明治の頃と今とでは何が変わったのだろうか。明治の頃の港周辺の写真を見て、愕然とするほど今とは町の風景が違ったと思える変化があった。
それは、明治の町は「町のファサード」が海を向いていたことである。海岸通りに面したおそらく商店などであろうが、それらの建物がひとつひとつ海と向き合うように建っているのである。町は海に向かって広がり、海に向かって開かれている。
もっとも今でも海岸通りに面した建物は、もちろん道路に面して出入り口を作るので、方角的には海のほうを向いている。けれどそこにある大きな違いは、今の建物の眼の前にはもう海がないことである。昔海だったところは埋め立てられ、今では陸となっている。つまり、建物は道とは向き合っているが、海とは向き合っていないのである。もっとも海寄りにもう一本道ができているので、そちらに建物が建てば同じではないかと思うかもしれないが、海沿いにある産業道路の両側の建物は、すべてが工場や倉庫あるいは事務所などであり、ファサードと言えるような正面もなく、つまりは海があってもそちらを向いていないのである。
であるから、今海岸通を歩いても、この町が海と面していることにほとんど気付けないような街の作りになっているのである。海側に行けばいくほど、人目を憚らない工場などが立ち並び、あたかも海を見えなくしているのではないだろうかと訝りたくなるほど、道行く人にとっては海と無縁な町と化しているのである。
明治期の海と向き合っている町並みを見てから今を見ると、あたかも町のファサード(顔)をなくしてしまったのではないかと思いたくなるほど、町の表情は違う。
それでは明治の頃の室蘭の町はどうだったのだろう。明治14年の市街地をもとにして当時を再現した文章を借りると、「一丁目には役所、病院、電信所、回漕店、宿屋がびっしり建ち、まさに港の中心街、二丁目は、荒物屋、菓子屋、宿屋とならび、三丁目には、山中、高原の大きな宿屋、室蘭名物の貝がら屋、それに貸座敷、遊女屋が眼をひき、四丁目の現中央町から常盤町入口にかけて、料理屋、貸座敷、遊女屋が七、八軒、民家、商家と軒を連ねており、そして学校さえあった」 という町並みであった。
ここで言う一丁目が、明治の初年に誕生した室蘭の玄関口である旧桟橋周辺の街区になる。そして数字が大きくなるに従って、港からは遠ざかっていく。明治初期の一丁目、つまり桟橋付近を写し取った写真を見ても、宿屋などが海を向き、いかにも海から来る客を飲み込もうとしている形相が見て取れる。確かに町が海を見ている。あるいは海から見られることを、町が意識している。
室蘭の町は、海と向き合いながら、港を中心に発達してきたのである。町には顔がある。それは都市のファサードといいかえることができる。町の顔なのだから、来客に一番みせたい面を向けているのである。そしてそれは町の第一の性格として特色付けられていく。
そして海と対峙するように町のファサードができたことは当たり前で、当時の幹線道は対岸の森から海路を取り、この室蘭で再び陸路となり札幌まで延びていたのである。だから船で来た人々はここで陸にあがり、その人々に向けられた町のまなざしとでもいうようなものが町のファサードを作ったのである。もっとも昭和の写真を見ても、看板などが海を向き、明らかに海を意識している。
ちなみに、現在の郊外の国道沿いにネオン交じりの巨大な看板が立ち、その奥に聳える巨大な商業施設の数々は町のファサードの現代版で、少し前までは駅前の瀟洒なデパートがそれであった。
蛇足ながらボクがちょくちょく出没している夜の町は、浜町と呼ばれているのだけれど、地名でいえば中央町であり、上記の丁目にすれば四である。したがってその辺り一体は、明治の頃から既に歓楽街の様相を呈し始めていたことが分かる。
ただし、同じ四丁目である幕西町にあった遊郭は戦後赤線となり、今では消えた。跡形もなく消えた。今行って見ると何事もなかったかのように住宅街となり、往時の記憶を奇麗さっぱり消し去っていることがわかる。
「山を登って頂上から眺めると、室蘭湾は実に美しい。…この湾の美しさは何ものにもひけをとらない。不規則にたった灰色の町は、高いところに灰色の神社があり、小さな湾の縁をだらだらとのびている。森の茂った険しい坂町である」。(日本奥地紀行)
これは明治の初年に来蘭したイザベラ・バードが、短期の滞在中に得た感想である。室蘭港の美しさに一際強い感想を抱いていたことがわかる。そしてこの室蘭港の美しさは、数億年がかりの絵鞆半島の上下運動によってできた急峻な陸地と、底の深い湾によっている。
もっとも、室蘭を訪れた外国人の多くが同じような感想を持った。だからこそ、室蘭が函館から札幌へ通ずる道の途上に選ばれたのである。それもこれも室蘭港の良港さ故であった。
それまでは人口もわずかばかりの寒村にすぎなかった室蘭が、この港ひとつで一気に脚光を浴びた。だからこそ町は当然のように港に沿って建設され、自然と海を見るように町の顔が整えられたということは、言うまでもないことなのである。
ところがいくつかの要因によって室蘭港は次第に衰退し、今でも下降の一途を辿っている。下降をすれば港の機能は縮小せざるを得ず、例えば、石炭の積み出しで栄えた埠頭跡は、今では行政などの建物が立ち並び、往時の繁栄をよそに物静かな町へと変貌した。
海であったものが次々と陸に上がった。そして港から始まる海はあたかも暗渠のような風体となったと言ったら大げさに過ぎるだろうか。
それは、明治の町は「町のファサード」が海を向いていたことである。海岸通りに面したおそらく商店などであろうが、それらの建物がひとつひとつ海と向き合うように建っているのである。町は海に向かって広がり、海に向かって開かれている。
もっとも今でも海岸通りに面した建物は、もちろん道路に面して出入り口を作るので、方角的には海のほうを向いている。けれどそこにある大きな違いは、今の建物の眼の前にはもう海がないことである。昔海だったところは埋め立てられ、今では陸となっている。つまり、建物は道とは向き合っているが、海とは向き合っていないのである。もっとも海寄りにもう一本道ができているので、そちらに建物が建てば同じではないかと思うかもしれないが、海沿いにある産業道路の両側の建物は、すべてが工場や倉庫あるいは事務所などであり、ファサードと言えるような正面もなく、つまりは海があってもそちらを向いていないのである。
であるから、今海岸通を歩いても、この町が海と面していることにほとんど気付けないような街の作りになっているのである。海側に行けばいくほど、人目を憚らない工場などが立ち並び、あたかも海を見えなくしているのではないだろうかと訝りたくなるほど、道行く人にとっては海と無縁な町と化しているのである。
明治期の海と向き合っている町並みを見てから今を見ると、あたかも町のファサード(顔)をなくしてしまったのではないかと思いたくなるほど、町の表情は違う。
それでは明治の頃の室蘭の町はどうだったのだろう。明治14年の市街地をもとにして当時を再現した文章を借りると、「一丁目には役所、病院、電信所、回漕店、宿屋がびっしり建ち、まさに港の中心街、二丁目は、荒物屋、菓子屋、宿屋とならび、三丁目には、山中、高原の大きな宿屋、室蘭名物の貝がら屋、それに貸座敷、遊女屋が眼をひき、四丁目の現中央町から常盤町入口にかけて、料理屋、貸座敷、遊女屋が七、八軒、民家、商家と軒を連ねており、そして学校さえあった」 という町並みであった。
ここで言う一丁目が、明治の初年に誕生した室蘭の玄関口である旧桟橋周辺の街区になる。そして数字が大きくなるに従って、港からは遠ざかっていく。明治初期の一丁目、つまり桟橋付近を写し取った写真を見ても、宿屋などが海を向き、いかにも海から来る客を飲み込もうとしている形相が見て取れる。確かに町が海を見ている。あるいは海から見られることを、町が意識している。
室蘭の町は、海と向き合いながら、港を中心に発達してきたのである。町には顔がある。それは都市のファサードといいかえることができる。町の顔なのだから、来客に一番みせたい面を向けているのである。そしてそれは町の第一の性格として特色付けられていく。
そして海と対峙するように町のファサードができたことは当たり前で、当時の幹線道は対岸の森から海路を取り、この室蘭で再び陸路となり札幌まで延びていたのである。だから船で来た人々はここで陸にあがり、その人々に向けられた町のまなざしとでもいうようなものが町のファサードを作ったのである。もっとも昭和の写真を見ても、看板などが海を向き、明らかに海を意識している。
ちなみに、現在の郊外の国道沿いにネオン交じりの巨大な看板が立ち、その奥に聳える巨大な商業施設の数々は町のファサードの現代版で、少し前までは駅前の瀟洒なデパートがそれであった。
蛇足ながらボクがちょくちょく出没している夜の町は、浜町と呼ばれているのだけれど、地名でいえば中央町であり、上記の丁目にすれば四である。したがってその辺り一体は、明治の頃から既に歓楽街の様相を呈し始めていたことが分かる。
ただし、同じ四丁目である幕西町にあった遊郭は戦後赤線となり、今では消えた。跡形もなく消えた。今行って見ると何事もなかったかのように住宅街となり、往時の記憶を奇麗さっぱり消し去っていることがわかる。
「山を登って頂上から眺めると、室蘭湾は実に美しい。…この湾の美しさは何ものにもひけをとらない。不規則にたった灰色の町は、高いところに灰色の神社があり、小さな湾の縁をだらだらとのびている。森の茂った険しい坂町である」。(日本奥地紀行)
これは明治の初年に来蘭したイザベラ・バードが、短期の滞在中に得た感想である。室蘭港の美しさに一際強い感想を抱いていたことがわかる。そしてこの室蘭港の美しさは、数億年がかりの絵鞆半島の上下運動によってできた急峻な陸地と、底の深い湾によっている。
もっとも、室蘭を訪れた外国人の多くが同じような感想を持った。だからこそ、室蘭が函館から札幌へ通ずる道の途上に選ばれたのである。それもこれも室蘭港の良港さ故であった。
それまでは人口もわずかばかりの寒村にすぎなかった室蘭が、この港ひとつで一気に脚光を浴びた。だからこそ町は当然のように港に沿って建設され、自然と海を見るように町の顔が整えられたということは、言うまでもないことなのである。
ところがいくつかの要因によって室蘭港は次第に衰退し、今でも下降の一途を辿っている。下降をすれば港の機能は縮小せざるを得ず、例えば、石炭の積み出しで栄えた埠頭跡は、今では行政などの建物が立ち並び、往時の繁栄をよそに物静かな町へと変貌した。
海であったものが次々と陸に上がった。そして港から始まる海はあたかも暗渠のような風体となったと言ったら大げさに過ぎるだろうか。
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