@昭和36年、昭和天皇の北海道行幸(写真提供:登別市教育委員会)
大日本帝国憲法には、第1章第1条で「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とある。これは近代的な法治国家として、日本が列強諸国に示した最高典範の「天皇」の条である。以後の日本はこの憲法の各条に基づき、陰に陽に天皇を掲げ、統治機能を構築していった。万世一系という「魔術的」な発想による「近代」の統治である。
さて、このような近代日本を統治するものとしての天皇は、全国を巡幸することによってその存在を示し、国民国家を形成していった。北は北海道から南は九州まで、日本全国津々浦々までくまなく回り、その身体を人々の前に曝し続けてきたのである。
天皇は、巡幸することによって「「軍事的指導者」や「開化の象徴」「産業や学芸の奨励者」」 といった近代の規範を示した。そしてそのために天皇が回ったのは軍事施設や学校、産業施設などであった。さらに天皇が回るためには公共インフラが整備されていなければならなかったため、行く先々には立派な道路や鉄道、あるいは宿泊施設などが建設されていった。
行く先々にインフラが忽然と出現するその様は、さながら大地に栄養を与える「現人神」の様相であった。天皇は軍服に身を包み、あるときは鉄道に乗り、またあるときは軍艦に乗り、マスキュリンな近代の象徴と前近代的な現人神の間を行き来しながら、西へ東へ駆け巡ったのである。
天皇の巡幸は、もう一方の受け入れる側でもある村の重大事件になるほどであった。明治天皇の北海道巡幸の際に、室蘭では天皇が訪れると歓迎の花火が上がり、在港船は祝砲を放ち、海軍軍楽隊は夜の10時まで演奏を続けた。市井の人々も「陛下をおがもうと近在から出てきた人の数も大変な」ものであったから、まさしくお祭り騒ぎのようであっただろう。なにしろ百三十戸ほどしかない村に、300人からの大団体が押し寄せたのである。
この天皇の巡幸は、明治14年の話である。この時期にはおそらくまだ「天皇」の認識が末端の国民まで浸透してはいなかったであろうことが考えられるが、過剰ともいえる演出や市井の人々の喧騒ぶりは、中央からの達しだけではなく、地方から発生した演出も多く含まれていたはずである。そしてそのことによって天皇や近代的な模範が示され、国民の間に浸透する契機となった。
さて、天皇と賢治の関係性について、多くを語ることはできない。しかし、それでもいくつかを探してみると、まずは賢治が稗貫農学校(現岩手県立花巻農学校)で教鞭をとっていたころ、すでに全国の学校には天皇の御真影が下付されており、したがって賢治も事あるごとにそれを拝めていたかもしれないであろうことである。
そもそも学校と軍隊は日本国民を形成するもっとも有効な装置として、明治以降の近代国家においてその役割を期待され、十分に果たしていたのである。そしてその学校の教師として、あるいは軍隊の頂点に立つ君臨者として、両者の立場はある点で一致していた。
そしてもうひとつは、北海道を旅、あるいは巡幸したということである。賢治が三度目の北海道に修学旅行で訪れ、各地を周ったのは1924年(大正13年)のことだった。『或る農学生の日誌』には、修学旅行で北海道に行くことになったことを聞き、その興奮を書き綴っている。
「津軽海峡、トラピスト、函館、五稜郭、えぞ富士、白樺、小樽、札幌の大学、麦酒会社、博物館、デンマーク人の農場、苫小牧、白老のアイヌ部落、室蘭、ああ僕は数えただけで胸が躍る」
結果的には北海道の修学旅行に賢治も行くことになるのであるが、それまでには北海道という異郷に趣くに際して、金銭的な問題などから、行きたいけれど諦めなければならないといった心の葛藤が、あたかも小説のような筆致で日誌に綴られている。そしてそれは同時に、北海道という土地が当時、いかに異郷としてロマンチシズムの彼方に捉えられていたかを物語っている。
では、実際に賢治たちの修学旅行の行程はどのようなものであったか。「修学旅行復命書」によると、まず小樽を訪れた。
5/19
青森から連絡船で函館に入港。過憐酸工場と五稜郭を見学。
5/20
午前9時小樽駅着、直ちに高等商業学校(現小樽商科大学)を参観する。その後小樽公園をめぐり正午12時30分小樽を後にする。
午後1時40分札幌着。まず山形屋旅館に宿泊を約してから北海道大学付属植物園に行く。植物園付属博物館。その後、北海道道庁内を通って寄宿。夜は中島公園。狸小路をめぐって夜9時30分就寝。
翌日
7時30分発。札幌麦酒会社。次に帝国製麻会社。10時30分に北海道帝国大学。その後、中島公園の植民館。帰途、北海道石炭会社を見やりながら停車場へ。4時3分、一路、苫小牧を目指す。
苫小牧では富士館に宿を取る。
ここまでが賢治の復命書による北海道修学旅行の詳細である。その後の行程は、同僚の報告によると、苫小牧の製紙工場(王子製紙)を見学し、白老(午後3時発)、室蘭(午後4時着・午後5時発=室蘭-青森間連絡船)を経て帰途に着いたことになっている。
大日本帝国憲法には、第1章第1条で「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とある。これは近代的な法治国家として、日本が列強諸国に示した最高典範の「天皇」の条である。以後の日本はこの憲法の各条に基づき、陰に陽に天皇を掲げ、統治機能を構築していった。万世一系という「魔術的」な発想による「近代」の統治である。
さて、このような近代日本を統治するものとしての天皇は、全国を巡幸することによってその存在を示し、国民国家を形成していった。北は北海道から南は九州まで、日本全国津々浦々までくまなく回り、その身体を人々の前に曝し続けてきたのである。
天皇は、巡幸することによって「「軍事的指導者」や「開化の象徴」「産業や学芸の奨励者」」 といった近代の規範を示した。そしてそのために天皇が回ったのは軍事施設や学校、産業施設などであった。さらに天皇が回るためには公共インフラが整備されていなければならなかったため、行く先々には立派な道路や鉄道、あるいは宿泊施設などが建設されていった。
行く先々にインフラが忽然と出現するその様は、さながら大地に栄養を与える「現人神」の様相であった。天皇は軍服に身を包み、あるときは鉄道に乗り、またあるときは軍艦に乗り、マスキュリンな近代の象徴と前近代的な現人神の間を行き来しながら、西へ東へ駆け巡ったのである。
天皇の巡幸は、もう一方の受け入れる側でもある村の重大事件になるほどであった。明治天皇の北海道巡幸の際に、室蘭では天皇が訪れると歓迎の花火が上がり、在港船は祝砲を放ち、海軍軍楽隊は夜の10時まで演奏を続けた。市井の人々も「陛下をおがもうと近在から出てきた人の数も大変な」ものであったから、まさしくお祭り騒ぎのようであっただろう。なにしろ百三十戸ほどしかない村に、300人からの大団体が押し寄せたのである。
この天皇の巡幸は、明治14年の話である。この時期にはおそらくまだ「天皇」の認識が末端の国民まで浸透してはいなかったであろうことが考えられるが、過剰ともいえる演出や市井の人々の喧騒ぶりは、中央からの達しだけではなく、地方から発生した演出も多く含まれていたはずである。そしてそのことによって天皇や近代的な模範が示され、国民の間に浸透する契機となった。
さて、天皇と賢治の関係性について、多くを語ることはできない。しかし、それでもいくつかを探してみると、まずは賢治が稗貫農学校(現岩手県立花巻農学校)で教鞭をとっていたころ、すでに全国の学校には天皇の御真影が下付されており、したがって賢治も事あるごとにそれを拝めていたかもしれないであろうことである。
そもそも学校と軍隊は日本国民を形成するもっとも有効な装置として、明治以降の近代国家においてその役割を期待され、十分に果たしていたのである。そしてその学校の教師として、あるいは軍隊の頂点に立つ君臨者として、両者の立場はある点で一致していた。
そしてもうひとつは、北海道を旅、あるいは巡幸したということである。賢治が三度目の北海道に修学旅行で訪れ、各地を周ったのは1924年(大正13年)のことだった。『或る農学生の日誌』には、修学旅行で北海道に行くことになったことを聞き、その興奮を書き綴っている。
「津軽海峡、トラピスト、函館、五稜郭、えぞ富士、白樺、小樽、札幌の大学、麦酒会社、博物館、デンマーク人の農場、苫小牧、白老のアイヌ部落、室蘭、ああ僕は数えただけで胸が躍る」
結果的には北海道の修学旅行に賢治も行くことになるのであるが、それまでには北海道という異郷に趣くに際して、金銭的な問題などから、行きたいけれど諦めなければならないといった心の葛藤が、あたかも小説のような筆致で日誌に綴られている。そしてそれは同時に、北海道という土地が当時、いかに異郷としてロマンチシズムの彼方に捉えられていたかを物語っている。
では、実際に賢治たちの修学旅行の行程はどのようなものであったか。「修学旅行復命書」によると、まず小樽を訪れた。
5/19
青森から連絡船で函館に入港。過憐酸工場と五稜郭を見学。
5/20
午前9時小樽駅着、直ちに高等商業学校(現小樽商科大学)を参観する。その後小樽公園をめぐり正午12時30分小樽を後にする。
午後1時40分札幌着。まず山形屋旅館に宿泊を約してから北海道大学付属植物園に行く。植物園付属博物館。その後、北海道道庁内を通って寄宿。夜は中島公園。狸小路をめぐって夜9時30分就寝。
翌日
7時30分発。札幌麦酒会社。次に帝国製麻会社。10時30分に北海道帝国大学。その後、中島公園の植民館。帰途、北海道石炭会社を見やりながら停車場へ。4時3分、一路、苫小牧を目指す。
苫小牧では富士館に宿を取る。
ここまでが賢治の復命書による北海道修学旅行の詳細である。その後の行程は、同僚の報告によると、苫小牧の製紙工場(王子製紙)を見学し、白老(午後3時発)、室蘭(午後4時着・午後5時発=室蘭-青森間連絡船)を経て帰途に着いたことになっている。
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