室蘭の世紀 11 〜天皇と宮沢賢治1〜

2010年12月14日 00時05分11秒 | 室蘭
@昭和36年、昭和天皇の北海道行幸(写真提供:登別市教育委員会)

 大日本帝国憲法には、第1章第1条で「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とある。これは近代的な法治国家として、日本が列強諸国に示した最高典範の「天皇」の条である。以後の日本はこの憲法の各条に基づき、陰に陽に天皇を掲げ、統治機能を構築していった。万世一系という「魔術的」な発想による「近代」の統治である。
 さて、このような近代日本を統治するものとしての天皇は、全国を巡幸することによってその存在を示し、国民国家を形成していった。北は北海道から南は九州まで、日本全国津々浦々までくまなく回り、その身体を人々の前に曝し続けてきたのである。

 天皇は、巡幸することによって「「軍事的指導者」や「開化の象徴」「産業や学芸の奨励者」」 といった近代の規範を示した。そしてそのために天皇が回ったのは軍事施設や学校、産業施設などであった。さらに天皇が回るためには公共インフラが整備されていなければならなかったため、行く先々には立派な道路や鉄道、あるいは宿泊施設などが建設されていった。
 行く先々にインフラが忽然と出現するその様は、さながら大地に栄養を与える「現人神」の様相であった。天皇は軍服に身を包み、あるときは鉄道に乗り、またあるときは軍艦に乗り、マスキュリンな近代の象徴と前近代的な現人神の間を行き来しながら、西へ東へ駆け巡ったのである。

 天皇の巡幸は、もう一方の受け入れる側でもある村の重大事件になるほどであった。明治天皇の北海道巡幸の際に、室蘭では天皇が訪れると歓迎の花火が上がり、在港船は祝砲を放ち、海軍軍楽隊は夜の10時まで演奏を続けた。市井の人々も「陛下をおがもうと近在から出てきた人の数も大変な」ものであったから、まさしくお祭り騒ぎのようであっただろう。なにしろ百三十戸ほどしかない村に、300人からの大団体が押し寄せたのである。
 この天皇の巡幸は、明治14年の話である。この時期にはおそらくまだ「天皇」の認識が末端の国民まで浸透してはいなかったであろうことが考えられるが、過剰ともいえる演出や市井の人々の喧騒ぶりは、中央からの達しだけではなく、地方から発生した演出も多く含まれていたはずである。そしてそのことによって天皇や近代的な模範が示され、国民の間に浸透する契機となった。

 さて、天皇と賢治の関係性について、多くを語ることはできない。しかし、それでもいくつかを探してみると、まずは賢治が稗貫農学校(現岩手県立花巻農学校)で教鞭をとっていたころ、すでに全国の学校には天皇の御真影が下付されており、したがって賢治も事あるごとにそれを拝めていたかもしれないであろうことである。 
 そもそも学校と軍隊は日本国民を形成するもっとも有効な装置として、明治以降の近代国家においてその役割を期待され、十分に果たしていたのである。そしてその学校の教師として、あるいは軍隊の頂点に立つ君臨者として、両者の立場はある点で一致していた。

 そしてもうひとつは、北海道を旅、あるいは巡幸したということである。賢治が三度目の北海道に修学旅行で訪れ、各地を周ったのは1924年(大正13年)のことだった。『或る農学生の日誌』には、修学旅行で北海道に行くことになったことを聞き、その興奮を書き綴っている。

 「津軽海峡、トラピスト、函館、五稜郭、えぞ富士、白樺、小樽、札幌の大学、麦酒会社、博物館、デンマーク人の農場、苫小牧、白老のアイヌ部落、室蘭、ああ僕は数えただけで胸が躍る」

 結果的には北海道の修学旅行に賢治も行くことになるのであるが、それまでには北海道という異郷に趣くに際して、金銭的な問題などから、行きたいけれど諦めなければならないといった心の葛藤が、あたかも小説のような筆致で日誌に綴られている。そしてそれは同時に、北海道という土地が当時、いかに異郷としてロマンチシズムの彼方に捉えられていたかを物語っている。

 では、実際に賢治たちの修学旅行の行程はどのようなものであったか。「修学旅行復命書」によると、まず小樽を訪れた。

5/19
青森から連絡船で函館に入港。過憐酸工場と五稜郭を見学。
5/20
午前9時小樽駅着、直ちに高等商業学校(現小樽商科大学)を参観する。その後小樽公園をめぐり正午12時30分小樽を後にする。
午後1時40分札幌着。まず山形屋旅館に宿泊を約してから北海道大学付属植物園に行く。植物園付属博物館。その後、北海道道庁内を通って寄宿。夜は中島公園。狸小路をめぐって夜9時30分就寝。

翌日

7時30分発。札幌麦酒会社。次に帝国製麻会社。10時30分に北海道帝国大学。その後、中島公園の植民館。帰途、北海道石炭会社を見やりながら停車場へ。4時3分、一路、苫小牧を目指す。
苫小牧では富士館に宿を取る。

 ここまでが賢治の復命書による北海道修学旅行の詳細である。その後の行程は、同僚の報告によると、苫小牧の製紙工場(王子製紙)を見学し、白老(午後3時発)、室蘭(午後4時着・午後5時発=室蘭-青森間連絡船)を経て帰途に着いたことになっている。
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天皇の横須賀行幸

2010年12月09日 10時22分53秒 | 浦賀
御練兵の図〔聖徳記念壁画=明治神宮所蔵、『明治天皇行幸の軌跡 鎌倉・横須賀・浦賀』(横須賀の文化遺産を考える会、平成22年)より再引〕。明治天皇が赤坂仮皇居内で近衛兵を練兵している
  

鎌倉幕府からはじまる武家政権は天皇家に万世一系という歴史的な連続性の権威を与え、それを巧妙に利用して連続性に乏しいみずからの正統性を担保した。いわゆる天皇制の政治利用である。

江戸期には全国が藩という小国に分かれ、それらの国に属する人々の領主はあくまでもその藩を統率する武家のお殿さまであり、江戸に君臨した将軍ではなかった。ましてや京都にいた天皇などでは決してありえなかった。日本は藩という小国と、それに比べたら大きな「日本」という国の権力の二重構造にあった。

日本という大きい方の国を統率する政権は直接的な領民を持たず、いわば全国の小国である藩を支配し、みずから「将軍」を名乗ることを生業とした。そんな日本の権力構造を刷新するためにとられた荒療治が「大政奉還」だった。大政奉還とは天皇に政権を奉還することを意味したが、維新で権力の中枢を支配したのは幕府を大政奉還に追いやった薩長の出身者を中心とする権力者たちで、必ずしも「大政」は天皇に「奉還」されたわけではなかったのである。権力の中枢を握ることが出来なかった天皇はしかし、将軍とその側近たちにとって代わった新たな支配者たちの正統性を担保し、さらには小国に分散していた各藩の領民を日本という国の国民に統合するための道具として徹底的に利用された。この天皇という制度を使って日本の国民を統合し、国民国家を形成していく過程が日本の近代であろう。

それでは日本を国民国家に組み変えて近代を創出するために、天皇はどのように利用されたのか。明治の為政者たちは、天皇をどのように使いこなしたのだろうか。

江戸時代を通じて社会の支配層に君臨したのは武士階級だったことはすでに述べた。武士が社会の実権をにぎり、頂点に立っていることを保証するための制度としていわゆる「士農工商」の身分制が準備され、それを固定化しても大きな不満が出ないようにガス抜きする仕組みとして「士農工商」の下位に「エタ・ヒニン」が置かれた。武士が社会階層の頂点に立つという支配者の意志は、参勤交代の長大な行列などによって武士以下の階層に可視的に示されたのである。

明治政府を牛耳った為政者たちには、国民を支配する装置としての「士農工商」制を廃し、各藩の支配者たちの権勢を可視化した参勤交代の制度もなかった。明治の為政者たちにはこれらの消失した制度に代わり得る国民統合を達成するための装置が必要だった。その装置の機能がふたたび天皇制に求められたのはいうまでもない。

明治の天皇制を担保したのは明治憲法である。明治憲法は大日本帝国憲法ともよばれ、1889(明治22)年2月11日に発布、翌90年11月29日に施行された。しかし明治政府は維新直後から天皇制の確立とその利用に着手し、天皇を国民の眼前にさらす行幸を実施して国民に新たな統治システムを可視化させることで天皇制を、国民を統合する装置として活用した。

天皇はまず東京および京都周辺への行幸を開始し、その範囲はやがて日本全国に拡大していく。それと同時進行する形で天皇の軍隊への行幸あるいは天覧が積極的に進められた。明治政府が近代国家を防衛する軍隊の確立を急いだからだ。天皇は1871(明治4)年、海軍が主管する建設途上の横須賀製鉄(造船)所に第1回行幸を挙行し、以後1910(明治43)年までに19回の行幸をくり返す。

明治政府の所在地である東京の直近ではフランスの援助で製鉄所(造船所)を建設中の横須賀が海軍の中枢になった。横須賀には後に東海鎮守府(横浜)が移転して、そこが横須賀鎮守府に改編される。海軍は軍隊の練成に天皇を徹底的に利用した。軍神としての天皇を演出し、軍の最高指導者としての立場を天皇に付与した。天皇の軍隊であることを兵員に意識させて士気を高め、欧米の軍隊に対抗できる近代化された強い軍隊をつくることを目指した。天皇の横須賀行幸がその軍隊の狙いを推進したことは間違いない。

 

〔参考文献〕
原武史『可視化された帝国』(みすず書房、2001年)
横須賀の文化遺産を考える会『明治天皇行幸の軌跡 鎌倉・横須賀・浦賀』(横須賀の文化遺産を考える会、平成22年)




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室蘭の世紀 10 〜苫小牧 3〜

2010年11月14日 01時18分18秒 | 室蘭
@新千歳空港(この空港の一部は苫小牧市に跨っている)

 苫小牧には、いくつかこの街を左右する岐路があった。まずは1963年の苫小牧港が開港したことである。現在の苫小牧港は、北海道における港湾貨物取扱量の約半分を占めており、北海道の海の玄関口として磐石な地位を築いている。
 しかし元来苫小牧港のある辺りは砂浜であり、港の機能などはなく、当然大型船など入港できる余地などあるはずもなかった。であるから石炭の積み出しも、産炭地からは遠いが天然の良港であった室蘭港が利用されてきたのである。
 そんな苫小牧に光が差したのは、時代の経過による技術の発達によってであり、人工の掘込港湾として起工式から10年以上の歳月をかけて苫小牧港が整備されたのである。

 そしてもうひとつ重要なことは、港湾機能の強化が多様な工場の立地を促したことである。戦後まで一貫して製紙の街であった苫小牧も、現在の製造品出荷額に占めるパルプの比率はわずか13.3パーセント にすぎない。それはパルプ業が衰退したのではなく、他の産業の急成長によって相対な比率の低下が起こったからである。今や苫小牧は北海道一の工業都市へと成長したのだ。道内の製造品出荷額に占める苫小牧の割合は、20パーセントに迫ろうとしている。
 蛇足ではあるが、この工業化の流れの中で、1971年「苫小牧東部大規模工業基地開発基本計画」なるものが策定された。国策による苫小牧の工業都市化である。策定当初は国家を挙げての壮大な計画であったわけで、1万ha超という開発総面積がこの国策の野望の大きさを物語っている。ところがいくつかの原因によって、あるいはそもそもこの壮大な計画自体に無理があったとも言えるのであるが、この国策は頓挫し、今では一部を除いて見渡す限りの広大な更地が残るのみである。

 さて、これだけ工業と港湾に依存した街であるけれど、一見すると工業や港湾の街には見えないのである。それは現在の工業施設が港湾地域に集中しているため、街中では容易に全容をうかがい知れないことも一因であるだろう。あるいは、この町はそもそも小さな漁村であり港湾機能は備えていなかったため、港を中心とした街づくりがなされなかったことも関係しているだろう。苫小牧には港町特有のにおいや雰囲気といったものがまるでないのである。
 ただし港湾機能がなかったことで、戦前期において港湾一帯の一等地を軍、あるいは国家に接収されずにすんだという捉え方もできる。結果、戦後にできた港湾を“自由に”設計できたのである。戦前戦後の歴史の連続性に翻弄されずにすんだとも言えるだろうか。そのために、街全体が他の戦前から続く重化学工業の都市とは違い、そのようなイメージに塗り固まっていないのである。

 では一体どのようなイメージをもって捉えることができるかと言えば、それは消費を核とした女性的な 匂いに包まれた街なのである。
 苫小牧市は市街地が東西に細長く伸びており、その両側は海と山に囲まれている。車で千歳方面から36号線で向かうと、ちょうど市街に入るところで道は二本に分かれる。一本は36号線であり、もう一本はバイパスとして整備された道道781号線である。この二本の道は併走しながら苫小牧を貫き、西隣の白老町にぶつかる手前で再び36号線一本に回収されていく。
 細長い街なので、自動車交通の主要な部分はほとんどこの二本の道路によって賄っている。そしてこの二本の道の両側には、多くのところでロードサイドショップがひしめき合うように立ち並んでいるのである。その光景は、この街がいかに「消費」文化を核に据えているかがわかる。
 ちなみに札幌から始まる36号線のロードサイドの風景は、この苫小牧で終わる。続く白老から室蘭にかけてはぽつぽつとある店舗を除いて、廃屋となったドライブインなど荒涼とした風景が続くのである。

 このような消費「文化都市」としての姿は、苫小牧市の「基本構想」 の中にも見て取れる。この苫小牧市の作成した「基本構想」の中では「人間環境都市」を実現するとあるのだが、その人間環境都市の定義とは、「人間主体のまちであり、豊かな自然と調和した文化の薫り高く潤いのある快適な環境の中で、すべての市民が持てる能力を発揮しながら、ともに生き生きと暮らし、未来に向かってたくましく歩むまち」である。
 この漠然とした文面からはなにやら分からないが、その後を読み進めていくと、苫小牧市がどのような方向性を目指しているのかが分かる。
 それは「環境」や「自然」あるいは「市民」などの単語が、「やさしい」や「健やか」「安全」「安心」といったキーワードとともにひたすら語られるのである。そしてこの「基本計画」は十年間をめどとして達成されるものとしているが、10年後の平成29年の人口の想定を「おおむね十七万人」としている。

 以前の苫小牧市は人口が30万人規模になることを想定しており、それは工業の発展によることを前提としていたのであろうから、典型的な近代的成長路線にあったわけである。ところがこの基本構想では、「成長」というキーワードは見当たらず、替わって語られているのが安全安心の無菌社会の達成である。リスクのない街。
 現在の人口が17万人に達していることからしても、「成長」を放棄し「安全」であり「文化的」であることへ方向転換をしたといえるのだろう。
 ただし、この街がこれらの時代に即したキーワードを実現するために担保としているのは、工業や港湾・空港機能である。工業都市として、あるいはゲートウェイ都市として、あるいは軍事関連に喪協力しながら、その果実をもってして実現しようとしているのが「人間環境都市」なのだ。しかしそれらが「基本構想」の中で語られているのは僅かでしかない。
 重工業や港湾の男性的な、あるいは戦前の日本が追い求めてきた近代的な匂いを発しないこと、それが消費に彩られた現実の街でも演出されている。

 しかし、である。労働者たちが集う街はどこにあるのだろう。あるいは水夫や港湾関係者が入り浸る店はどこにあるのだろう。そしてそのような人間たちによって形成された街はどこにあるのだろう。
 おそらくどこにもないのである。たとえあったとしても、多くの市民には見えないように、ひっそりとたたずんでいることだろう。なぜなら、それらは「人間環境都市」にはそぐわないからである。この街は「排除の構造」 を内包しているのだ。
 きっと現場で働いている人々も、36号線沿いの店に行くときは、“その場にあった”雰囲気を纏っていることだろう。仕事のままの格好と匂いをさせてくるものは多くないだろう。それが「人間環境都市」なのである。
 あるいは、東西に伸びた構造からして「溜め」ができなかったということでもあるのだろうけれど、街特有の底知れなさのようなものがないのである。時間がくれば開店し、時間がくれば閉店する。商品の値段がわからない不安もない。決して「ハズレ」の商品は扱っていない。あるいは表からではうかがい知れず、どんな悪が潜んでいるかわからないような店やビルもない。そして“あの”町角を曲がった瞬間に来たことを後悔してしまうような別の空間が広がることもない。いかがわしい店などまずありえない。それが「人間環境都市」なのである。けれど別の見方をした場合、「人間環境都市」が満たしてくれるものとはなんであろうか。

 それは「孤独」からの解放ではないだろうか。イオンをはじめとしたロードサイドショップは外装も色鮮やかに飾られ、あたかも遊園地に来たかのような錯覚を覚える。店内に一歩入れば、明るく消費を誘うリズミカルな音楽が流れ、一人である「孤独」を感じさせない。
 20代前半の女性は、ロードサイドショップに行く理由をボクにこう教えてくれた。一人で外食ができないというその女性は、ロードサイドのショップに行けば不安も一人でいることの恥ずかしさも、あるいは孤独も感じないのでショッピングモールで買い物をして、おなかが空けばそこで食事をすませることができるというのである。
 またある女性はボクにこう教えてくれた。40代の職場の男性上司をショッピングモールで見かけたのだが、職場にいるときの格好そのままであり、あまりにも「この場」にそぐわないように見え、思わず他人のふりをした、と。

 苫小牧の街は、室蘭本線、そして36号線により突如近代の光が燈ったことは前述したとおりである。そしてそれに続き、戦後の開港・工業化によってさらに街は発展し、人口の急激な伸びも経験した。このことは、戦後の日本社会が急激な農村部から都市部への人口流入を経験したときと、ある意味で同種の問題を提起した。それは核家族化や、農村社会的な地域コミュニティの不在である。
 一方で、コミュニティの不在を補ったのが消費を媒介とした新たな社会の出現だったのではないだろうか。消費を媒介にしているため、いかにも不安で刹那的である。けれどもショッピングモールは現代におけるシェルターとして、あるいは農村社会と同様な「社会」として機能しているように見えてならないのである。排除の構造とともにある同調圧力。そして均質性。
 生まれを共通項として、同質な思考や言葉、あるいは所得などによって地域社会は成り立っている。一方の消費を媒介とした社会は、着る物や食べるもの、そして趣味や文化活動に至るまでが消費の一部として同質性を保っているのである。これらを苫小牧は「人間環境都市」として体現しているかのようである。


 今まで見てきた苫小牧の諸々は、現代のどこの街にも当てはまることのように思える。しかし、室蘭と対比したとき、はっきりと両者の相違が浮き彫りになり、そして同時に、両方の街も変革の痛みの中にあり、その痛みは何に由来しているかがわかるのである。
 取りも直さず両者を取り巻いているもの、それは近代ということになる。苫小牧の街も順調にシフトチェンジしているようであるが、しかしその内実は多くの課題を抱えているように見えるのである。
 あまりにも巨大で強力な近代なるものに、いかに街そのものが翻弄され、そしてそこに住まうものたちをも巻き込んでいったか、あるいはいるのか。これからそれをひとつひとつ丹念に記録していきたいのである。
 
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明治新政府による横須賀製鉄所の接収

2010年10月31日 19時03分16秒 | 浦賀
写真上:海上自衛隊横須賀地方総監部。山の向こう側に当初の製鉄所予定地だった長浦湾がある
  下:軍港逸見門


京浜急行安針塚駅から山側に展開する按針台の上り坂をどんどん登っていくと、頂上付近で江戸幕府のお雇い外国人(外交顧問)だった三浦按針(ウィリアム・アダムス、1564〜1620年)の墓所に行き当たる。そこは春には桜の花が咲きほこる山の上の公園でもあり、桜の樹間に横須賀湾と長浦湾を一望できる。按針もまたそこから逸見村や横須賀の海岸を眺め、三浦半島の入り江を江戸湾の海の要衝に定めたに違いない。安針塚から隣の逸見駅に移動し、海にむかってしばらく歩くとJR横須賀駅にぶつかる。そこはもう横須賀軍港の入り口で、かつては横須賀製鉄所あるいは横須賀造船所とよばれた日本海軍の戦略要地であった。現在は米軍と自衛隊が敷地を分け合って共棲し、東アジアにおける海略の要衝であることにかわりはない。

横須賀製鉄所の建設は、横須賀製鉄所起立原案(日本海軍用之製造場取建規則書)にはじまる。それは製鉄所の創設に関する基本事項を規定したもので、第1節に造船所起立端緒、第2節 工廠設立方法、第3節 船廠事務制限、第4節 仏人組織事項、第5節 邦官組織事項、第6節 仏国品購入概略、第7節 内国品購入概略、第8節 船廠起立順序からなる基本計画ともいうべきものである。製鉄所には船渠二条、船台三基を設け、フランス人40名、日本人2000名を雇用し、西式工業の初起に係るので百事をフランス海軍士官の力に頼ることなどが明記されている。

この製鉄所起立原案にもとづき、1865(慶応元)年1月(旧暦、以下おなじ)にフランス公使との間で約定書が交わされ、製鉄所の建設が委嘱された。約定書は、①製鉄所1カ所、修船場大小それぞれ2カ所、造船場3カ所、武器蔵および役人と職人らの住居などを4年以内に完成させる、②施設はツーロン港に倣い横450間、竪(たて)200間の敷地を手当てする、③建設費は1年60万ドル、4年で240万ドルとする、④フランス側は上等機械官ウェルニー(寧波造船所技師)、日本側は勘定奉行松平対馬守、軍艦奉行木下謹吾、目付山口駿河守、栗本瀬兵衛、浅野伊賀守らを建設取扱に命ずること、などを日仏双方が確認した。16〜17世紀、江戸幕府でお雇い外国人のアダムスが外交の相談役として働いたように、幕末維新の横須賀ではウェルニーが製鉄所の首長として日本に近代を誘導するハイテク技術で貢献した。

同年3月、横須賀の三賀保、白仙、内浦の3湾にわたる74359坪の敷地埋め立て工事が立案され、人足には囚徒200人が充てられた。製鉄所建設の鍬入れ式は同年9月27日に挙行され、それは今日の横須賀がはじまった日でもある。築造に必要な資材として相州足柄下郡から切り出した石塊や、伊豆大島三原山の火山灰などが利用された。横須賀の連絡を密にする必要から汽船の航路新設が計画され、横浜の米国商人を通じて小汽船を3037ドルで買い入れ、同時に横須賀製鉄所で30馬力と10馬力の小型船を2隻建造した。この2隻が同製鉄所における艦船製造の嚆矢である。

倒幕運動の中で起こった鳥羽伏見の戦いは官軍が大勝し、1868(慶応4)年4月11日、最後の将軍徳川慶喜は江戸城を明け渡し、大政奉還して政権が徳川氏から天皇に還った。新政府は4月1日、神奈川裁判所長官の東久世中将通禧と鍋島侍従直大に横須賀製鉄所の接収を命じた。横須賀製鉄所は建設の途上で政権の移譲が行なわれて政治体制が変遷したため管轄部署がしばしば転変し、1869(明治2)年10月27日には神奈川裁判所から大蔵省に代わり、同年11月18日付けで長州藩士の山尾庸三が製鉄所の事務を統括するようになった。翌年3月、民部省は太政官の許可を得て全国の蒸気船舶保有者および府藩県に対して横須賀製鉄所が船舶の修理取り扱いに応じることを通告し、同年8月には所轄が同省に移った。横須賀製鉄所は1871(明治4)年2月8日、4年11ヵ月を費やして明治政府のもとで完成し、開業式が挙行された。同年4月7日には名称を横須賀造船所とあらため、10月23日からは工部省の管轄にかわり、翌年10月16日には海軍省の主船寮がこれを主管することになった。

製鉄所の実権は海軍省が主管部門となった後もウェルニーらのフランスお雇い外国人の手に握られていた。そこで同省は1875(明治8)年5月20日、肥田主船頭名で横須賀造船所事務改革案を立案し、管理指導権をフランスから取り返す算段を開始する。改革案は、従来艦船の修理や建造は直接造船所もしくは同所の首長に依頼するものと決められていたが、以後は海軍省の許可を必須として海軍の威信確立を計り、さらに翌1876(明治9)年1月1日より首長以下フランス人雇員の雇用期間および条約改正の事項は海軍卿の裁定を仰ぐこととして、実質的にウェルニーを始めとするお雇い外国人の解雇が決められる。

ウェルニーは横須賀造船所事務改革案に基づき、1875(明治8)年12月31日をもって首長の職を辞し、翌年3月10日に10年間住み慣れた横須賀を後にして帰国した。1866(慶応2)年から本格的にはじまった造船所の建設はウェルニーが離任したころまでには大部分の必要施設が完成し、1886(明治19)年には日本人のみの手によって造船事業が進められるまでに発展した。

現在の横須賀湾は逸見から汐入までの湾岸に美しい長大なプロムナードが延びてウェルニー公園となり、市民に憩いのスペースを提供している。公園の東端、つまりJR横須賀駅の入り口付近では横須賀製鉄所の先進性を伝えるウェルニー記念館が開放されている。そこから西へ50メートルほど行くとプロムナードの中ほどに製鉄所の建設に貢献したウェルニーと小栗上野介忠順の胸像が海に向って立っている。軍港逸見門の見張り所の古いボックスが、横須賀製鉄所からつづく海軍施設としての近代の歴史を物語っている。


 
〔参考文献〕
横須賀市史編纂委員会『横須賀市史』(横須賀市役所、昭和32年)222〜242頁参照。
横須賀百年史編纂委員会『横須賀百年史』(横須賀市役所、昭和40年)36〜44頁参照。







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室蘭の世紀 9 〜苫小牧 2〜

2010年10月22日 01時44分39秒 | 室蘭
@苫小牧駅前通り、午後6時30分

 人口を20万近く要し、周辺市町村も含めると北海道でも有数の地方都市の陸の玄関口である鉄道駅の隣りには、煙突から水蒸気を吐き出す工場の群れが見える。
 初めて見たときにはわが目を疑った。こんな光景は、今まで見たことがなかったからだ。これだけの人口を擁する都市の、しかも一等地である駅の隣りに工場が立ち並んでいるのである。ヒトが行き交う駅ビルの窓からは、右を向けば工場群が、左を向けば疲弊した駅ビルが淡々と並んでいる。
しかしこの光景が、唯一と言っていいほどわずかに残ったこの街のアイデンティティなのかもしれない。
 ここは苫小牧である。そして今年2010年は、旧王子製紙苫小牧工場の操業開始からちょうど百年目の節目の年である。

 今からちょうど百年前、寒村であったこの街に忽然と現れた巨大工場によって、この街は近代の息吹に触れ、そして命脈を得た。その後、街の性格を左右するようないくつかの出来事があり、今では当時の街の記憶もすっかり薄れ、その代わりに北海道の市町村の中では数少ない成長都市として注目を集めている。
 目と鼻の先の夕張市では、小中合わせて10校が閉校するという時勢の荒波の激しさに抗えずにいるのに、苫小牧市ではこのご時勢に新たに小学校が開校すると言う。小学校の運動会に5,000人が集まったと新聞の記事になったのも、つい最近の話である。
 王子製紙操業当時、3,000人に満たなかった街の人口は今や170,000万人を突破し、しかも毎年増え続けている。目まぐるしい時代の変化にもかかわらず、近代都市から現代都市へと、見事な変遷を遂げてきたのである。

 現代の都市として、苫小牧には象徴的な空間がある。苫小牧駅から千歳方面に国道36号線を走ると、道の両側にロードサイド系ショップが所狭しと立ち並ぶ通りがあるのだ。郊外型店舗の「総本山」、イオンも巨大な牙城を構えているのはここである。国道を走っていても、ここが苫小牧なのか、北海道なのかわからなくなる。道路標識がせめてもの痕跡をとどめているくらいだ。

 苫小牧市の中で、このロードサイド系店舗が立ち並ぶ通りは他にもあるので、局所的な現象ではないことがわかる。一方で駅前はある新聞をして、「これが人口20万を要する都市の中心的な駅か」といわしめるほどその衰退は激しい。デパートや小売店が入っては撤退する駅前ビルが、このエリアで商売をすることの不毛さをもう何度語ってきたことだろう。
この現象からわかることは、苫小牧市が日本全国の凡百の町々と同じ命運をなぞっているということである。駅前の空洞化と郊外の発展である。駅前は、かつて王子タウンとして道内でも屈指の華やいだ町並みが続いていた。通りの一角に「親不孝通り」などという名前がついているのは、その名残である。

 では、この苫小牧が百年の間に近代から現代へ、そして王子タウンから郊外型の街へと変遷し、成し遂げたことは何だったのか。
それは港の開港と、それに付随する産業の集積、さらにそれに続く大衆消費社会 の達成である。北海道随一の工業都市化を成し遂げ、さらにそれによって得た富を消費するショッピングセンターが林立したのである。
この一連の流れは、日本の戦後そのものだったと言っていいかもしれない。日本が描いた豊かさとは、こういう形だった、と。

 ところで、かつては北海道随一の工業地帯といえば室蘭であった。今でも室蘭は街の色や匂いなど、街そのものが工業都市の性格を保っているように見える。アイデンティティが強烈に残っているのである。しかしその代わり、大衆消費社会へと街そのものが変遷することには失敗した。近代化の産物を取りこぼしたと言ってもいい。来年ごろには、東室蘭の駅前のデパート跡地に大型電気製品量販店が出店してくるらしいが、それでも街のアイデンティティそのものを変えることはできないだろう。
 室蘭は、苫小牧港の開港によって北海道における大動脈ではなくなった。それは一方では、グローバルなパワーが入り込む余地をなくしたということでもある。しかしそのことが結果的にこの街の個性を失わせなかった大きな要因になったのかもしれない。

 一方で苫小牧は、完全にアイデンティティを喪失しているように見える。紙の街であったことも、今では簡単にはわからない。しかしアイデンティティを喪失、あるいは捨て去ったことによってこの街の命運が保たれたとも言えるのである。
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長浦湾

2010年10月08日 16時56分45秒 | 浦賀
写真上:長浦湾は自衛隊と海上保安庁、民間の三者が港を分け合っている
  下:長浦湾への道には日本の近代を支えた「伝統」工場が操業している



維新前後の三浦半島は、日本の近代を担う尖端技術の根幹になりつつあった。理由はいくつか挙げられるが、そのひとつが江戸表に向う海路の要衝であったこと、もうひとつは東日本の諸港を統括する東海鎮守府が横浜から横須賀に移転(1884年)し、横須賀鎮守府が生まれて海軍の中枢が三浦半島に成立したからだろう。乱暴な表現をすれば、日本の近代とはハイテク兵器としての軍艦をつくって列強に伍し、天皇を頂点とした皇国体制を築くことであった。軍隊が身の程も知らずにその頭脳になったことは日本の近代における最大の不幸で、結果的にはそのことが国家を滅亡させる主因になった。

幕末の三浦半島のことである。
諸外国との通商条約締結にともなって加重した外圧と国内諸藩が抱いた倒幕論の勃興などにより、江戸幕府の海軍拡張事業は急務となった。長崎造船所や、神戸の操練所に併設する予定の造船所はあったがいずれも江戸から遠く、幕府の危急に応えるには理想的な立地ではなかった。幕府は水戸藩が所有する石川島造船所に「国立」の造船所を併設する計画を案出したが、充分な広さの敷地が確保出来ずに行きづまった。勘定奉行の小栗上野介忠順は造船所の建設を重要な国家事業と位置づけ、海外の進んだ技術による施設を江戸湾沿岸に建設することを提案した。

現在でも九州人にとって佐賀は特別な存在であるらしい。それは「佐賀者の歩いた後にはぺんぺん草も生えない」という強烈な言いぐさにも現れている。その意味は様々にとれるが、要するに周辺の九州人は知力の面で佐賀者にかなわないということなのだろう。そうした佐賀の特性はすでに江戸時代から発揮され、幕末には軍隊の制度や装備はほぼ西欧の二流国なみに近代化され、工業技術もアジアの最高レベルであった(司馬遼太郎1988)。上野の森で幕府軍の彰義隊を壊滅させたアームストロング砲を国産化したのも佐賀藩(鍋島斉正=閑叟藩主)だった。佐賀は江戸時代、日本が諸外国に開いていた唯一の小窓=出島を擁した長崎の隣接県である。あるいは長崎に拠点をおいて暗躍した武器商人のトーマス・ブレーク・グラバー(Thomas Blake Glover、1838〜1911年)も佐賀藩の開明的な経営に寄与したに違いない。

その佐賀藩(鍋島斉正藩主)が幕末にオランダから蒸気工作機械を輸入して造船工場を設立計画中だったが経費と人材の不足に苦しみ、購入した設備を幕府に献納した。幕府は鍋島斉正からもらった設備を利用し、横須賀の長浦湾に造船所の建設を企図した。小栗上野介が上に主張した江戸湾沿岸というのは、このことが念頭にあったものと思われる。幕府が造船所の建設を進めている事実は、ナポレオン三世の意を受けて日本に植民地的野心を抱いていたフランス全権公使レヲン・ロセスの知るところとなり、また幕臣のフランス通であった栗本瀬兵衛(鋤雲)がフランス領事館のメルデ・カシュン書記官と親しかったことも影響して、造船所の建設はフランスに委託することになったのである。

老中水野和泉守は1864(元治元)年11月10日、フランス全権公使ロセスに造船所建設の斡旋を正式に依頼した。小栗上野介、栗本瀬兵衛、軍艦奉行の木下謹吾、浅野伊賀守らはロセス、ジョーライス(フランス艦隊司令長官)らをともない幕府の艦船「順動号」で横浜と横須賀の間にある長浦湾を検分した。フランス側の要員が錘を下ろして測量したところ水深が浅く造船所の建設予定地としては相応しくなかった。一行はさらに隣接する横須賀湾に移動して錘測し、そこに充分な水深があり、なお且つ湾曲した地形がフランスのツーロン港に似ていたことから好感され、当初の予定地だった長浦湾が捨てられ、横須賀湾を造船所の建設地とすることに決めた。

現在の長浦湾は京浜急行電鉄の京急田浦駅から徒歩で10分ほどのところに展開する静かな入り江である。横須賀造船所になりそこねた町には、特急も快特も停車しない。そのことが長浦湾界隈の風土を心地よく保全している。長浦湾と隣の横須賀湾は箱崎半島(吾妻山)で隔てられていたのだが、明治19年に軍事上の要請で半島のもっともくびれた部分が開削され、両湾は人工水路(新井掘割水路)で結ばれた。以来、長浦湾は横須賀湾の副港として活用された。田浦の町には横須賀鎮守府を背負った軍人の娯楽場としての花街が栄えたのだが、長浦湾の衰退とともに花街の灯りも消え、現在は軍港に併設する地帯で小野田レミコン(生コンクリート)や東芝の電球工場などの「近代」工場がかろうじてこの街の活気を支えている。

〔参考文献〕
横須賀百年史編纂委員会『横須賀百年史』(横須賀市役所、昭和40年)33〜37頁参照。
横須賀市編『新横須賀市史 資料編』近現代1(横須賀市、平成18年)429〜433頁参照。
司馬遼太郎『アームストロング砲』(講談社文庫、1988年)








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室蘭の世紀 8 〜苫小牧 1〜

2010年09月19日 11時16分51秒 | 室蘭
「パルプ工場の煙赤く空を焦し、遠く濤聲あり」

 苫小牧の街に突如、近代の光が燈ったのは今からちょうど百年前の1910年(明治43年)のことであった。それは当時、本州において辛酸を舐めていた王子製紙が、起死回生を狙って北海道に新たな工場を建設することを決定しての故であった。
 工場建設に際して、苫小牧に白羽の矢が立ったのは支笏湖からの豊富な水量による水力発電が容易に行えることや、原始林が広がっていたため原材料を入手しやすかったこと、さらに広大な用地を安価に入手できることなどに加え、北海道炭坑鉄道がすでに走っていたことによる交通の便のよさなどからであった 。

 王子製紙前夜の苫小牧はどのような街であったかと言うと、イワシ漁を生業とする漁村がぽつぽつとあるだけの寒村であった。明治初期に北海道に訪れた外国人の手記に、勇払の名こそあれ、それ以上の別段の記録がないのは、この土地にそれだけ見るべきものがなかったことを物語っているのであろう。
 もっとも、今の苫小牧駅辺りから石狩平野にかけては、古代から海の底であった時期が長く、ラムサール条約で保護されているウトナイ湖なども要は湿地帯であり、そのような地質がこの地域一帯に広がっているのである。であるから、例え陸地化しても人が住むには適さない土地であったとも言える。

 このような土地に、「最新鋭の機械と技術を導入した超大型」 の工場が突如建ったのである。寒村で細々と暮らしていた人々は、どれほど度肝を抜かれたことだろう。東洋一と謳われた工場の誕生、それはまさに近代の「光」であった。
 さらに工場で生産したものも、日本の近代化に大きく貢献した。苫小牧工場では洋紙の大量生産を可能にしたのだけれど、それは新聞紙などにアメリカ製の洋紙を使用していた日本にとって、まさに画期だった。紙媒体による大量の情報伝達を、一貫して国内で自給できるようになったからである。

 工場は苫小牧という今に通じる街も運んできた。まさに王子製紙を中心として、企業城下町=王子タウンを形成したのである。王子タウンは当時としてはめずらしい娯楽場も備え、あるいは王子倶楽部によって、当時としては大変ハイカラだった洋食も味わうことが出来た。鉄道が工場を運び込み、工場が近代という文明も、ヒトも富も運び込んできたのである。

 宮沢賢治も近代の光に引き寄せられた一人であった。冒頭の文は1924年(大正13年)、宮沢賢治が花巻農学校の生徒を引き連れ修学旅行で苫小牧を訪れた後、学校に提出した復命書の中の一文である。小樽、札幌と、成長し続ける近代都市を見て周り、その後一行がたどり着いたのが苫小牧の街であった。
 この一文を、賢治がどのような回想とともにしたためたか推し量ることは難しい。しかし、小樽、札幌と近代の息吹に触れた賢治の興奮は容易に感じられ、当然、この街も驚きの眼差しをもって見つめただろうことは容易に想像がつく。宮沢賢治たちが苫小牧を訪問した理由は唯一つ、王子製紙苫小牧工場を見学するためだったからである。そして工場ひとつを見学させるためだけに、東北の修学旅行団体を引き寄せてしまうほど、この工場はすごかったということでもある。

 花巻農学校の一行は苫小牧駅前の富士旅館に宿をとり、その後、市内を散歩した賢治はここでもうひとつの詩、「牛」を残している。そこではパルプ工場を背景に、海の音が響く月明かりの下で牛が遊んでいるというひどく牧歌的な風景が映し出される。
 このひどく牧歌的な田舎街に突如燈った闇夜を焦がす工場の灯りを、花巻から訪れた賢治はどのような思いで見つめたのであろうか。


 この街を見るにつけ、まざまざと「近代」というものの力強さを感じるのである。工場ひとつによって、街そのものが変質していくこと。それも長い年月をかけるのではなく、「一朝夜」にして、である。そしてそれはその土地に縁もゆかりもないものを、鉄道などのインフラが運んでくるのである。苫小牧と同じく寒村であった千歳市も王子製紙の工場誘致に地域をあげたけれど、苫小牧には鉄道がすでに敷設されていたという点で一日の長があったのである。
 今でも工場誘致や新幹線、あるいは高速道路の誘致など、近代のメンタリティから抜け出せないのは、この当時、一本の線が引かれることがどれほど明暗を分け、そしてそれが今でも尾を引くほど圧倒的な力であったかを物語る後日談である。

 苫小牧の街は当時から激変を遂げ、今では駅周辺にはビルが立ち並び、市街地は広がり、海岸線こそほぼ当時のままであるけれど、海沿いまで街がせり出している。そのため距離にすればそれほどではないのに、今では様々なノイズにかき消され、街中で波音を聞くことも潮の匂いを感じることも難しい。あるいは駅周辺には賢治の見た牧歌的な風景も、すっかり姿を消してしまった。当時を想像することすらできない。

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製鉄と造船

2010年09月12日 12時33分38秒 | 浦賀
写真上:明治12年の横須賀港(製鉄所)鳥瞰図(出典:横須賀百年史)
  下:現在の横須賀港。骨格は明治12年の状況とほぼおなじである。造船所だった部分は、現
    在、ダイエーなどの大型ショッピング・センターになっている


日本に近代を誘導した明治維新は国の屋台骨を木材から鉄鋼に換骨した。それにともない木製の和船は鋼鉄の洋式船に代わり、そのことが日本を列強の仲間に入れ、大日本帝国を滅亡に導いた帝国主義の道を歩むことになったのである。鎖国政策をとった江戸幕府は諸藩が外国と交通し通商するのを怖れ、大船の建造を禁止(寛永15=1638年)し、新造船は竜骨のないマスト1本の500石積以下と決めた。さらに念を入れ、船体の密封性を保つ上部甲板を備えることを禁じたので、その構造は蓋のないお椀が海に浮いているようなもので、大波をかぶれば簡単に水没した。幾多の難破、漂流の悲劇を生んだ元凶である。嵐の海では船の底板一枚が現世と地獄を分けたのである。

幕府に大船の建造禁止令を諦めさせたのはペリーの黒船だった。突然、江戸湾口の浦賀沖に現れた巨大な外輪駆動装置を持つ鋼鉄船を見た日本人は、役人も武士も、町人も農民も、そして男も女も一様に度肝を抜かれて大騒ぎになった。黒船が煙を吐いて沖を疾走しているのである。米国の開国要求に屈した江戸幕府は日本の国がすでに西洋列強に包囲されていることを感じとり、一転海防に目覚め、諸藩に大型船舶の建造を促し、大船建造禁止令を解いた(嘉永6=1853年)のだ。そして翌年に交わされた日米和親条約(神奈川条約)を契機にしてその4年後には米国、オランダ、ロシア、英国、フランスの5国と修好通商条約が結ばれ、日本の国内状況は外交的な必要から軍艦製造、蒸気船伝習、海軍の増強へと急展開していく。

幕府は諸藩に率先して、浦賀で洋式船の模倣建造に着手した。その指揮を執ったのが浦賀奉行所でペリーとの交渉窓口になった与力の中島三郎助である。江戸幕府のヒエラルヒーから言えば一奉行所の中間管理職にすぎなかった中島は、ペリー対策と洋式船の建造という役割を担うことによって歴史に名前を残すことになった。中島が建造を指揮した洋式模倣船の鳳凰丸は安政元(1854)年に進水したが、洋式というのは外観だけで、その船体構造は竜骨も肋骨もない和船そのものだった。堅牢性はなく、もちろん外航にも適さなかった。この鳳凰丸はその後、水戸藩が幕府の委嘱で整えた(嘉永6=1853年)石川島の造船所で改造されて豊島形とよばれ、日本初の様式艦となっている。

大船禁止令が解かれて後、幕府のみならず諸藩も競って大型船の建造を進めたが、充分な施設や設備、資材、建造技術に乏しかったのでなかなか目指すような洋式艦船を進水させることはできなかった。そのため必要な艦船の大半はオランダや英国、米国、フランスから購入し、慶應末(1867)年には幕府が外国から購入した軍艦が8隻、汽船などその他の船舶36隻の総計44隻(333万6000ドル)、諸藩(29家)所有の船舶は94隻(449万4000ドル)に達した。当時、幕府所管の造船所は神戸の海軍操練所付属造船所、長崎飽の浦の鍛冶、工作、溶鉄工場、それに鳳凰丸を建造した浦賀造船所などがあったが、神戸の操練所付属は操練局が廃止されたので頓挫し、長崎や浦賀の造船所は外国から購入した艦船の修理を担当するのが精一杯で、未だ本格的な洋式艦船を建造する設備も技術も保有していなかった。

こうした洋式大船ブームの中で造船技術の習得はもちろんのこと、差し迫った課題として増え続ける輸入洋式船の修理技術や消耗品の船具の供給体制を整えることが急務になる。幕府は元治元(1864)年8月、長崎海軍伝習所の2期生で石川島造船所の機関部を司っていた肥田浜五郎をオランダに派遣して造船技術を視察させるとともに、造船に必要な設備類の物色に当たらせた。肥田は任務を全うして2年後に帰国している。

肥田浜五郎はオランダから帰国後、出身母体の石川島造船所の近傍に幕府直轄の本格的な造船所を建設すべきだと進言したが、紆余曲折の後、オランダではなくフランスから人材と技術、設備の提供を受けて横浜に製鉄所を設け、その付属施設を横須賀に建設することになった。当時、製鉄所と造船所はほぼ同義である。日本の近代初期において、製鉄の主要な目的は洋式艦船を建造することだったからである。いよいよ横須賀に製鉄所(造船所)が建設されることになったのだ。


〔参考文献〕
横須賀市史編纂委員会『横須賀市史』(横須賀市役所、昭和32年)216〜218頁参照。
横須賀百年史編纂委員会『横須賀百年史』(横須賀市役所、昭和40年)31〜33頁参照。






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横須賀線の開通

2010年08月29日 12時18分06秒 | 浦賀
写真上:北久里浜市街を流れる平作川。かつては久里浜港から半島各所を結ぶ水運の要だった
  下:横須賀線田浦駅


近代以前、東海道から三浦半島への入り口は主に戸塚、保土ヶ谷、藤沢の三村にあった。これらの村から江戸湾に沿って浦賀に至るルートが浦賀道とよばれ、現在でも通行することができる。相模湾に沿って三崎を目指す道が三崎道で、浦賀道とあわせ海岸沿いに三浦半島を一周する循環道路として機能していた。さらに小坪村新宿(逗子市新宿)から半島内奥の平作村を通って浦賀に至る道路が三浦中道とよばれ、これら三道が三浦半島の三大幹線を成していた。

三浦半島の交通は明治維新以降も徒歩もしくは人力車、あるいは馬車にたよる状況がつづいた。1873(明治)年当時の人力車の運行台数は公郷村が1台、深田村2台、中里村6台、大津村6台、浦賀町59台で、三浦半島の南部一帯では人力車の運行台数からも浦賀が他町村を圧倒して江戸時代以来の繁栄を謳歌していたことがわかる①。

横須賀線の JR 横須賀駅には、現在でも他の駅と一線を劃す独特な雰囲気が漂っている。それはこの駅が軍略上の要請に基づいて敷設された横須賀線の最重要戦略駅だったからだろう。東海鎮守府が横浜から横須賀に移され(1884年)、その名称も横須賀鎮守府と改称されたのを機に神奈川(現在の横浜市神奈川区)近傍から横須賀への直線馬車道の建設が計画され、それが横須賀線という鉄道路線に発展した。横須賀線の実質は東海道線から枝分かれする大船、北鎌倉、鎌倉、逗子、東逗子、田浦、横須賀、衣笠、久里浜の9駅で湘南情緒にあふれ、とくに衣笠〜久里浜間の平作川沿いに南行する沿線は現在も三浦半島の原風景を保存していて興味深い。

横須賀線は近代以降の産物で、軍事目的で1888(明治21)年に鉄道局新橋建設課長のもとに六等技師であった大屋権兵衛が主任となって着工し、翌1889(明治22)年に大船〜横須賀間が竣工した。汽車は新橋駅を1時間ごとに発着し、横須賀までおよそ2時間の旅程だった②。主に人が歩く三道しかなかった三浦半島に鉄道が敷設され、首都圏からの輸送能力が大幅に増強された。

横須賀線が営業運転を開始したのは1889(明治22)年である。利用客は年々漸増したものの急激な増減はなく、開通から18年を経た1907(明治40)年の年間乗客数は67万4755人、1日平均1843人だった。手荷物(チッキ)の年間発送量は2万3233トン、貨物は1万2844トンだった③。チッキは旅客が乗車券を提示して旅行に必要な物品を別便(無料)で送る便利な制度だったが、国鉄は1986年にこれを廃止している。宅配便などの普及で利用者が旅行時に大型荷物を携行しなくなったのが廃止に至った主な理由なのだろう。チッキという名称は「check」(チェック)が訛ったものとされる。

横須賀線の開通当時(明治22年)の乗車賃は新橋〜横須賀間(38哩)の三等が39銭だった。米1升が11銭前後だったので、現在の運賃と比べるとずいぶん高かったようだ。江戸前寿司が10銭(明治35年)、うな重30銭(明治30年)、天丼3銭(明治26年)、カレーライス5〜7銭(明治35年)、もりそば、かけそばが1銭(明治20年)くらいだった④。現在の物価で換算すると、かけそば1杯が1銭=500円として新橋〜横須賀間の運賃は39銭=19500円ということになり、新幹線で九州あたりまで行ける運賃である。

横須賀線は大船からスタートして鎌倉、逗子、田浦と三浦半島の付け根を横断し、横須賀で海岸線に到るとまたすぐに三浦半島の内奥に向かい、衣笠を経由して半島のほぼ真ん中を平作川沿いに終着地の久里浜にむかう。この鉄道はなぜ平作、衣笠などの半島内部に分け入ったのだろうか。それは線路が敷かれた時点で海岸線の逸見や汐入、堀之内、大津などよりも、内陸の水運が盛んだった平作、衣笠のほうが発展の可能性を秘めていたからにちがいない。ところが予想に反して内陸水運を担った平作川は寂れにさびれ、京急電鉄が担った沿海部の方に都市化の波が押し寄せた。もちろん、東京から横浜、あるいは大船経由で横須賀、久里浜までの物流を担い、三浦半島と首都圏を結んで人や物質の輸送を促す大動脈の役割を受け持ったのは横須賀線にほかならない。

〔注〕
① 横須賀市史編纂委員会『横須賀市史』(横須賀市役所、昭和32年)275〜281頁参照。
② 前掲『横須賀市史』280頁参照。
③ 前掲『横須賀市史』280〜281頁参照。
④ 週間朝日編『明治・大正・昭和 値段の風俗史』上・下(朝日文庫、昭和62年)






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室蘭の世紀7 〜小樽と函館〜

2010年08月20日 01時03分19秒 | 室蘭
 @記憶

 ところで、30年ほど前から小樽は函館と同様に観光地として生きていくことを選んだ。観光に街の再起をかけたのである。一方で、観光と陰影をなすように、小樽を一躍世界へと駆け上らせた金融も、華やかな商都としての機能も、そして巨万の富をもたらした漁業も、あるいは北方や大陸への「夢」を積み込んだ港湾都市としての面影も、今ではどんどん薄れ記憶に留めるばかりになってしまった。
 小樽がいち早く観光地として生き残っていくことを選び取ったのは、これら街の記憶を切り売りしていくことを選び取ったということでもあり、それは逆説的ではあるけれど、実態ある活力は戻ることがないということを察したからであったのかもしれない。

 観光地としての小樽は、他の観光地同様に当時の面影を鮮明に残している。残しているといっても街を大きなジオラマのような雰囲気に塗り替えたわけであり、建物も運河も作りこそ当時のままとはいえ、その機能も、あるいは生命力も全く別物になっているのである。
 しかしそれでもこの街のアイデンティティを奪い去ることはない。街は活力に満ちているときよりも、その時期を過ぎたときのほうがアイデンティティを感じやすい。ギラギラした瞬間にある街は、蠢く人々の欲望が生々しすぎたり、あるいは街そのものが成長期にあるためアイデンティティを形作る段階にあるからである。一方で、盛りを過ぎた街は人々の欲望をそぎ落とし、純化されたものだけが残っていくから、そこに街の本質を見出せるようになるのである。

 そして「観光地」という極めて現代的な都市形成を行っても、小樽の街が切り売りしているものはまさしく近代という時代の華やかさである。華やかさとは、「ここは植民地精神の溢れる男らしい町」と啄木が形容した街の力強さと言ってもいいかもしれない。
 したがって観光そのものが日本という近代国家の「光」を「観」る行為であったのであるから、小樽が観光地になったのは運命であったとしか言いようがない。
 蛇足ではあるが、日本がしきりと「観光立国」化を宣言しているのは、日本国という明治以来の国家がその命運を物語る時期に入ったということなのだろう。


 函館と小樽の共通点は数多く挙げられるものの、先にあげた地図から考えてみると、両都市の発展は、多分に上下逆転の見方のなかで起こったということである。つまり、日本本州との結びつきは当然のこととして、さらに大陸との強固な関係性のなかで街が育ったということである。
 それは今から考えれば、「国際」という名で言い表すことが出来ることかもしれないけれど、当時にしてみれば、いまだはっきりと確定していない版図の中で、ボンヤリと浮び上がってくる国家なる幻影を横目に、商人やその他多くの人々が活発に世界を行き来する「自由」な世界像なのである。
 そしてこの両都市の衰退は、次第に地図が回転し始め、現在我々が見ている北海道が上、沖縄が下という「今ある日本地図」への過程だったと言える。さらにその先に、これから取り上げる両都市、千歳と苫小牧があるのである。
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三浦半島の諸道

2010年08月11日 11時12分47秒 | 浦賀
写真上:浦賀道の地蔵尊
  下:逸見から汐入に至る浦賀道


開国と幕府の崩壊で江戸湾の海の番人としての役割を喪失した浦賀は、日本の近代に造船というハイテク産業で貢献するようになるまでの30年間①を清潔な港町として静かに送った。1884(明治17)年から1902(明治35)年まで約20年間も断続的に日本を訪れ、生活したエリザ・ルーアマー・シドモア(紀行作家、米国国立地理学協会初の女性理事)はその著『シドモア日本紀行』で「まるで絵のように可愛らしく清潔な」浦賀と特産だった琥珀色の甘美な水飴(粟蜜)のイメージを重ねあわせ、この町をきわめて美しく描いている。

  店構えの古い老舗が優れた品質の水飴製造を300年以上も変えずにつづけています…
  …古く褐色の水飴であればあるほど良い品となり、バタースコッチ菓子の究極品、東
  洋の栄光タフィ(落花生入りの糖菓)と呼んでもおかしくありません。また、これは
  健康によく効く食品として勧められ、今では「胃弱や肺病に有効性あり」と日本在住
  の内科医にも認知されているほどです。日本のどこで作られようが、この薬用水飴は
  浦賀特産です……大道芸人は小さなパトロン(子供)のために水飴を捏ねてペースト
  状にし、パイプで吹いて無数の幻想的な形を創造します。また特筆すべきは、最高級
  の大宴会はもちろんのこと、天皇の食卓にも登場し、幻想的な花となってあらゆる御
  馳走を華やかに飾り立てていることです② 。

浦賀の水飴については実際に品質が良く、世界に販路を拡げようとした思惑があったようだ。1892(明治25)年2月、浦賀町田中15番地で水飴を製造販売する尾島善四郎が翌年米国シカゴで開催されるコロンブス世界博覧会③に出品するために神奈川県の内海忠勝知事に出品願いを提出している④。

シドモアは横須賀から海岸沿いに蛇行して浦賀に到達した、と記している。それが1889(明治22)年以前であれば、横須賀までの道のりは保土ヶ谷あるいは戸塚あたりから浦賀道を人力車で走ったものと思われる。1889年以降なら新橋から横須賀まで横須賀線が開通しているので、汽車を利用したにちがいない。

近代以前、東海道から三浦半島への入り口は主に戸塚、保土ヶ谷、藤沢の三村にあった。これらの村から江戸湾に沿って浦賀に至るルートが浦賀道とよばれ、現在でも通行することができる。浦賀道は江戸から浦賀奉行所まで役人が通った御用道路で、山あいに細道が拓かれているので静かで見晴らしがよい。浦賀の片田舎から江戸に通じる出世街道であり、あるいは江戸から浦賀への左遷路でもあった。相模湾に沿って三崎を目指す道が三崎道で、浦賀道とあわせ海岸沿いに三浦半島を一周する循環道路として機能した。さらに小坪村新宿(逗子市新宿)から平作村を通って浦賀に至る道路が三浦中道とよばれ、これら三道が三浦半島の諸道(三大幹線)を成した⑤。

明治天皇は1871(明治4)年以来、横須賀海軍造船所への行幸、そこで建造された軍艦「清輝」、「武蔵」、「高雄」、「八重山」、「橋立」、「秋津洲」、「須磨」、「千早」、「音羽」、「薩摩」、「筑波」、「河内」などの進水式、試乗への行幸、あるいは日清戦争の戦利艦「鎮遠」、「済遠」、「平遠」、「鎮東」、「鎮北」の天覧のため横須賀まで行幸している。また中国、四国、九州の西国巡行(1872=明治5年)に使うお召し艦「龍驤」の試乗⑥、あるいは観音崎砲台天覧の行幸で浦賀を訪れているが、横須賀線が開通する以前は東京から横須賀あるいは浦賀まで海路を移動し、横須賀線が開通して後は新橋〜横須賀間をお召し列車で走った⑦。

現存する浦賀道は海岸線を避けて山あいを拓いているために狭隘でアップダウンが激しく、とても天皇を乗せた轎車(かご)が通行できるような道路ではなかったことが判る。後に造船で日本の近代を支えた浦賀の発展には鉄道の敷設が不可欠だった。三浦半島の幹線として横須賀線や湘南電気鉄道、京急電鉄が敷設された所以である。


〔脚注〕
①榎本武揚が主唱して浦賀湾内に浦賀船渠が創立されたのは1896(明治29)年9月28日のことである。浦賀船渠株式会社『浦賀船渠六十年史』(浦賀船渠株式会社、昭和32年)1頁参照。
②エリザ・R・シドモア著、外崎克久訳『シドモア日本紀行』(講談社学術文庫、2002年)66〜67頁参照。
③1893年5月1日〜10月3日までイリノイ州のシカゴで開催された国際博覧会(シカゴ万国博覧会)である。コロンブスのアメリカ大陸発見400周年を記念して開催された。19カ国が出展し、会期中に2750万人が訪れた。
④横須賀市編『新横須賀市史 資料編 近現代鵯』(横須賀市、平成18年)412〜413頁参照。
⑤横須賀市史編纂委員会『横須賀市史』(横須賀市役所、昭和32年)271〜275頁参照。
⑥ドナルド・キーン著、角地幸男訳『明治天皇』上巻(新潮社、2001年)335頁参照。
⑦長浜つぐお編著『明治天皇行幸の軌跡』(横須賀の文化遺産を考える会、平成22年)






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室蘭の世紀 6 〜小樽・後編〜

2010年08月01日 22時53分35秒 | 室蘭
@小樽運河 

 小樽に変化が訪れたのは戦後である。それまで大陸との貿易に活路を見出していた小樽にとって、戦後とはそれらのルートを失うことを意味していた。さらに暫時縮小する石炭積み出し量、そして追い討ちをかけるように苫小牧港が整備されたことは打撃であった。同時に札幌が急速に発展し始めたことによって、商業、金融の中心が一気に札幌へと移ってしまったことも小樽を窮地に追い込ませた。

 また小樽には今でもニシン御殿がいくつも残っていることでわかるように、この地とニシンの縁は深い。もともとの小樽の中心地は銭函であった。その地名の由来はニシンによって得た銭を入れる箱がいっぱいあったからだとも言われている。地名由来の真偽のほどはさておいて、いずれにしても春とともに北上してきたニシンが、多くの銭を小樽に落としていたのは事実である。しかしここでも戦後、函館同様ニシンはパッタリと姿を消した。


 この街の栄華は、明治以降に開拓使が小樽を開拓港と見定めたことにすべては始まった。けれど地図を見れば分かるように、「日本」の中の小樽としては、いかにも不利な地勢的条件下にある。さらに、札幌小樽間の峠は、間隙を縫うようにして通された道と鉄道が物語っているように、開拓使が必ずしも利便性の高い最適地としてこの地を開拓したわけではないのである。
 いくつかあった案の中から、当時の緊縮予算を考慮に入れ、産炭地や本府札幌を基点として考えたときのもっともコストが安くつくことを前提として通されたルートであり、早晩札樽線が時代の記憶とされるのは予定調和的であったとも言えなくもない。

 ではいくつかあった案にあがった他の街はどこだったかといえば、それは室蘭である。この両都市は、一見関係性はほとんどないように見えるが、実はライバルのような関係にあったのである。
 開拓当時、石炭積出港として小樽を推したのは、開拓使顧問アンチセルやケプロンたちと、開拓使出仕身分の榎本武揚たちであった。しかし、ケプロンや榎本は同時に室蘭の優位性に早くから着目していたのである。結果的に黒田長官が第一に採用したのは小樽周りであったのだけれど、それは上述した理由や、当時は函館が北海道における最大規模の都市であり、そこを無視するわけにはいかなかったことなどからである。時代が小樽の味方をしたと言える。

 その後室蘭も積出港として整備されていくことになるのだけれど、今では両港ともにその役割に一定の終止符を打っていることは歴史の皮肉であるのか、あるいはひとつの時代が終わりを告げたということなのかもしれない。

 小樽の衰退は戦後から段階的に進行したのだけれど、北海道の中では一番早かった。そしてそのことによって、ここで取り上げる都市のなかでは人口の増減という点において、室蘭と並んで「北海道らしさ」を体現したのが小樽であると言える。つまりある産業構造の急速な発展による爆発的な人口増加と、その産業の衰退による急激な人口減が100年あまりの間に一気に起こったという点である。

 先に述べたように、小樽と室蘭という両都市は、同じ時期に同じ理由から着目された都市であった。その後、両者は金融、商業、水産、そして港、あるいは鉄、造船、木材、そして港と、活路を別のところに見出し成功していくのだけれど、衰退し始めた時期もほとんど同じであり、そこに街の宿命とでもいうべき性を感じてしまうのである。つまり街の存在というものが何によって命脈を得て、さらにまた何によってその命脈を断ち切られるのかということである。

 ある街の勃興や衰退は、時代や地理的条件といったいくつもの条件が奇跡としか言いようのないほどの偶然性と必然性をもって巡りあった結果である。決して、ひとつの街だけで完結するわけではない。両都市がほぼ同時期に人の一生のように生れ落ち、成長し、逞しい男性のようにギラギラと輝き、やがて爛熟し朽ちていったことは、それぞれの都市が持つイメージは異なっても、やはり両者とも近代の申し子であったからである。
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近代への助走

2010年07月29日 08時54分03秒 | 浦賀
写真上:西伊豆の戸田港
  下:戸田港の西岸にある洋式船ヘタ号建造跡地


浦賀の入り江を約100年かけて造船の町に育て上げた浦賀船渠(浦賀ドック)は、なぜここに設立されたのだろうか。

江戸幕府が大船建造の禁を解いたのは、ペリーが浦賀に来航した1853(嘉永6)年のことだ。大船建造の禁は諸大名の水軍力を弱め、幕藩体制下で幕府の統治を盤石にする目的で1609(慶長14)年に第2代将軍の秀忠が制定した。その禁止令が250年の星霜を経て解かれたのは西洋の東漸(ウェスタン・インパクト)で欧米の艦船が日本の近海を遊弋し、これに危機感を抱いた幕府が海防の充実を迫られたからだろう。幕府は諸藩に率先して浦賀港で見よう見まねの西洋型帆船鳳凰丸を建造し、これを機に各藩に対して大型船の進水を奨励した。1854(安政元)年のことだった。浦賀に造船拠点(浦賀造船所)が設けられたのは、諸外国が江戸湾の入り口を扼する浦賀港を目指して艦船を回航し、浦賀の船大工や役人がしばしばこれらの洋式艦船を目撃し、実地に多少の西洋艦船の建造に関する研究を積んでいたからである。

この年、下田沖に接近したロシア帆船ディアナ号が下田地震(1854年11月4日)による津波で大破し、修理環境が整っていた西伊豆の戸田(へだ)まで回航途中に駿河湾で沈没した。戸田の船大工たちは遭難したロシア船員の指揮のもとに洋式帆船ヘタ号を突貫工事で建造してロシア使節の窮地を救った。このことは日本の船大工が洋式船の構造や建造技術を会得するのに大きな役割を果たしたようだ。

諸藩も一気に大船建造に動いている。水戸藩は隅田川河口に設けた造船所で西洋型船「旭日丸」の建造に着手した。この造船所が石川島播磨重工業(IHI)の前身である。薩摩藩は3本マストの西洋型船「昇平丸」の建造を始めた。

鳳凰丸の建造主任は浦賀奉行の与力職にあった中島三郎助だった。中島はペリーが浦賀沖に現れた際、最初に旗艦のサスクエハンナ号に乗り込み、その後も数回に渡って米艦との応接に当たったため、黒船を詳細に観察していた。そのことは中島が建造主任に任命された有力な理由になったにちがいない。『ペルリ提督 日本遠征記』には中島三郎助が久里浜で挙行された国書受渡儀式の後、もう一人の与力であった香山栄左衛門とともにサスクエハンナ号に乗船した際の光景が以下のように記されている。

  これ等の日本役人は何時もの通りその好奇心を多少控えめに表していたが、しかも汽
  船の構造及びその装備に関するもの全部に対して理解深い関心を示した。蒸気機関が
  動いている間、彼等はあらゆる部分を詳細に検査したが恐怖の表情をせず、又その機
  械について全く無智な人々から期待されるような驚愕をも少しも表さなかった。彼等
  はすぐ様蒸気の性質を多少洞察したらしく、又蒸気を使用して大きな機関を動かす方
  法及び蒸気の力で蒸気船の水輪を動かす方法についても多少洞察したらしかった。

幕府は1855(安政2)年、長崎に海軍伝習所を設立し、翌年にはオランダから咸臨丸を回航してきたファン・カッテンディーケを所長に迎え、中島はそこに派遣されて造船学や航海術などを学んだ。

幕府はさらに1857(安政4)年、築地に軍艦操練所を設け、その5年後の1862(文久2)年には榎本釜次郎(武揚)ら15名をオランダに派遣し、造船や航海術、国際法、軍事知識を学ばせ、海軍の創設に備えた。

この時期、浦賀造船所以外に長崎製鉄所、石川島造船所、横浜製鉄所、横須賀製鉄所などが相次いで設立され、西欧型艦船の造船による海防の充実が図られた。この浦賀造船所が後にこの小さな入り江の町で浦賀船渠がスタートするきっかけとなるのである。浦賀船渠の創立者は、オランダに留学して造船や航海術を学んだ榎本釜次郎(武揚)その人である。


〔参考文献〕
浦賀船渠株式会社『浦賀船渠六十年史』(浦賀船渠株式会社、昭和32年)
須藤利一編『船』ものと人間の文化史1(法政大学出版局、1968年)
土屋喬雄ほか訳『ペルリ提督 日本遠征記』(三)〔岩波文庫、昭和28年〕
カッテンディーケ著、水田信利訳『長崎海軍伝習所の日々』(東洋文庫、1964年)
星亮一『長崎海軍伝習所』(角川文庫、平成元年)






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室蘭の世紀 5  〜小樽・前編〜

2010年07月09日 06時07分20秒 | 室蘭
すべてはここから始まった:旧手宮線 

 
 北海道において、明治、大正期にすでに勃興していたもうひとつの都市は、小樽である。都市の人口が最大になったときを指数100とすると、大正期までに50を超えていたのは、函館と小樽のみである。
 小樽は今でも観光地として残る運河に代表されるように、明治期には物流、貿易港として栄えた歴史を持つ。石炭の積出港であったことも相まって、前世紀の初めには国際貿易港として一躍世界の小樽へと上り詰めていったのである。樺太はもちろん、満州などの日本の植民地への前線基地となるのもこの頃である。また第一次世界大戦の勃発によってヨーロッパの穀倉地帯が軒並み壊滅的になり、結果的に北海道の穀物の輸出量が激増したことも、積出港としての小樽の繁栄に一役も二役も買った 。

 その結果、ヒト、モノ、カネが集り、商都・小樽は誕生したのだ。「北のウォール街」として世界で名を馳せもした。
 今、小樽の町を散策すると、函館同様、観光業に活路を見出していることもあって、金融の町であったころの形跡がそこかしこで見ることができる。石作りの重厚な建物が立ち並び、往時はさぞ華やかであったろうことを偲ばせる。
 大正の頃、小林多喜二や伊藤整が小樽高等商業学校(現小樽商科大学)で学んだのも偶然ではない。当時の小樽における商学がいかに華やかであり、優秀なものの目指すべき道であったかということを物語っているのである。花巻農学校の教員をしていた宮沢賢治も修学旅行で生徒を引き連れ、高商を訪問していた。文明開化の響きを聞くには、華やかな商都の頭脳に触れるのが一番手っ取り早かったのだろう。
 今でも一橋大学や神戸大学など、商業を生業としてきた大学が垢抜けたイメージを持っているのは、こんなところに原因があるのかもしれない。

 商業を学ぶということは、日本の近代化にあって、世界の中での経済体制に組み込まれていく過程で極めて重要な地位にあった。もっともそれは同時に植民地の拡張、つまり大陸、あるいは樺太への進出、そしてそもそも北海道自身の開拓にそろばんがつきものであったということでもある。殖民の最前線であった港町・小樽に、日本でも数番目という速さで超近代的な高商ができたのは歴史の必然だった。

 さて、今でも、樽が垢抜けたお洒落なイメージを保っているのは、モダニズムの建築群が残っていることや、北の荒野へのある種のロマンチシズムの残滓、さらには国際都市として世界とつながっていたことへの見果てぬ夢がそうさせているのではないだろうか。
 函館も同様なイメージが残っているが、そういったものは本州の国際都市とある点では一致し、ある点では異なるように思えるのだが、その異なるほうは、やはり「フロンティア」と「国際」ということが同時発生的に起こったということではないだろうか。北海道にはアイヌはもちろん、和人も含め明治以前からかなりの数の人々が暮らしていたけれど、北海道を語るとき、そういったことは忘れ去られ、荒野に踏み入った開拓者たちというイメージが形成されるのである。
 そのため、荒野に忽然と国際都市を作り上げたという陽気楼の先にある幻都のようなイメージが働いているように思えるのである。そのような幻の先にある見果てぬ夢を見て、人々は一旗揚げようと、あるいは再起をかけて多くが海を渡ってきたのである。
 そしてまた、この両都市は日本の一都市としてよりも、世界の中の都市として発展してきたことは前述の通りである。

 だから、と言っていいのだろうけれど、小樽は日本海側にある街の中で、数少ない華やかさを持った街である。裏日本(日本海側)や東北と、北海道のイメージは完全にといっていいほど断絶している。北海道のこの両都市に、「裏」やうらぶれた日本海、あるいは豪雪の中、息を潜めて暮らしてきた人々というイメージは、ほとんどと言っていいほどない。
 日本海側に付随するこれらのイメージは、ほとんどが明治以降のものである。裏と表の日本の関係を象徴する「三国峠をぶっ飛ばせ」と角栄が言ったとか言わないとかも、つい数十年前のことである。それらは日本の経済成長と取り残される地域という対立構造の中であぶりだされたイメージでもあったのだけれど、これらが北海道にまで押し寄せることはついぞなかったのである。それは取りも直さずこの街に、上記のイメージが付随していたからなのであろう。
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ペリー久里浜上陸

2010年07月06日 18時23分52秒 | 浦賀
手前からサスクエハンナ号(外輪蒸気船)、ミシシッピ号(同前)、サラトガ号(帆船)、プリマス号(同前)


浦賀に来航したペリーの黒船に最初に乗船したのは、浦賀与力の中島三郎助だった。浦賀副奉行と身分を偽って黒船の副官と商議し長崎への回航を求めたが容れられず、ペリーは合衆国大統領から将軍に宛て認められた親書を手交する幕府役人の来船を求めた。翌日、今度はやはり与力の香山栄左衛門が浦賀奉行に成り済ましてサスクエハンナ号に訪船し、相変わらず長崎への回航を要請した。これに対してペリーは、幕府が親書を受け取る役人を派遣して来ないのなら武力を持ってしても上陸し、親しくこれを将軍に奉呈すると恫喝した。

幕府は協議の結果、浦賀の隣村の久里浜の仮館でペリーと会うよう浦賀奉行に命じ、嘉永6(1853)年6月9日に米国使節の日本上陸が実現したのである。黒船が浦賀沖に投錨してから6日目のことだった。上陸した米国人の人数は水兵、陸戦隊、楽師および士官をあわせて約3百人、これに対して日本側は5千人以上だった。浦賀奉行所付与力の合原総蔵の聞き書きは当日の米兵の様子を次のように伝えている。

  小屋の側を浦賀人數にて固める。小屋の左右を彦根、川越の人數にて圍む。異人何れ
  もゲヘル(剣付鉄砲)にて備を固む。彦根、川越の備の前を歩き、組頭様の者、剣を
  ひらめかしなどして指図す。浦賀人數の固めを見て、異人共、耳こすりなどし、或は
  指さしなどして、悉く嘲弄の體に見え、無念いわん方なし。又異人調整の能く整い候
  こと、奇妙驚人候。

厳粛で緊張した雰囲気の幕府側に比して米国士官たちは一様に陽気で、耳を掻いたり、なにかを指差したりしてリラックスしていたようだ。しかし合原の聞き書きが伝えるように「異人調整の能く整い候こと、奇妙驚人候」で、隊列は整然として一糸乱れぬ様子に日本側は驚愕し、さすがは東インド艦隊の士官というべきだろう。

無事に親書を手渡したペリーの黒船艦隊は浦賀から琉球を経て香港にもどって太平天国の乱に遭遇した米国居留民の保護に当たり、翌嘉永7年1月にふたたび江戸湾に至った。幕府と米国が和親条約を結んだのはその年の3月3日のことだ。下田、函館を開港して薪水、食糧、石炭等を供給し、遭難船員およびその財産の保護、開港場における遊歩区域の設定、最恵国待遇の提供、外交官の駐在などが決められた。米国との和親条約が締結されて間もなく、ロシア、英国、オランダとも同様の条約を交わさざるを得なかった。安政5(1858)年にはさらに米国、オランダ、ロシア、英国、フランスと通商条約を結び、日本の近代は欧米諸国によってなかば強制的に抉じ開けられたのである。よどんだ平穏が破られた幕末の日本は大騒ぎになった。「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん)、たった四杯で夜も寝られず」とは、あながち大きな誇張ばかりではなかったようである。


〔参考文献〕
浦賀船渠株式会社『浦賀船渠六十年史』(浦賀船渠株式会社、昭和32年)
浦賀古文書研究会『浦賀中興雑記』(浦賀古文書研究会、昭和56年)
加茂元善『浦賀志録』(浦賀志録刊行委員会、2009年)
横須賀百年史編纂委員会『横須賀百年史』(横須賀市役所、昭和40年)
三谷博『ペリー来航』(吉川弘文館、2003年)






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