、この橋が正門として凛々しい姿をしていた時代があったのだ。
 工員たちは母恋の後背地に広がる日本製鋼所の社宅から歩いて出勤してきていたのだろう。まだ持ち家政策も始まっていない頃であるから、多くの工員たちは密集する社宅に住んでいたはずである。毎日、斜面に広がる社宅から、我工場を眺めながらあの橋を目指したのだろう。自動車専用道によって視界を遮られてもいなかったから、見渡す限りにどっしりとした我工場が広がっているように見えたかもしれない。
 帰りは門前町のどこかで一杯ひっかけてから家路に着いただろうか。

 翻って現在。母恋にもまだ社宅はあるものの、多くは戸建となった。歩いて出勤する日鋼社員と思しき人の姿はまばらで、工場やあの橋の姿は道路に遮られ、思ったように臨むことはできない。もっとも高度成長期後半の持ち家政策によって登別などのベットタウンに城を持ち、そこから車通勤してきている社員も多いかもしれない。
 通り過ぎる人々のスピードも変わった。みなが歩いてゾロゾロ橋を渡っていた時代から、猛烈な勢いで通り過ぎる車の時代へと。道行く車の車窓からこの橋や、さらにその奥に広がる工場をのどかに見渡すことは難しい。歩いていれば嫌でも見渡せてしまう工場が、車に乗っていては車窓に移り行く切れ目のない単なる物体へと変わり果てる。
 
 この橋の周囲一体の風景が、ここ数十年で劇的に変化したわけではないと思う。けれど、この風景を眼差す人の視線そのものが激的な変化をし、見えていたものを見えなくし、変わって別のものを見出したのだと思う。
 室蘭は「鉄の町」という人は多い。そしてそれは日鋼と新日鉄の存在によるところが大きい。けれど現在、多くの町が将来の方向性が漠とし、なかなか見通せない時代にある。室蘭も例外ではないだろう。第2次産業の海外移転や、人口減少による社会基盤の崩壊、そして経済の収縮、それらの原因が渾然一体となり将来に霞をかける。
 けれどまた別の角度から原因を考えてみれば、それは自己を見つめる視線そのものを喪失したことによるのではないかと、一枚の写真を見つめながら考えてみたのである。


 蛇足ながら、前述の御傘山神社前の御休所から「天皇は、港の景色をご覧になった」 ようであるけれど、今では眼前には日鋼の巨大な工場が聳え立ち、この地から港をうかがうことなどまず叶わない。もっとも、遠くに豆粒のようには見えるけれど。
念のため、天皇とその当時の情景を借用しておく。

「そのころベシボッケにしても母恋にしても民家はほとんどなく一望のなかに波静かな水面に白鳥の舞う室蘭港が目に入った」。

 時代が変われば町並みも変わるものである。

 白鳥が舞う室蘭港はしばし日鋼の工場全景となり、いつしか新道の整備によって工場の景色すら十分に見ることはできなくなった。前述の橋の行く末とともに、そんな室蘭の変遷を見て取ることができるようである。

ついでながら、先日、久々に御前水を訪れてみると、なんとあの橋は見事に取り壊され、影も形もなくなっていた。きっと時代の要請に耐えられなくなったということなのだろう。これから数年をかけて、新しく生まれ変わることを工事の看板が教えてくれた。
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室蘭、町を見る目

2011年10月24日 04時43分16秒 | 室蘭
 東室蘭駅から室蘭駅まで歩いてみたことがある。あっちで道の草を食べ、こっちでコーヒーを飲んだりランチを食べ、そして行く先々で写真を撮りながら歩いたので、一日がかりの道程となった。歩くといっても直線的に伸びる国道沿いをいったのではないから、おそらく10キロほどの道のりになったのではないだろうか。僕が歩いた道は、国道を一部いきながらも、その多くは札幌本道と呼ばれていたかつての主要道である。かつての主要道、であるからクネクネと曲がりくねり、登ったり降ったりの道である。

 明治のはじめ、函館から札幌に至る道を拓いた人々がいた。北海道における大動脈の開削である。ここ室蘭もその行程の一部となり、それが札幌本道と呼ばれる道となったのである。札幌本道開削の頃、札幌は建府の命こそ出ていたものの、いまだ北海道の都市といえば函館であった。札幌などは石狩の片田舎に過ぎなかったのである。
 尚、札幌が北海道第一の都市に成り上がるのは、昭和の戦後の話である。

 であるから、明治の頃に室蘭に通った道に与えられた札幌の名を、地元の人々がどのような面持ちで聞いたかはわからない。けれど近代的な測量と、囚人労働も合わせた多くの労働力によって完成したこの道を、新たな時代の息吹とともに見入ったと想像しても、あながち外れてはいないと思う。「砂利道ながら日本で初めての馬車道」 でもあった。
 ちなみに、現在ではテレビ局各社のアンテナの林立によって電波塔のような出で立ちになっている測量山の名の由来は、札幌本道を開削するにあたり、明治のお雇い外国人のワーフィールドがこの山の頂上から測量を行ったことによる。

 明治の頃であるから、もちろんモータリゼーションなど気配もないころである。この道を行き交った人々は歩くか人力車か、よくて馬車に乗るかであった。であるから、ボクも歩くことによって当時の人々とできるだけ同じスピードと目線で風景を見、同じ労苦をしてこの間を行ってみたいと思ったのである。

 約10キロの道のりであった。今と100年前の風景に何か変化があっただろうかと考えてみれば、当然すべてがと言えるくらい、建物も町並みも、そのすべてが変わった。でもそれらは、時代とともに変化していくものであり、驚くべきことではない。むしろ、社会インフラに残る当時の街の骨格の一部を、いまでもあまり変わらずにうかがうことができることの方が、驚きである。
 しかし一方で、歩いて見て初めて分かった変化もある。それは町を眼差す人の視点であり、その位置である。

 ボクが歩いた10キロの道のりを、人々が交通の要路として行き交っていたのは今は昔の話であり、主として戦後のインフラの整備とモータリゼーション化によって、幹線道路としての国道や新道が整備された。そしてそれらの道によって、人も車も平面、直線的に、そしてより高速をもって行き交うようになった。起伏が激しく、曲がりくねった旧道は、幹線道路としての役割を終え、今では忘れ去られてしまったような場所もある。

 さて、現在。街の中をまさしく縦断する交通網の整備は、単に交通体系の変化や、従来の商店街の衰退といった目に見える変化とともに、より根源的な、町を眼差す視点を変えた。そしてそれは同時に、町のアイデンティティも変えたのではないだろうか。この道を歩いて、そう思った。



<写真を読む>

 まず一際目を引くのが、写真の中央を走る道である。町を分断しているように見えるこの道の名は、「国道36号線室蘭新道」。昭和56年に完成したこの道は、無料の自動車専用道であり、当時の一般道の渋滞緩和に大きく貢献した道である。地元紙によると、「車と人の流れ、マチを大きく変化させたバイパスでもある」。もっともマチを大きく変化させたということは、写真を見ても一目瞭然であるし、マチを歩けばさらに実感としてわかる。道は町から隔離され、東室蘭から室蘭へと盲目的に突き進むこの道で、町を感じることはほとんどできない。

 さて、新道の左に見えるのは、新日鉄である。ここから直線距離にして数キロの広大な敷地が、ひたすら写真外左へと伸びていく。
 一方で、国道を挟んで右手に見えるのが輪西の町並みである。新道の横を併走しているのが室蘭本線であり、ちょうど写真下の電車がいる辺りが輪西駅になるのだけれど、そのあたりに新日鉄の正門もある。輪西は新日鉄の社宅街として発展し、最盛期の昭和38年にはこの小さな地区の住民だけで「19898人に達し、富士鉄(新日鉄の前身)社宅住民は4149人と2割を占めていた」そうである。
 「肩と肩がぶつかり合う」ほどの賑わいだったという輪西の商店街は、ちょうど写真に納まっている辺りである。富士鉄の社員が仕事終わりに町に繰り出し、ここで懐を軽くしてから自宅に帰ったということだろう。

 「室蘭(中央町)に次いでにぎわっていた」というように、相当な繁華街であったことは、今でもうかがい知ることはできる。ただしそれは廃屋の数からであるけれど。そしてこの輪西は、労働者の町であったことからも、室蘭(中央町)のほうは、「改まったときに行く町」とされていたであろうことも頷ける。
 しかしこの輪西の街の疲弊具合は惨憺たるもので、室蘭(中央町)の比ではないように見える。昼間から商店街を行き交う人は皆無に近く、多くの店がガランドウとなっているのである。室蘭のほうの寂れ方には、居心地の良さと人の温もりを感じるが、こちらの町の衰退には、閉口するしか仕様のない有り様である。

 この町の衰退は各種の原因があるのだろうけれど、その一つに新道ができたことを挙げることができる。新道の横を併走しているのが室蘭本線であり、さらにその横を走っているのが、新道以前の道である。この二つの道を見れば、人と車の流れが変わるのも当然であると言うしかない。
 そしてもう一つは持ち家政策によって、郊外に発展した戸建住宅に社員の住居が移っていき、車通勤をするようになった社員は、町をスルーするようになってしまったことも一因である。

 次に、写真の奥へと目を移す。正面奥に見える高層の茶色の建物は市営住宅であるが、この辺り一体がかつては日鋼の社宅街だった。もっともこの写真を撮ったときに背にしているのが御前水、母恋といった町なのだけれど、そちらが日鋼の大社宅街で、それは今でも変わらない。日鋼の門前町である。
日鋼とともに、国鉄の社宅街も茶の市営住宅の辺りにあった。

 数棟立ち並んだ市営住宅の左手に独立してある高層の建物はルートインであるが、その横にポツンとある赤い建物が東室蘭駅である。尚、東室蘭駅の右手にかの有名な鳩山御殿があるのだけれど、この写真ではわからない…かな。
 また、ルートインや東室蘭駅の前を走っている道が国道37号線であり、この道が伊達を抜け、函館方面へ向かう主要道である。明治の初めには、ここから先が難所であり、道路を開削するのには不向きと考えられたため、森・室蘭間は海路が取られたのである。
 37号線と併走して、伊達方面へ向かう室蘭本線も走っている。
 ちなみに、明治の頃、室蘭に入植した屯田兵たちが居を構えたのがこの辺り一体である。ただし、室蘭での開墾は軌道に乗らなかった。
 さらに戦中に話を飛ばすと、新日鉄、日鋼と、大軍需工場を抱えていたここ室蘭は、米軍からの激しい艦砲射撃にさらされた。戦後の写真を見ると、新日鉄の敷地外ではあるけれど、この辺り一体が砲火にさらされたことを物語るように、大地のそこら中に穴ぼこが開いている。

 東室蘭駅の左手にずっと伸びていく町が中島町と言われる地帯で、ここに東室蘭の夜の町がある。またこの中島町が東室蘭の商業集積地であり、新日鉄資本のショッピングモール・モルエ中島がある。また昨年までは北海道のローカルデパートの雄である丸井今井室蘭店もあったが、丸井今井の経営難(というか、潰れた)により閉店し、その跡地には今年ヤマダ電機が入った。
 蛇足であはあるけれど、丸井今井は、現在、三越伊勢丹HDの完全子会社となっていることからもわかるように、東京などにある丸井とは全く関係のない別会社である。
また、長崎屋も撤退の意向を示しているらしく、過日の地元紙に、市長が撤退しないよう本店?に陳情に行った旨が記されていた。
 室蘭市において気を吐いていたここ東室蘭も、今過渡期にある。

 最後は、一番奥に太平洋に沿って伸びている町である。もっとも奥まった辺りが登別市の鷲別であり、さらにその先は登別市の幌別町という町になるのであるが、この写真の中にどこの町まで納まっているかは判然としない。
 いずれにしても、この辺りは新日鉄などのベットタウンとして発展した町である。いわゆる郊外型の風景が多少見られるのもこの地域である。とは言っても、ツタヤやマックはあるものの、苫小牧などのように荒涼とした郊外型の風景が延々と広がっているわけではなく、チョコチョコと言った感じである。これも室蘭の町の傾斜を表わしているのだろうか。

 室蘭市の人口が減った要因の一つには、登別市が人口を吸収したこともある。幌別の駅を降りると、規律正しい町並みが広がっており、その辺一体には富士という町名が付けられている。おそらくこの富士とは、新日鉄の前身の富士鉄に由来するものなのではないだろうか。今度、きちんと調べたいと思う。町名由来の真偽はさて置き、一昔前のこの辺りの写真を見ると、炭住と呼ばれるスタイルの住宅が規則的にびっしりと立ち並び、ここが社宅街であることを強烈に主張している。今では持ち家に姿を変えてしまっているが、「社宅十字街」といった名は残っている。

 最後に、この写真を撮ったのは、おそらくかつての札幌本道と呼ばれていた道の一角からである。町を見渡すことができ、新日鉄も一望できる。工場の鈍く重い音も聞こえてくる。高炉から時おり激しく吹き上がる炎がまぶしい。
 明治の頃の人々は、こんな光景を瞼に焼き付けながら歩いたのだろう。

■リンク
室蘭民報の「室蘭新道」記事
室蘭民報の「輪西」記事
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室蘭の世紀20 〜近代都市・室蘭の夜明け〜

2011年07月02日 23時52分20秒 | 室蘭
@北炭幌内炭鉱。今は人の手に渡ったこの土地に、重厚な立て坑やぐらが残る。朽ちた「幌内」の間には、北炭の社紋である星のマークが日に照らされて輝いていた。



当時における石狩原野は人煙稀少、貨物皆無の僻境にして、斯かる地域に斯くの如き大計画を実現せんとする、その大胆にしてかつ猪突なる行為を目撃して衆人の喫驚せざるはなく、中には熊か鹿を乗せる鉄道ならんと嘲笑する者すらあり、誰一人真剣に之を指示する者なく有様なりし


 この場に列席していた男たちは、誰であっただろう。
 日本人のひとりは、北海道炭礦汽船株式会社(以下、北炭)の専務取締役であった井上角五郎である。井上は功績の多かった人物なので、その時々によって肩書きを変えなければならないが、今は経営者としてこの席についている。

 ところで、この井上の功績はおもしろい。
 万延元年(1860年)に現在の広島県の裕福な家に井上は生を受けた。はじめは広島で学問に勤しんでいたが、15歳のとき立身出世を夢見て上京、慶応義塾で福沢の門下生となった。卒業後は福沢の推挙により朝鮮政府の顧問を務めたり、移民として渡米したりといった、兎にも角にも日本の新しい国際化のなかで、先鞭の氏としての頭角を現していた。
 ちなみに朝鮮政府の顧問となったのが縁で、ハングルの復興に尽力し、朝鮮で初のハングルによる新聞を出版するなど、文化面でも時代の先を行く嗅覚をもっていた。

 さて、アメリカから帰国し代議士となった後の明治32年(1899年)、井上は前述の通り北炭の専務取締役に就任した 。当時、北炭の代表役員は井上ただ一人であったから、実質的な経営上のトップとなったのである 。井上にしてみれば30代も終わろうとしていた頃であり、若くして一国の主となったわけで、当然野心も大きかったであろう。
 蛇足ではあるが、井上は他にも京釜鉄道や南満州鉄道設立に関与したり、東京商業会議所副議長や帝国鉄道協会評議員を担ったりと、その生涯を通じて並みの働きようではなかった。井上をして明治特有と言っていいだろうか、揺籃期独特の多方面で才能を開花させた傑出した人物であったと言えるだろう。

 この井上が北炭のトップとして、ロンドンの一室にいたのである。

 それではその井上が率いていた北炭とは、どのような会社であったのだろう。
平成の世となった今では、社員数十名のこじんまりとした会社であり、ロシアからの石炭の輸入などを主な生業としているが、今をして往時の繁栄をうかがい知ることは難しい。
 同社は1995年(平成7年)に会社更生法を申請し、同時に国内の全炭鉱の生産に完全に終止符を打ったわけであるが、しかしそれまでのおよそ百年間、同社は北海道開拓の歴史の陰と陽を背負い続けてきたのであり、北海道近代の歴史を同社抜きに語ることはできないと言っても過言ではない。

 北海道炭礦鉄道会社(後の北炭礦汽船株式会社、つまり北炭)が設立されたのは明治22年(1889年)のことであった。設立の意図は、北海道庁の理事官であった堀基が、民間の資本を募り、それをもって拓地殖民の基礎となる鉄道の延長や炭山の開採に充て、全道の開発を促進しようとしたことに端を発する 。
 要するに、鉄道の敷設と採炭業の創立 のための会社を作ろうとしたわけである。

 しかし「北辺の荒野に投下する」巨額の資本をどのように集めるのか、それに鉄道や炭鉱など官有物の払い下げを円滑にするためにはどうしたらよいか。「北辺の荒野」にいるものたちだけでは、どうにもならないことばかりであった。
 そこで堀たちは当時既にご意見番として名を馳せていた、時事新報主幹の福沢諭吉に意見を求めた。すると福沢はこの計画に諸手を挙げて賛成するとともに 、3万円もの株式を引き受けたのである。
 福沢の振る舞いを見ても、北炭がどのような会社として創立され、どう受け入れられていたのかを物語っている。つまり北辺の荒野を、資本を投下して開拓する。そしてそれは鉄道による。そしてそんな荒野の開拓には一枚かむべし、と。

 同社の設立発起人の面々の顔ぶれを並べると、さらに多くを物語る。その一部を紹介すると、徳川義禮、渋沢栄一、日本鉄道会社社長奈良原繁、日本郵船会社社長森岡昌純、横浜正金銀行頭取原六郎、田中銀行頭取田中平八、高島嘉右衛門など13名であった。要するに当時の財界の大物、投機家がこぞって発起人となったのである。むろん各自の参加した思惑は様々である。
 しかし「北辺の荒野」に野心的であったという点では一致していた。もっともこの傾向は財界人だけに限らないし、そもそもは版図を拡大するという成長路線に従った、帝国的植民地主義の既定路線であったとも言える。
 さらに同社の設立時の株式募集において、総株数の三倍もの申し込みがあった が、これは当時の世情の「空気」とでもいうべきものが、開拓に向けられていたことを物語っているのだろう。蝦夷地から北海道と名前を変えたその土地に、多くの国民が希望と野心を抱いたのである。
 
 蛇足ではあるが、目的や実質、そしてその後はまったく異なるものの、北海道における北炭をして、満州における満鉄をなぞらえたら話は飛躍しすぎるだろうか。
 堀たちが同社を設立した意図に、北海道を拓殖して国力を増強し、もってロシアの南下に備えるという切迫した国際政治的力学が働いていたことも、満鉄と同じような境遇を与えられた会社として、その位置づけを見ることができないだろうか。

 さて、北炭。以上のような設立当初の来歴を持つわけであるが、当初は設立時の社名=北海道炭鉱鉄道の通り、鉄道と炭鉱経営が主な業務であった。しかしその後、同社の実質的なトップとなった井上は鉄道国有化論者 であり、よって北炭の経営する鉄道も国による管理を求めいていたのである。そして、国が北炭の鉄道を買い上げた暁には、その資金を原資に製鉄業に乗り出そうと画策した。
 北炭が設立当初の社の使命である鉄道経営を国に譲ったのは、この井上の目論見が大きくかんでいたのである。
 そして世情は井上の目論見通りすすみ、鉄道を捨て、新たな事業へと参入するためにロンドンの会議室の一室へとたどり着いたのである。
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室蘭の世紀19 〜室蘭、世界の中の一都市へ〜

2011年04月22日 00時21分24秒 | 室蘭
@魔都上海。そこは帝国の時代の夢と暴力の都。

 その日は久しぶりに晴れ間がのぞいたものの、Unpredictableと言われるロンドンの天気の通り、空模様は不安定であった。先週まで続いた雷雨は治まっていたが、北緯51度に位置するこの街は、たとえ7月であっても日本人にとっては縮こまるほどの肌寒い一日だった。
 けれど外の天気はそうであっても、世界の金融の中心であるシティを擁する都市としてのロンドンは、寒さを凌ぐほどの活気に溢れていた。時は1907年のことである。
 ところで、この時から遡ることおよそ60年前の1851年、ロンドンで第一回世界万国博覧会が開催された。世界の陸地の5分の1を支配していた大英帝国が、その植民地から珍しいものを集め展示し、同時に最先端の技術をも披露したのがこの万博である。国内を中心に600万人が万博会場であるクリスタル・パレスに押し寄せた。この頃をして大英帝国のもっとも華やかな一時代であったという者は多い。

 下って万博からおよそ60年後の1907年のことである。あれ以来版図こそ拡大したものの、大英帝国の威光は確実に陰りを見せ始めており、新興国のドイツやアメリカに今にも追い越されそうな情勢も顕著だった。そしてこういった時代の気分のようなものは、人々の間でも囁かれて久しかった。
 さらに、1902年に結んだ日英同盟は、裏を返せば軍事的にも「栄光ある孤立」を維持できなくなったことを意味したのである。パクス・ブリタニカと呼ばれていた時代も、終焉を迎えようとしていた。そんな時代である。

 しかしもちろんそうは言っても大英帝国である。依然として世界中に無数に散らばる植民地を支配していたし、シティは厳然とした力を誇っていた。それに人々が衰退したと感覚的に感じているのと、実際の経済あるいは軍事力などの国力が衰退するのとは、別の話である。
 それにやっと近代化のとば口に立ったばかりの小国からきた日本人にとってしてみれば、たとえ東京といえどもロンドンの前では小さな片田舎といった面目になってしまうくらい、この街は大きかった。
 二十世紀のはじめにロンドンに留学した漱石は、驚きをもってこの街を眺めた。
 「まるで御殿場の兎が急に日本橋の真ん中へ放り出されたような心持であった。表へ出れば人の波にさらわれるかと思い、家に帰れば汽車が自分の部屋に衝突しはせぬかと疑い、朝夕安き心はなかった」 と。
 今はそんなご時勢の話をしようとしていることを覚えておいて欲しい。

 さて、そんなロンドンのある会議室に、数名の日本人とイギリス人が居合わせていた。その中の日本人の一人は風格逞しく、明治人に特有の頑強そうな表情をしている。この男は、この時47歳であった。
 一方、会議室の対面には、いかにも英国紳士といった風情の男たちが並んでいる。当時は斜陽がかったとはいえ、いまだ世界に覇を轟かす大英帝国である。まだ弱小国家で、しかも東の果てにある日本から来た男たちを前に、英国紳士たちの顔には自信がみなぎっていた。

 男たちは顔を突き合わせ、最終的な確認を行った後、正式契約書および付属文書に調印を行った。いくら事前折衝 を詳細に行い手はずはすべて整えてあるといっても、正式な契約を交わすまでは緊張の糸が切れることはなかった。多忙を極める男たちにとって、日本をしばらく留守にすることは心もとなかったが、それでもこのサインだけは自らの手でしなければならなかった。男はぎこちない手つきでローマ字によるサインを書き残している。東洋の風習である印鑑をサインの上に押したのは、いつもの慣わしに従ってのことだろうか。

 ここに両者の積年の思惑は結実し、晴れて契約成立となったのである。そしてこの時をもって、一つの会社が産声を上げることになった。そこにいた英国人たちにとっては幾多手がけてきた仕事のひとつにすぎなくとも、日本人にとっては念願の、そして産声を挙げたばかりの新しい国の未来予想図を描く端緒に、やっとついたと思ったに違いない。
 行きはシベリヤを経由して、帰りはアメリカを回ることによって、日本からこの一事を成し遂げるために男たちは遥々海を渡ってきたのである 。日本を発ったのは6月の半ばであったが、帰国したときはすでに秋風が吹く9月に入っていた。
 正本は英文をもってされたこの契約書にそれほどの価値があり、そして男たちにとっては長年の悲願だったのである 。
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室蘭の世紀 18 〜閑話・後半〜

2011年04月03日 00時49分49秒 | 室蘭
@百年以上前、この地に近代の灯りが燈り、信じられないほど多くの資本と人間たちが押し寄せた。しかしそのような時はいつまでも続かない。今では眠るように静かな森へと返ったのである。

 さて、このように二つの街が辿った軌跡は同じような弧を描くのだけれど、話はさらに飛躍する。
 明治の頃から、道路と鉄道、そして後には空路といった交通のインフラが整備されていくと、次第に「国土」は広がり、ダイナミックな人の移動と社会空間の拡大が起こり始めた。「日本」という版図の中をところ狭しと人と資本が駆け巡り、近代が躍動したのである。

 明治に入り、鉄道が日本全国に敷設され始めると、それと前後して近代的な設備を備えた工場が全国いたるところに建設された。室蘭へ引かれた鉄道とその周辺で言えば、まず炭鉱が発見され、それに続いて鉄道が引かれた。そしてその沿線であったために室蘭では日本製鋼所と輪西製鉄場が、そして苫小牧には王子製紙といった近代的な工場が次々と建ったのである。

 ここに連なる法則は、鉄道、そして近代的な産業である。であるから、このような話は何もここ室蘭だけの話ではなく、全国各地で見られたことであった。もっとも官営の事業所が全国に次々と立てられ、官の資金が産業振興に当てられたことは、殖産振興、富国強兵のスローガンによってもわかるように、開国した日本が目指した形そのものを表していたということなのだろう。
 そしてこのような官主導の産業は、中央で計画したものを地方に振り当てていったのであるから、日本全国に均質とまではいかないものの、同質性の高い、それでいて多様なシステムができあがったことも、うなずける話なのである。

 であるから、例えば室蘭のたどった歴史を羅列し、そして室蘭の地名を別の都市名に置き換えてみる。すると当てはまりそうな都市はいくつも見つかるのである。浦賀も然りである。
 あるいは街を一変させた産業を、別のものに置き換えてみたらどうだろう。製鉄、造船、製糸等々と。数え上げればキリがないほど、無数の都市名が浮かび上がってくる。

 つまり室蘭や浦賀が経験した近代なるものは決して特殊なものではなく、日本全国の多くの街が似たような経験をしたと言えるのではないだろうか。
 もっと小さな話にすれば、今ボクが書いていることは決して自分で発見したことではなく、人から見聞きしたこと、教えられた場所をそのまま書き留めているだけなのである。なんら斬新なことでもめずらしいことでもなく、いわば人々の日常という記憶を切り貼りしているだけなのである。
 しかしその日常が、人々の記憶の中で交錯し、あたかも同時に同じ場所で同じような経験をしていたように思えてしまうことがあるのだ。街の歴史はすなわち人々の歴史であり、街の歴史一つとっても、そこには埋もれてしまった多くの人々の記憶があるのである。そしてそれらが取りも直さず、近代という言葉によって重層的に積み重なっているのである。

 過去の出来事を見返すとき、ついつい大きな歴史を眺めることが常となってしまいがちであるけれど、近代なるものの時代の一側面は、工場の工員の、あるいは女工たちひとりひとりが紡いだものが、大きな歴史のうねりへと繋がっていったりもしたところにある。あるいはまた、小さな街ひとつひとつが紡いだものが大きな国を作り、現代の繁栄へと続いたのである。
 であるから、今辿っている二つの街の物語は、少しだけ詠み方を変えてみるだけで、どこかの誰かの「私の物語」になりうるのではいかという期待を抱くのである。

 さらにこの共通性といったような現象を、もう一つの側面から考えてみる。近代という時代の特性は、成長が語られ、大資本が産業を興して工業化を成し遂げ、膨張していく過程でもあった。それはすなわち、大資本がなければ産業を興すことができなかったということでもあり、つまりは資本がなければ街の勃興に参加するような力を持ち得なかったということでもある。
 さて、それでは主役たる大資本はどこにいたか。当然、地元の資本だけではない。むしろ多くの場合は、中央で力を蓄えたものたちが全国を勇躍跋扈し、産業を興したのである。官もある種この範疇で捉えることができるのではないだろうか。

 そしてそのことは街並みにも反映される。今、我々が懐かしいと感じる 明治から昭和初期にかけての建築物は、同じ資本によって、同じ門の出の建築家たちが建てたものが少なくない。北海道の小樽にある建物も、東京のど真ん中に残る建物も、同じ建築家による設計ということはよくある。もっと言えば、東京も上海も、あるいはロンドンもということもめずらしくはない。
 大資本が中央から様子を伺い、オセロゲームのようにコマをひっくり返し、自分のものになったところには城を建てる。まさしく国盗り物語のような現実があったのである。時はまさしく勃興期であった、ということだろう。

 さて、このように書いてくると、今日の社会の諸問題として語られていることの遠因は、すでにこの頃に萌芽していたといえるのではないだろうか。つまりはグローバル化であったり、均質な空間整備などである。または中央集権的な国家体制による中央と地方の関係。あるいは中央資本による席捲という図式は、今とそれほど変わるところがない。
百年以上の歳月を経て、ある機能は制度疲労を起こし、またある機能は今後さらに猛威を振るいそうな勢いである。
 そして、形あるものはいつかなくなるという不文律は、制度にしろ街並みにしろ、ヒトの作り上げたものに容赦なくのしかかってくる。そこでは一度築いたヒトの牙城でさえ、あっけなく森に帰っていく姿があるのである。
 けれど、そこには確かに一時代を築こうとしたヒトの朗々たる営みがあった。そして今から見れば荒唐であったり、現在へと続く問題を内包していたとしても、しかしそれでも個々の物語があったということは消えないのである。
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室蘭の世紀 17 〜閑話・前半〜

2011年03月04日 00時12分12秒 | 室蘭
@横浜正金銀行横浜本店(現神奈川県立歴史博物館)
かつてこの街とこの銀行は日本の近代の結節点として、無数の街と産業とカネとヒトと…を結びつけた。


今日、文明諸国が鉄道の建設に注いでいる熱意と激情は、数世紀前の教会建設のための出来事に比べられるものだ。…宗教という語が「結びつける」から生じたとすれば、…鉄道は、普通思われているよりも、宗教的精神と深い関係を持っていることになる。各地に散らばった人々を結びつけるために、…これほど強力な装置はかつて存在しなかった。
             ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論 第4巻』岩波書店


 今、ボクたちが見ようとしているのは、室蘭と浦賀である。両都市の距離はすこぶる遠い。直線にしたら800キロはあるだろうか。今でこそ飛行機でひとっ飛びのこの距離も、明治の始めには東京から北海道に行くだけでも一日以上はかかった。もっとも明治以前は、天下の江戸の目と鼻の先にあって、江戸の文化とでもいうものの香りを直接にかぐことができた浦賀と、江戸後期の蝦夷地は、完全なる他者ではなく同一化が可能な他者 として認識されていたアイヌの地ではあったが、しかし依然として江戸からすれば辺境の地であったわけで、両者を同じテーブルに並べて語れることは幾ばくもなかっただろう。

 では、このような日本の北と中央の中の地方にある街の、どこに同じと言えるような経験があり、そしてそれを語りうるのだろうか。
 それは取りも直さず、ともに近代という時代を通り過ぎてきたことの一点に尽きる。
 室蘭にも浦賀にも天然の良港がある。それはそれぞれの街にとって大きな利点となり、街を潤す契機となったに違いない。けれどそれだけでこの街を語ることはできない。港街から出発した両都市にはやがて鉄道が敷設され、近代の熱狂の渦中に躍り出ていったのである。
 そのうち工場ができ、モノやヒト、そしてカネが集るようになった。それからは国を富ませ強くさせるためにひた走った。
 
 殖産興業!
 
 そして時代は流れて現在、それら熱狂の渦もどこかに通り過ぎていったとき、街は忘れられ、再びもとの静けさを取り戻そうとしているのである。

 人々を熱狂の渦に巻き込んだ鉄道も、似たような運命を辿っている。室蘭まで延びている室蘭本線は、名前の通り室蘭(現東室蘭)まで鉄道を通すことを目的として敷設された鉄道である。始点となったのは、産炭地に近くターミナルとしての役割を担っていた岩見沢であった。ところが現在では、苫小牧と札幌を結ぶ千歳線が大動脈となり、苫小牧から岩見沢に抜ける室蘭本線は、めっきりその存在感を失ってしまっているように見える。
 一方の浦賀駅も、立場としては京急本線の終点駅にあたる。本線は浦賀へと続くのである。しかし品川から乗車するために時刻表を眺めれば、その多くは支線であるはずの三崎口行きであることに気付く。おまけに弾丸快特の京急ウィングは三崎口にしか行かない。今や浦賀へと続く線は、実態としては完全に支線扱いである。

 そして両都市をもっとも特徴付けているのは、明治、大正、昭和、そして平成と時代の変遷に即して産業構造の転換が図られなかったことである。
 かつて、都市は産業によって特色付けることができた 。街を代表する産業があることによって街は繁栄し、またそのことで全国にその名が轟いたのである。室蘭は鉄で浦賀は造船である。
 ところが時代は移り変わり街の核であった産業が衰退すると、別の産業が入ってくることによって繁栄を維持はするがかつての特色を喪失していく街と、一方で新たな産業構造への転換が図れず衰退してく一方の街とに分かれた。幸か不幸か、両都市は後者であった。
 しかしそれは別の見方をすれば、時代の、あるいは街の絶頂期があり、それを謳歌したということでもあるのだが。それは盛者必衰と言い表せることだろうか。
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室蘭の世紀 16

2011年02月19日 23時11分27秒 | 室蘭
 紳士のように商いを営むものやこの街が栄枯盛衰を経験したのは、鉄と深い関わりをもったことによるのだろうと思っていた。しかし紳士によるとそうではないらしい。確かに鉄の衰退によってこの街自体の勢いは衰えたのだけれど、それだけではなく、もっと大きな影響を与えたのは港の機能が苫小牧に奪われてしまったことだと言うのである。
 言われてハタと考えてみると、確かにこの街の出発は、天然の良好な港湾に開拓者たちが眼をつけたことによる。お雇い外国人のケプロンが港の優位性に気付き、建議をしたのも街の発展に大きく寄与をした。

 もっともお雇い外国人や新政府の役人がこの港に目をつける前から、室蘭の港が良港であることは知れ渡っていた。江戸時代には既に室蘭は交通の要衝となっていたし 、そのために、外国船にも室蘭という土地は知られることとなったのである。
 ちなみに、日本の外国との出会いは、黒船の来航をもって始まったわけではない。黒船以前から日本近海には外国船がしばしば訪れ、現地の人間と接触していたのである。そして当時はまだ蝦夷地とされていた北海道にも、頻繁に外国船が来航していた。

 室蘭には寛政8年(1796年)、イギリスの探検船プロビデンス号が突如現れた 。絵鞆沖に停泊したプロビデンス号は、2週間ほど同地に留まることになるのであるが、その間に港内の測量などを行った。そして後年、船長であったブロートンが『北太平洋探検の航海記』を記し、「世界に絵鞆港(室蘭港)の良港であることを紹介」 したため、その名が知れ渡ったのである。

 さらに、この船長の功績はもう一つある。
 宮沢賢治の『春と修羅』の中に、「噴火湾(ノクターン)」という一片の詩がある。前年に亡くなった妹とし子を詠んだ詩である。1923年に賢治が教え子の就職口を得るために樺太に行き、その帰りすがりの汽車の車窓から海を眺め、月明かりに照らされた「噴火湾のこの黎明の水明り」を見ながら読んだものであるが、この「噴火湾」という日本人にはとても思いつきそうもない名こそ、ブロートンが「ボルケイノ・ベイ」と命名したことに由来するのである。
 正式には内浦湾というこの湾は、賢治も乗った室蘭本線、つまり陸側から海を見渡すと、あまりに穏やかで静かな海なのである。賢治もこの穏やかな海を見て、妹を思わずにはいられなかったのだろう。内浦湾の先には、月明かりに映しだされた駒ケ岳が浮び上がっていたかもしれない。

 ところが一転して海から陸を見渡すと、活火山が連綿と続きあたかもどこぞの映画スタジオを見ているかのような壮観が広がるのである。
 ブロートンの作成した海図を頼りに黒船に乗って絵鞆湾を訪れた、ペリー艦隊の補給船サザムプトン船長のボイルも、よほどこの火山群が印象に残ったと見えて、その「一大壮観」を書き残している 。
 駒ケ岳から始まりいくつもの火山を経て、最近では記憶にも新しい出来たての昭和新山まで、とにかく猛々しい山並みが続く。
 風景のインパクトが強かったということでもあるのだろうが、外国人が海から見た景色を地名とし、その後もずっと記憶されたことにこそ、取りも直さずこの地が良港であり、それが知れ渡たっていたことを物語るのである。

 さて、室蘭港。明治の初めには北海道における石炭と材木の積出港として、そしてその後も各種物資の出入りの拠点としての重役を担ってきた。すべてではないにしても、旅客もここを北海道の始まりとする時代があったのだ。
 ところが40年ほど前から札幌圏に近い苫小牧港が石炭の積み出し港として整備されたことによって、室蘭港はあっけなくその座を奪われてしまった。苫小牧港の近代的な設備と、札幌圏、そして産炭地への地の利から、室蘭港はなす術がなかった。
 物流の要であった港の衰退は、室蘭という町に大きな衝撃を与えた。とくに港を前提としていた商売にとっては致命傷であった。

 ところで、室蘭港が整備され始めた明治の頃、すでに北海道の港としては函館と小樽が整備されていた。両港は今でも赤レンガが立ち並び、往時の繁栄を物語っている。さらに、両港ともニシンをはじめとした漁業で有名な町であり、港が発達したのも当然だったのである。ではなぜそのような港を抱えながらも、開拓使たちはたいした産業もない室蘭の港を整備しようとしたのか。
 それは先にも書いた良港であったことに加え、不凍港であること、東京を始めとした本州との窓口としてもっとも立地がよいこと。そして一度有事があった際、最後まで安全だと考えられたのが室蘭であったからである。ちなみにこの有事というのは、当時であるから想定されていたのはロシアである。

 黒船にすべてはかき消されてしまったように思えるけれど、そもそも幕府が最初に恐れた外国はロシアであったし、その後も『坂の上の雲』に描かれたように、日本は長らく恐露病とでもいうものを罹っていた。日英同盟の締結も、その主眼は対ロシアの利害関係がイギリスと一致したことが大きかった。
 であるからロシアと戦火を交えたとき、物流の拠点は出来る限り安全な場所にあることが、現実問題として重要だった。

 イギリスなどの植民地政策では、彼の地で取れた物資をいかにして本国に輸送するかが重要課題であった。だから世界地図を広げると、もっとも遠い植民地である香港とイギリス本国間は、きれいに線で結んだようにイギリスの植民地に塗りつぶされていったのである。
 同じように、北海道で取れた資源をどのように本州に効率的に、かつ安全に運べるかということが日本政府の課題であった。そこで白羽の矢がたったのが室蘭だったのである。
 石炭、材木などの物資を36号線と併走している鉄道で室蘭まで運び、そこから船に乗せ横浜やその他各地に海上輸送をしたのである。

 ところが一方で、室蘭港が物資の輸送路の本線として整備されたということは、逆に言えば函館などの日本海側を庭としてきた街が支線になるであろうことを想像させたに違いない。明治以前はアイヌをはじめとした先住民や商人が日本海をいわば内海として、アムールからサハリン、南下して北海道、そして本州と一大物流のネットワークを築き、ダイナミックなヒトの流れがあったことは以前にも書いた。その潮目が今、変わろうとしているのである。
 室蘭にとっては、「我々の世紀が音をたてて近づいてきている」ということを予感しえただろうか。
 いずれにしても、こういった事情から、室蘭という街の性質を考える上で重要なターニングポイントとなったのは、まず港であったと言っていいだろう。

3 6号線の終点から道道に乗り換え、海沿いに祝津方面を目指して進むと、錆び付いた倉庫の群れが姿を現す。そして道の両側には一寸の隙ももったいないとばかりに、商店や住宅が軒を連ねる。港のために建てられた重厚な建物と、密集する建物が往時の繁栄を物語る。そしてさらに進むと、函館どっくの巨大クレーンが数機立ち並んでいる。間違いなく、室蘭は港の街でもあったのだ。小樽にも劣らない立派な港の街だったのかもしれない。

 しかし今では往時の繁栄を物語るものは、古びた建物しかない。紳士は、港が栄えていた当時、多くの外国の船もこの港に立ち寄り、街には外国の船乗りたちがいっぱいいたのだと語っていた。フィリピンやベトナムのまだ酒を覚えたか覚えないくらいの若い船乗りたちと、スナックで片言の英語で楽しくやったのだと。今は港周辺を歩く人もまばらで、港を行き交う船は少ない。
 港の衰退は、モノが集らなくなることを意味した。そしてモノが集らないということは、それを運ぶヒトも、そして富も運び去ってしまったのだろう。そう考えると、紳士が言うこの街の衰退は港の衰退と一にしたのだということも、あるいはそうだったのかもしれない。
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室蘭の世紀 15

2011年02月07日 22時12分53秒 | 室蘭
@あるスナックの80歳を越えるママは、景気が悪くなったら暴力もどこかにいってしまったと言って笑っていた。(このお店とはまったく関係ありません)

 辺りが暗くなり始めてきたので、早々にこの町は切り上げることにした。もう一度、夜の室蘭を見てみたかったからである。

 昨日と同じように室蘭駅近くの繁華街を彷徨い、時々カメラのシャッターを切る。そうして明かりの消えてしまったスナックの群れをしばらく眺めていると、後ろから初老の男性が「おもしろいか」と尋ねてきた。紳士は地元の人らしく、この辺りの景色は見慣れてしまっているから、ボクのように写真を撮ったり、興味深く眺めている姿がめずらしくもあり嬉しくもあったらしい。
 おもしろいのだと答えると、それならもっとおもしろいところを案内すると言い、紳士はスタスタ前を歩きはじめた。他に行くあてもなかったので、少しだけ訝りながらもその紳士の後をついていくと、彼は歩きながらこの町についてぽつりぽつりと語ってくれた。

 今ボクたちが歩いているこの道も、昔は人が歩くのに肩をぶつけながらでないと歩けなかったと。それほど賑わっていたのである。だから通りには一坪ちょっとの小さな店が軒を連ねるようになったのだ。そしてそんな小さな店でも、結構よい商売をしていたのだと言う。紳士も昔はそんな店にいっぱいお金を落としてきたのだと言って笑っていた。
 でも今では肩がぶつかるどころか、通りを行く人を見つけることだけでも難しい。

 紳士が案内してくれたのは繁華街から一本入ったところにある、人がなんとかすれ違うことができるだけの細い路地だった。最初は暗くてよくわからなかったけれど、眼を凝らしてみると、両側には小さな店がズラッと並んでいた。しかしひとつとして営業している気配はない。
 この町がまだ景気がよかった頃、小さな店が雨後の筍のように立ち並んだ。そして月日が流れ、店の所有者たちは姿を消した。そのために今ではこれらの夢の後を壊すことも、新しいテナントを入れることも適わず、もうどうにもならないらしい。

 そんなことを紳士と話していると、まだまだ話したりないらしく、時間はあるのかと、そしてもしあるなら一軒付き合わないかと尋ねてきた。時間はあると答えると、それでは室蘭名物の焼き鳥を食べに行こうと言う。
 そんな紳士の誘いにのって、昨日と同じく焼き鳥を食べることになった。
 昨日とは違う店に入り、焼き鳥は鼻がツーンとするくらいたっぷりとカラシをつけるのだという紳士の助言に従って食べると、確かに豚の油とカラシがよく合ってうまい。やっぱりこの焼き鳥は男たちのたくましい味がする。

 ところで、紳士はここ室蘭でずっと材木商を営んできたらしい。だからずっとこの辺り一帯を庭にしていたとのことである。室蘭の全盛期も見てきたし、今でもここを縄張りとしているのだ。後発の東室蘭の繁華街は、若々しすぎてどうしても好きになれないらしい。
 また、盛っていた当時から本当の労働者は輪西の繁華街へ繰り出していた。輪西という地域は室蘭と東室蘭のちょうど中間に位置する、工場の門前町というべきところである。だから労働者たちが仕事終わりにその足で向かえるようなところだったのである。 一方で、この地域は接待や、少し改まったときに使うような場だったらしく、自分はそこをずっと庭にしてきたと紳士は少し誇らしそうだった。

 しかし室蘭の最盛期は、人口が20万弱ほどもいたわけであるから、単純に今の倍の人口があったということになる。人口が半減してしまうということ。しかも20万弱だった都市が10万を切ってしまうということは、それなりの規模の都市がひとつ消滅してしまったほどの衝撃と同じことであり、それをさびしく感じなかったのだろうか。
 「栄枯盛衰で、すごく栄えているのもいいけれど、すごくさびれているのもそれはそれでいいものだ」と、紳士は答えた。

 聞くところによると、紳士の商いもこの町の盛衰と歩調を合わせるようにしてきた。全盛期は何人もの人夫を抱え景気のよい商売をしていたが、その後だんだんと下り坂に入り、今では夫婦だけで賄っているとのことだった。町の盛衰は人の人生まで簡単に左右するほどの力を持っていて、それに抗うことはできなかったのだろう。そしてきっとそんなことを笑って話せるようになるまでには、いろんな噛み切れないような思いを噛み砕いてこなければならなかったことだろう。
 でもきっとボクがこの紳士の話を聞いてみたいと思ったのも、そしてこの町に惹かれたのも、こんな懐の広さに惹かれたからなのだと思う。
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室蘭の世紀 14

2011年01月23日 23時47分13秒 | 室蘭
@室蘭:手前が室蘭市街地(海岸町)。海に突き出していて青と紫の屋根の建物があるのが中央埠頭。その先の風車があるのが日本製鋼所。煙を吐く煙突がたくさん並んでいるのが新日本製鉄。(ほとんど見えないが)新日鉄の奥に広がるのが東室蘭。


 翌朝は、室蘭のねぐらで眼を覚ました。ボクが泊まったホテルの部屋には窓がなかった。であるから、朝が来たのかどうかはわからない。光の一切遮断された部屋にいると、人間の体内時計などたいしてあてにならないのだということを思い知らされる。一泊四千円の安宿である。ふと中国の安宿に泊まっていたときのことを思い出した。日本にも窓のないホテルがいまだにあるのである。
 部屋から出て絨毯だけが妙に新しい廊下の先にある窓から外を眺めると、ホテルとは道を隔てた向かいにいかにも古めかしい建物がどっしりと腰を下ろしている。ヨーロッパのお城を小さくしたようなその建物は、以前は病院として使われていたらしいが、今ではも抜けの空である。けれど石作りでいかにも重厚そうなその建物が、かつてはこの街が栄えていた痕跡を今に伝えている。室蘭には、このような建物がいくつか残されているのであるが、窓のない部屋に泊まり、この外の風景を眺めていると、もう何がなにやら、ボクがいるのはいつの時代なのかさっぱりわからなくなる。

 さて、再び室蘭の街を彷徨ってみる。室蘭の街はいくつかのエリアに別れているが、地形は函館と似ているところがあり、小さな半島のようにひょっこりと飛び出したところに街の中枢施設が集っている。室蘭の黎明期には、この小さな半島に工場を含めてほとんどの機能が集積していた。行政機能はもちろんのこと、港とそれに続く鉄道施設、そして造船所や鉄関係の工場がそれである。
 わずか直線にして7キロほどの中に、室蘭というミクロ・コスモスが広がっていた。であるから、室蘭の中心街近くにある測量山から周囲を見回すと、港を中心に、この街のあり方が手に取るようにわかるのである。

 さて、室蘭の街の中心から半島の付け根に向かって進むと、まず日本製鋼所を通り過ぎ、続く新日本製鉄の工場も通り過ぎたところで半島が終わり、さらにその先に、現在の商業エリアの中心でもある東室蘭がある。今でこそ室蘭よりも東室蘭のほうが活気を感じられるが、かつてこの地域には屯田兵村があったものの、現在のような街の姿を整えたのは主として戦後である。ついでながら、工場が立地した輪西地区も元は湿地であり、屯田兵が入植したものの、農業には不向きな土地であった。

 現在では東室蘭の駅から知利別方面へは商業施設とともに、戦後に整備された住宅街が所狭しと立ち並んでいる。アパート形式の社宅はあるものの、多くが戸建の住宅などのこなれた風景となっている。しかしこれは今でこその話であり、一昔前の写真を見ると、このあたり一体はいわゆる炭住と言われる長屋の町並みを形成しており、そこに居住する人々は等しく鉄関係の仕事の従事者であった。
 
 室蘭方面から東室蘭に向かって進んでいくと、工場が密集したエリアへ侵入していくように道は続いている。辺りの風景が次第にくすんだような色に変わっていくのは、工場の色のおかげだろう。ドーン、ドーンと工場の稼動している重く鈍い音が、あたかも街の鼓動のように聞こえてくる。
 工場の全景を眺めるために高台に登り辺りを見渡すと、工場の巨大さも然ることながら、街の中心に工場がどっしりと腰をおろしていることがよくわかる。このコンパクトな町に似つかわしくないその巨体は、この工場と街との関係を端的に表わしているようでもある。

 工場が煙を噴き、鼓動を鳴らす。室蘭の街に初めて溶鉱炉が建ったのは、明治42年(1909年)のことだった。湿地帯の中に突如立った近代の光。きっと明治の頃も似たような煙と音があったのだろう。そして人々は近代の逞しい足音を、そこに聞いたのではないだろうか。
 そんな思いに囚われながら飽かずに工場の群れを眺めていると、思わずその美しさに魅了されてしまう。この景色が優れているのは、街自体が観光や商業的な目的のために脚色されたのではなく、厳しい自然環境に耐え、日本の近代化を支えるために趣向された街並みだからである。飾らず、そして鉄の町という工業規格的な佇まいが、この街の美しさの源泉になっている。

 さて、工場を横目に見ながら国道を進んでいくと、ちょうど半島が終わるあたりから街並みが少しだけ明るくなりはじめる。ここはもう東室蘭の文化圏に入ったということなのだろう。東室蘭は元々が商業地として出発しており、また後発の街なので、室蘭に比して癖は弱く、そのためか街の衰退の速度も緩やかである。
 ところが最近、街の商業を牽引してきた北海道資本のデパートが閉店したことによって、近い将来、この街も室蘭の後を追うのではないかという危惧がある。

 しかしこの地域が室蘭と決定的に異なるのは、大動脈の一部としての国道上にあるということであろう。国道36号線は苫小牧方面から真っ直ぐ進んできて、東室蘭の中心街を右手に仰ぎつつ、そのまま室蘭中心街、つまり半島へと突き進みそこでどん詰まりになる。今でこそ36号線の先にある白鳥大橋が半島の先から湾を横切り伊達方面へと抜ける37号線に接続してはいるものの、この橋が出来たのはつい最近のことであるし、もっとも作ったからといって大動脈を担えているとは到底思えない。事実、そのような目的で使われていないことは、交通量を見れば一目瞭然である。

 そこで苫小牧方面から来たものが函館方面に突き進んでいくためには、半島に乗り入れる直前で36号線に別れを告げ、新たに37号線をひた走ることになるのである。そしてその37号線の始発部分が東室蘭である。ただしこの動脈は今でこその話である。明治初年の頃、37号線部分は非常に悪路であったため、今で言う国道は、室蘭から先は噴火湾対岸の森まで海路を取っていたのである。であるからこそ、今の海岸町付近は船着場として賑わったのである。
 話を現在にもどすと、人体のように血流がよい東室蘭と、末端部分のため血流が悪い室蘭ということになるだろうか。そのため、幸か不幸か室蘭市内でほとんど唯一と言っていい、わずかばかりの郊外型の風景を東室蘭では見ることが出来る。血流がよいため、資本の手が入ってこられる余地があったということだろう。

 もっとも東室蘭のすぐ隣りには工場群があり、町の中にもパイプが毛細血管のように張り巡らされているので、むしろ室蘭よりも工場との関係が密接なようにも見える。例え資本の介入があっても、一筋縄ではいかない強固なものがやはりあるのだろう。
東室蘭の町の中をさらに歩いてみる。すると、やはりここも室蘭であるということに気付かされる。町は予想以上に疲弊しているようなのだ。ところどころにある古びた学校や、斜陽にある繁華街がそれを物語っている。
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室蘭の世紀 13

2010年12月25日 11時55分51秒 | 室蘭
 北海道の室蘭という街を、いったいどれほどの人が知っているのだろうか。この街は観光地としての知名度はほとんどないと言っていいだろう。観光資源としてはホエールウォッチングと地球岬くらいのものじゃないだろうか。でもこの街の知名度は全国区だろう。そしてそれはおそらく鉄の街であることによる。

 明治のはじめ、室蘭の人口はわずか千人に満たなかった。いまだ眠りのなかにあるこの町が、北海道が誇る工業都市へと変貌していくには、まだ数十年の時を待たなければならない。そしてこの街の静けさを見たとき、これからわずか百年あまりの間に室蘭の世紀を迎え、そしてそれも過ぎ去るのを経験することになるとは、誰が想像できただろう。

 この街の第一の発展は、北海道で産出した石炭の積出港としてであった。鉄道が敷設され、炭田地から石炭が輸送されてきたのだけれど、北海道の鉄道事業中に占めるこの地域の石炭輸送の重要性は、他に類例を見ないほどであった 。それだけ北海道における石炭と、それを積み出す港の重要性が高かったということでもある。
 そしてその後の1907年に一大転機を迎える。鉄と室蘭が結びついたのである。日本製鋼所が設立されたのだ。さらに二年後の1909年には、北海道炭礦汽船輪西製鉄場(現新日本製鉄株式会社室蘭製鉄所)が操業を開始する。その後の街の発展は、製鋼所と製鐵所、そして港の繁栄と期を一にした。富国強兵、「鉄は国家なり」路線を日本が採ったことによって、室蘭は日本の成長を一身に担ったのである。二大工場を中心として、無数の中小町工場が所狭しと立ち並び、周囲の山肌は工場に通う人々の住宅で埋め尽くされた。そして1970年前後に室蘭は最盛期を迎える。

 しかしその後いくつかの要因によって室蘭は衰退を始める。そして成長が早かったから、衰退も早かった。1990年ごろには最盛期の半分ほどの人口となってしまったのである。室蘭の繁栄は、わずか半世紀とちょっとで終わってしまったことになる。あれだけ軒を連ねていた工場群もだいぶ数を減らし、街の様相は大きく様変わりをしてしまった。隆盛を極めた石炭積み出しもなくなり、専用の積み出し埠頭も今はない。ちょうど人間の齢と同じくらいの期間に盛衰を経て、今では町は死に体となってしまったのだ。

 死に体というのは比喩表現ではない。町が茶褐色で、通りからは灯りが消えてしまっている。そしてグローバルなパワーがほとんど入ってきていない。グローバルはぺんぺん草まで食い尽くすけれど、死んでしまった町には入ってこないのだろう。茶褐色なのは、この町が鉄の町だったことによる。錆びた工場の群れが町の色となった。
 もちろん今でも工場は稼動しているし、景気のいい設備投資も行われている。町の人口だって10万人程度はいるだろう。そして全国チェーンの店も多い。それでもこの町の息吹を取り返すことはできない。

 街のある人は、「行政もすごく頑張った」のだと言う。街が活気を失い始めてから、何とかそれを食い止めようと、行政も、そして街の人たちも頑張ったのだろう。手が届きそうなほどこじんまりとしたこの街で、多くの悲惨な出来事や悲しみを目の当たりにして、黙していられることなどあるはずもないのだ。打つ手は打った。それでもだめだった。
 きっと街の盛衰というものは、小さなひとつの行政単位でどうにかできるほど小さな力によるものではないのだ。
 開発から取り残された町が衰退していくのと、盛を経験した町が衰退していくのとでは決定的に異なる何かがある。盛があると平泉のように、街に一つのストーリーが出来上がるからなのかもしれない。

 室蘭の街をとぼとぼと歩きながら、人一人しか通れないような路地にも立ち入ってみる。細い路地にはスナックが軒を連ねているが、営業している店はいくつもない。その先の、看板だけが妙にまぶしい商店街を通り抜けたところで珈琲休憩をとる。
 その後、室蘭名物の「焼き鳥」に舌鼓を打ちに行く。室蘭の「焼き鳥」は、串に刺さっているのが鳥ではなく、豚というところにその大きな特徴がある。そしてねぎまが長ネギではなく玉ねぎを使うのも、また室蘭の特徴である。豚のほどよい油と玉ねぎの甘さがなんともいえず旨い。なぜ鳥ではなく豚になったのかはよくわからないらしいけれど、鉄の街で働く人間たちにとって、鳥では物足りず豚になったのかもしれない。
是非試してみるべき味である。

 店を出ると、町は完全に寝静まっていた。それほど遅い時間ではないのに。
 
 さて、室蘭。この町は死に体と書いたのだけれど、それはみすぼらしいとか魅力がないということではなく、むしろその逆で、こんなにも死臭のする魅力的な街を他に知らない。ギラギラしていくつもの欲望を飲み込んでいる街もそれはそれで魅力的なのだけれど、欲望も贅肉もすべてそぎ落とし、あとは座してその時を待つのみのこの街は、無駄な意識を一切働かせなくてよく、とても居心地がよいのである。歩いていればどこからともなく物悲しい演歌でも聞こえてきそうでもある。

 この街は、立身出世を夢見た小国日本が向かえた怒涛の世紀の中で、「日本」という子どもを立派に育て上げ、街としての役割を終え、今は静かな余生をおくっている。それは一方では、この室蘭という街そのものが、「日本」という国家の縮図だったと言うことなのかもしれない。
そこに住まうものや、欲望を見ているものの意思とはまったく無関係に、静けさを取り戻した街は、その時を待っているようだった。

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室蘭の世紀 12 〜天皇と宮沢賢治2〜

2010年12月16日 00時02分47秒 | 室蘭
 ここまできてわかることはなんであろうか。行く先々で賢治が眼にし、驚嘆の感慨をもって接した北海道。そしてそれは北海道を訪れることを切望した賢治が「いま窓の右手にえぞ富士が見える。火山だ。頭が平たい。焼いた枕木でこらえた小さな家がある。熊笹が茂っている。植民地だ」 と車窓からの風景をメモを取りながら辿った道であり、別の見方をすれば、道順、立ち寄った場所、方法すべてがまさしく近代そのものであったということである。
 
 目まぐるしい分刻みの行程は驚くべきものがあるが、これは鉄道を利用することによってはじめて可能となった。人力や馬車で移動していた時代には考えられなかった時間の管理、そして移動の距離。大正も中ごろとなれば鉄道はかなり敷設されていたから、管理された時間の中で移動を繰り返すことは、もはや不可能ではなくなっていたのだろう。すべては管理され始めたのである!

 次に、より重要なこととして、賢治一行の辿った道程は天皇の巡幸の追体験であったということである。時間的、予算的な問題からであろうか、賢治たちの行程は道央と道南に限られてしまっているので、道東まで足を伸ばしている巡幸とまったく道順が一致しているわけではない。しかし、小樽、札幌、苫小牧、そしておそらくは白老、室蘭においても、概ね天皇と同様の施設などを見学しているのである。それは天皇が行く先々で眼差し、客体化し、近代化させた対象を、賢治一行も同様に眼差していたことを意味するのである。
 明治天皇の巡幸からは40年ほどの月日が流れてしまっていたものの、大正天皇の皇太子時代の行啓からは10年ほどしかたっておらず、もしかしたら行く先々で「ここは両天皇がご覧になられた…ですよ」などと話をしていたかもしれないということは容易に想像がつく。

 そもそも学校における修学旅行は、自然発生的に始まったことが知られているが、その中でも修学旅行の嚆矢とされる東京師範学校における最初の頃の旅の形は、「生徒は軍装で各銃器及び背嚢に外套」という出で立ちで、「生徒総員を3小隊の1中隊に編成」しての長途遠足というものであった。その後の各校の修学旅行も、物見遊山的な雰囲気はあるものの、目的はたとえ建前にしろ、軍事的教練に置かれることが常であった。そしてそのような軍事的教練に加え、明治後期からは日本の大陸進出と機を合わせて、関西、九州地方の学校を中心に、満韓旅行が行われるようになったのである。
 軍事的教練、そして近代の光を観るという観光の先駆けのような修学旅行であったから、賢治たちが天皇の追体験をするように北海道を駆け巡ったのは、決して不思議な話ではないのである。

 けれど、同時代の他の学校の修学旅行の行程を考え合わせると、賢治たちが天皇の足跡を辿ることを意識的に行っていたというわけではないだろう。むしろ行程を組む過程で、結果的に同じような道筋と施設になったのではないだろうか。しかしもしそうであるとすれば、それこそが近代的な魔力であったと言える。それは、決められた輸送方法と“観るべき”施設、この両者が否応なく決められてしまうことである。
 北海道へ修学旅行に行くと決めた時点で、鉄道を利用しない選択肢はほぼないだろう。さらに鉄道を利用することによって分刻みの行程となり、偶然性は消えうせ、必然性の世界が広がり始める。
 必然ではあるが、そこにはマスの論理に支えられた大きな物語が無数に転がっている。さらに、観る観られるという両者の共同作業によって構築されたもの。これらを、我々は拒否することが出来るのであろうか。同調圧力と大衆の創出。

 天皇の巡幸も、賢治の修学旅行も、立ち寄った施設は、官、民、そして軍関係と、その存立基盤は様々である。しかし、天皇という近代の最高機関によって眼差され、客体化され、平準化される。そしてそれを機構の末端に位置する学校が追随するのである。
 賢治たち一行によって眼差された客体に、例えば小林多喜二の見た世界は存在しない。あるいは賢治たちが利用した鉄道は囚人労働によっており、多くの命を代償としているという暗く陰鬱な近代は存在しない。あるいは、「白老のアイヌ部落」は立ち寄っているものの、近代そのものからこぼれ落ちたその他多くの人々という負の側面は見出されることがない。

 近代の光、それは疑う余地のないほど圧倒的な力をもって、賢治たち一行の眼前に現れたのであろう。鉄道という文明の利器を使い、時間管理された中で分刻みのような移動を繰り返しながら、それでも賢治たちの見たかったものとは一体なんだったのだろうか。
 東北の片田舎の決して裕福とはいえない農民の子弟たちを前にした賢治が、胸を躍らせ涙を流しながら行きたいと願ったその場所とは、きっと時代の光に彩られた明るく、新しい近代的な町並みだったのだろう。
 大正も半ばとなったこの時代、一方には都会的な華やかな世界が広がり始めていた時代であり、しかし一方では農村のいまだ絶望的な貧しさから抜け出せない状況に陰鬱な苦しみを抱いている者もまだまだ多かった時代である。
 そんな農村から出てきた賢治たちが、北海道の明るさに希望を見出していたことは想像に難くない。そしてそのような町並みのひとつひとつが、天皇という近代の統治者によって眼差された客体であり、そこで上に頂いた天皇、そして平等な国民、この両者の結託によって理想の近代が語られ、作り上げられていった近代像が見出されるのである。
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室蘭の世紀 11 〜天皇と宮沢賢治1〜

2010年12月14日 00時05分11秒 | 室蘭
@昭和36年、昭和天皇の北海道行幸(写真提供:登別市教育委員会)

 大日本帝国憲法には、第1章第1条で「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とある。これは近代的な法治国家として、日本が列強諸国に示した最高典範の「天皇」の条である。以後の日本はこの憲法の各条に基づき、陰に陽に天皇を掲げ、統治機能を構築していった。万世一系という「魔術的」な発想による「近代」の統治である。
 さて、このような近代日本を統治するものとしての天皇は、全国を巡幸することによってその存在を示し、国民国家を形成していった。北は北海道から南は九州まで、日本全国津々浦々までくまなく回り、その身体を人々の前に曝し続けてきたのである。

 天皇は、巡幸することによって「「軍事的指導者」や「開化の象徴」「産業や学芸の奨励者」」 といった近代の規範を示した。そしてそのために天皇が回ったのは軍事施設や学校、産業施設などであった。さらに天皇が回るためには公共インフラが整備されていなければならなかったため、行く先々には立派な道路や鉄道、あるいは宿泊施設などが建設されていった。
 行く先々にインフラが忽然と出現するその様は、さながら大地に栄養を与える「現人神」の様相であった。天皇は軍服に身を包み、あるときは鉄道に乗り、またあるときは軍艦に乗り、マスキュリンな近代の象徴と前近代的な現人神の間を行き来しながら、西へ東へ駆け巡ったのである。

 天皇の巡幸は、もう一方の受け入れる側でもある村の重大事件になるほどであった。明治天皇の北海道巡幸の際に、室蘭では天皇が訪れると歓迎の花火が上がり、在港船は祝砲を放ち、海軍軍楽隊は夜の10時まで演奏を続けた。市井の人々も「陛下をおがもうと近在から出てきた人の数も大変な」ものであったから、まさしくお祭り騒ぎのようであっただろう。なにしろ百三十戸ほどしかない村に、300人からの大団体が押し寄せたのである。
 この天皇の巡幸は、明治14年の話である。この時期にはおそらくまだ「天皇」の認識が末端の国民まで浸透してはいなかったであろうことが考えられるが、過剰ともいえる演出や市井の人々の喧騒ぶりは、中央からの達しだけではなく、地方から発生した演出も多く含まれていたはずである。そしてそのことによって天皇や近代的な模範が示され、国民の間に浸透する契機となった。

 さて、天皇と賢治の関係性について、多くを語ることはできない。しかし、それでもいくつかを探してみると、まずは賢治が稗貫農学校(現岩手県立花巻農学校)で教鞭をとっていたころ、すでに全国の学校には天皇の御真影が下付されており、したがって賢治も事あるごとにそれを拝めていたかもしれないであろうことである。 
 そもそも学校と軍隊は日本国民を形成するもっとも有効な装置として、明治以降の近代国家においてその役割を期待され、十分に果たしていたのである。そしてその学校の教師として、あるいは軍隊の頂点に立つ君臨者として、両者の立場はある点で一致していた。

 そしてもうひとつは、北海道を旅、あるいは巡幸したということである。賢治が三度目の北海道に修学旅行で訪れ、各地を周ったのは1924年(大正13年)のことだった。『或る農学生の日誌』には、修学旅行で北海道に行くことになったことを聞き、その興奮を書き綴っている。

 「津軽海峡、トラピスト、函館、五稜郭、えぞ富士、白樺、小樽、札幌の大学、麦酒会社、博物館、デンマーク人の農場、苫小牧、白老のアイヌ部落、室蘭、ああ僕は数えただけで胸が躍る」

 結果的には北海道の修学旅行に賢治も行くことになるのであるが、それまでには北海道という異郷に趣くに際して、金銭的な問題などから、行きたいけれど諦めなければならないといった心の葛藤が、あたかも小説のような筆致で日誌に綴られている。そしてそれは同時に、北海道という土地が当時、いかに異郷としてロマンチシズムの彼方に捉えられていたかを物語っている。

 では、実際に賢治たちの修学旅行の行程はどのようなものであったか。「修学旅行復命書」によると、まず小樽を訪れた。

5/19
青森から連絡船で函館に入港。過憐酸工場と五稜郭を見学。
5/20
午前9時小樽駅着、直ちに高等商業学校(現小樽商科大学)を参観する。その後小樽公園をめぐり正午12時30分小樽を後にする。
午後1時40分札幌着。まず山形屋旅館に宿泊を約してから北海道大学付属植物園に行く。植物園付属博物館。その後、北海道道庁内を通って寄宿。夜は中島公園。狸小路をめぐって夜9時30分就寝。

翌日

7時30分発。札幌麦酒会社。次に帝国製麻会社。10時30分に北海道帝国大学。その後、中島公園の植民館。帰途、北海道石炭会社を見やりながら停車場へ。4時3分、一路、苫小牧を目指す。
苫小牧では富士館に宿を取る。

 ここまでが賢治の復命書による北海道修学旅行の詳細である。その後の行程は、同僚の報告によると、苫小牧の製紙工場(王子製紙)を見学し、白老(午後3時発)、室蘭(午後4時着・午後5時発=室蘭-青森間連絡船)を経て帰途に着いたことになっている。
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室蘭の世紀 10 〜苫小牧 3〜

2010年11月14日 01時18分18秒 | 室蘭
@新千歳空港(この空港の一部は苫小牧市に跨っている)

 苫小牧には、いくつかこの街を左右する岐路があった。まずは1963年の苫小牧港が開港したことである。現在の苫小牧港は、北海道における港湾貨物取扱量の約半分を占めており、北海道の海の玄関口として磐石な地位を築いている。
 しかし元来苫小牧港のある辺りは砂浜であり、港の機能などはなく、当然大型船など入港できる余地などあるはずもなかった。であるから石炭の積み出しも、産炭地からは遠いが天然の良港であった室蘭港が利用されてきたのである。
 そんな苫小牧に光が差したのは、時代の経過による技術の発達によってであり、人工の掘込港湾として起工式から10年以上の歳月をかけて苫小牧港が整備されたのである。

 そしてもうひとつ重要なことは、港湾機能の強化が多様な工場の立地を促したことである。戦後まで一貫して製紙の街であった苫小牧も、現在の製造品出荷額に占めるパルプの比率はわずか13.3パーセント にすぎない。それはパルプ業が衰退したのではなく、他の産業の急成長によって相対な比率の低下が起こったからである。今や苫小牧は北海道一の工業都市へと成長したのだ。道内の製造品出荷額に占める苫小牧の割合は、20パーセントに迫ろうとしている。
 蛇足ではあるが、この工業化の流れの中で、1971年「苫小牧東部大規模工業基地開発基本計画」なるものが策定された。国策による苫小牧の工業都市化である。策定当初は国家を挙げての壮大な計画であったわけで、1万ha超という開発総面積がこの国策の野望の大きさを物語っている。ところがいくつかの原因によって、あるいはそもそもこの壮大な計画自体に無理があったとも言えるのであるが、この国策は頓挫し、今では一部を除いて見渡す限りの広大な更地が残るのみである。

 さて、これだけ工業と港湾に依存した街であるけれど、一見すると工業や港湾の街には見えないのである。それは現在の工業施設が港湾地域に集中しているため、街中では容易に全容をうかがい知れないことも一因であるだろう。あるいは、この町はそもそも小さな漁村であり港湾機能は備えていなかったため、港を中心とした街づくりがなされなかったことも関係しているだろう。苫小牧には港町特有のにおいや雰囲気といったものがまるでないのである。
 ただし港湾機能がなかったことで、戦前期において港湾一帯の一等地を軍、あるいは国家に接収されずにすんだという捉え方もできる。結果、戦後にできた港湾を“自由に”設計できたのである。戦前戦後の歴史の連続性に翻弄されずにすんだとも言えるだろうか。そのために、街全体が他の戦前から続く重化学工業の都市とは違い、そのようなイメージに塗り固まっていないのである。

 では一体どのようなイメージをもって捉えることができるかと言えば、それは消費を核とした女性的な 匂いに包まれた街なのである。
 苫小牧市は市街地が東西に細長く伸びており、その両側は海と山に囲まれている。車で千歳方面から36号線で向かうと、ちょうど市街に入るところで道は二本に分かれる。一本は36号線であり、もう一本はバイパスとして整備された道道781号線である。この二本の道は併走しながら苫小牧を貫き、西隣の白老町にぶつかる手前で再び36号線一本に回収されていく。
 細長い街なので、自動車交通の主要な部分はほとんどこの二本の道路によって賄っている。そしてこの二本の道の両側には、多くのところでロードサイドショップがひしめき合うように立ち並んでいるのである。その光景は、この街がいかに「消費」文化を核に据えているかがわかる。
 ちなみに札幌から始まる36号線のロードサイドの風景は、この苫小牧で終わる。続く白老から室蘭にかけてはぽつぽつとある店舗を除いて、廃屋となったドライブインなど荒涼とした風景が続くのである。

 このような消費「文化都市」としての姿は、苫小牧市の「基本構想」 の中にも見て取れる。この苫小牧市の作成した「基本構想」の中では「人間環境都市」を実現するとあるのだが、その人間環境都市の定義とは、「人間主体のまちであり、豊かな自然と調和した文化の薫り高く潤いのある快適な環境の中で、すべての市民が持てる能力を発揮しながら、ともに生き生きと暮らし、未来に向かってたくましく歩むまち」である。
 この漠然とした文面からはなにやら分からないが、その後を読み進めていくと、苫小牧市がどのような方向性を目指しているのかが分かる。
 それは「環境」や「自然」あるいは「市民」などの単語が、「やさしい」や「健やか」「安全」「安心」といったキーワードとともにひたすら語られるのである。そしてこの「基本計画」は十年間をめどとして達成されるものとしているが、10年後の平成29年の人口の想定を「おおむね十七万人」としている。

 以前の苫小牧市は人口が30万人規模になることを想定しており、それは工業の発展によることを前提としていたのであろうから、典型的な近代的成長路線にあったわけである。ところがこの基本構想では、「成長」というキーワードは見当たらず、替わって語られているのが安全安心の無菌社会の達成である。リスクのない街。
 現在の人口が17万人に達していることからしても、「成長」を放棄し「安全」であり「文化的」であることへ方向転換をしたといえるのだろう。
 ただし、この街がこれらの時代に即したキーワードを実現するために担保としているのは、工業や港湾・空港機能である。工業都市として、あるいはゲートウェイ都市として、あるいは軍事関連に喪協力しながら、その果実をもってして実現しようとしているのが「人間環境都市」なのだ。しかしそれらが「基本構想」の中で語られているのは僅かでしかない。
 重工業や港湾の男性的な、あるいは戦前の日本が追い求めてきた近代的な匂いを発しないこと、それが消費に彩られた現実の街でも演出されている。

 しかし、である。労働者たちが集う街はどこにあるのだろう。あるいは水夫や港湾関係者が入り浸る店はどこにあるのだろう。そしてそのような人間たちによって形成された街はどこにあるのだろう。
 おそらくどこにもないのである。たとえあったとしても、多くの市民には見えないように、ひっそりとたたずんでいることだろう。なぜなら、それらは「人間環境都市」にはそぐわないからである。この街は「排除の構造」 を内包しているのだ。
 きっと現場で働いている人々も、36号線沿いの店に行くときは、“その場にあった”雰囲気を纏っていることだろう。仕事のままの格好と匂いをさせてくるものは多くないだろう。それが「人間環境都市」なのである。
 あるいは、東西に伸びた構造からして「溜め」ができなかったということでもあるのだろうけれど、街特有の底知れなさのようなものがないのである。時間がくれば開店し、時間がくれば閉店する。商品の値段がわからない不安もない。決して「ハズレ」の商品は扱っていない。あるいは表からではうかがい知れず、どんな悪が潜んでいるかわからないような店やビルもない。そして“あの”町角を曲がった瞬間に来たことを後悔してしまうような別の空間が広がることもない。いかがわしい店などまずありえない。それが「人間環境都市」なのである。けれど別の見方をした場合、「人間環境都市」が満たしてくれるものとはなんであろうか。

 それは「孤独」からの解放ではないだろうか。イオンをはじめとしたロードサイドショップは外装も色鮮やかに飾られ、あたかも遊園地に来たかのような錯覚を覚える。店内に一歩入れば、明るく消費を誘うリズミカルな音楽が流れ、一人である「孤独」を感じさせない。
 20代前半の女性は、ロードサイドショップに行く理由をボクにこう教えてくれた。一人で外食ができないというその女性は、ロードサイドのショップに行けば不安も一人でいることの恥ずかしさも、あるいは孤独も感じないのでショッピングモールで買い物をして、おなかが空けばそこで食事をすませることができるというのである。
 またある女性はボクにこう教えてくれた。40代の職場の男性上司をショッピングモールで見かけたのだが、職場にいるときの格好そのままであり、あまりにも「この場」にそぐわないように見え、思わず他人のふりをした、と。

 苫小牧の街は、室蘭本線、そして36号線により突如近代の光が燈ったことは前述したとおりである。そしてそれに続き、戦後の開港・工業化によってさらに街は発展し、人口の急激な伸びも経験した。このことは、戦後の日本社会が急激な農村部から都市部への人口流入を経験したときと、ある意味で同種の問題を提起した。それは核家族化や、農村社会的な地域コミュニティの不在である。
 一方で、コミュニティの不在を補ったのが消費を媒介とした新たな社会の出現だったのではないだろうか。消費を媒介にしているため、いかにも不安で刹那的である。けれどもショッピングモールは現代におけるシェルターとして、あるいは農村社会と同様な「社会」として機能しているように見えてならないのである。排除の構造とともにある同調圧力。そして均質性。
 生まれを共通項として、同質な思考や言葉、あるいは所得などによって地域社会は成り立っている。一方の消費を媒介とした社会は、着る物や食べるもの、そして趣味や文化活動に至るまでが消費の一部として同質性を保っているのである。これらを苫小牧は「人間環境都市」として体現しているかのようである。


 今まで見てきた苫小牧の諸々は、現代のどこの街にも当てはまることのように思える。しかし、室蘭と対比したとき、はっきりと両者の相違が浮き彫りになり、そして同時に、両方の街も変革の痛みの中にあり、その痛みは何に由来しているかがわかるのである。
 取りも直さず両者を取り巻いているもの、それは近代ということになる。苫小牧の街も順調にシフトチェンジしているようであるが、しかしその内実は多くの課題を抱えているように見えるのである。
 あまりにも巨大で強力な近代なるものに、いかに街そのものが翻弄され、そしてそこに住まうものたちをも巻き込んでいったか、あるいはいるのか。これからそれをひとつひとつ丹念に記録していきたいのである。
 
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室蘭の世紀 9 〜苫小牧 2〜

2010年10月22日 01時44分39秒 | 室蘭
@苫小牧駅前通り、午後6時30分

 人口を20万近く要し、周辺市町村も含めると北海道でも有数の地方都市の陸の玄関口である鉄道駅の隣りには、煙突から水蒸気を吐き出す工場の群れが見える。
 初めて見たときにはわが目を疑った。こんな光景は、今まで見たことがなかったからだ。これだけの人口を擁する都市の、しかも一等地である駅の隣りに工場が立ち並んでいるのである。ヒトが行き交う駅ビルの窓からは、右を向けば工場群が、左を向けば疲弊した駅ビルが淡々と並んでいる。
しかしこの光景が、唯一と言っていいほどわずかに残ったこの街のアイデンティティなのかもしれない。
 ここは苫小牧である。そして今年2010年は、旧王子製紙苫小牧工場の操業開始からちょうど百年目の節目の年である。

 今からちょうど百年前、寒村であったこの街に忽然と現れた巨大工場によって、この街は近代の息吹に触れ、そして命脈を得た。その後、街の性格を左右するようないくつかの出来事があり、今では当時の街の記憶もすっかり薄れ、その代わりに北海道の市町村の中では数少ない成長都市として注目を集めている。
 目と鼻の先の夕張市では、小中合わせて10校が閉校するという時勢の荒波の激しさに抗えずにいるのに、苫小牧市ではこのご時勢に新たに小学校が開校すると言う。小学校の運動会に5,000人が集まったと新聞の記事になったのも、つい最近の話である。
 王子製紙操業当時、3,000人に満たなかった街の人口は今や170,000万人を突破し、しかも毎年増え続けている。目まぐるしい時代の変化にもかかわらず、近代都市から現代都市へと、見事な変遷を遂げてきたのである。

 現代の都市として、苫小牧には象徴的な空間がある。苫小牧駅から千歳方面に国道36号線を走ると、道の両側にロードサイド系ショップが所狭しと立ち並ぶ通りがあるのだ。郊外型店舗の「総本山」、イオンも巨大な牙城を構えているのはここである。国道を走っていても、ここが苫小牧なのか、北海道なのかわからなくなる。道路標識がせめてもの痕跡をとどめているくらいだ。

 苫小牧市の中で、このロードサイド系店舗が立ち並ぶ通りは他にもあるので、局所的な現象ではないことがわかる。一方で駅前はある新聞をして、「これが人口20万を要する都市の中心的な駅か」といわしめるほどその衰退は激しい。デパートや小売店が入っては撤退する駅前ビルが、このエリアで商売をすることの不毛さをもう何度語ってきたことだろう。
この現象からわかることは、苫小牧市が日本全国の凡百の町々と同じ命運をなぞっているということである。駅前の空洞化と郊外の発展である。駅前は、かつて王子タウンとして道内でも屈指の華やいだ町並みが続いていた。通りの一角に「親不孝通り」などという名前がついているのは、その名残である。

 では、この苫小牧が百年の間に近代から現代へ、そして王子タウンから郊外型の街へと変遷し、成し遂げたことは何だったのか。
それは港の開港と、それに付随する産業の集積、さらにそれに続く大衆消費社会 の達成である。北海道随一の工業都市化を成し遂げ、さらにそれによって得た富を消費するショッピングセンターが林立したのである。
この一連の流れは、日本の戦後そのものだったと言っていいかもしれない。日本が描いた豊かさとは、こういう形だった、と。

 ところで、かつては北海道随一の工業地帯といえば室蘭であった。今でも室蘭は街の色や匂いなど、街そのものが工業都市の性格を保っているように見える。アイデンティティが強烈に残っているのである。しかしその代わり、大衆消費社会へと街そのものが変遷することには失敗した。近代化の産物を取りこぼしたと言ってもいい。来年ごろには、東室蘭の駅前のデパート跡地に大型電気製品量販店が出店してくるらしいが、それでも街のアイデンティティそのものを変えることはできないだろう。
 室蘭は、苫小牧港の開港によって北海道における大動脈ではなくなった。それは一方では、グローバルなパワーが入り込む余地をなくしたということでもある。しかしそのことが結果的にこの街の個性を失わせなかった大きな要因になったのかもしれない。

 一方で苫小牧は、完全にアイデンティティを喪失しているように見える。紙の街であったことも、今では簡単にはわからない。しかしアイデンティティを喪失、あるいは捨て去ったことによってこの街の命運が保たれたとも言えるのである。
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