murota 雑記ブログ

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朱子学と陽明学の歴史的経緯をたどる。

2016年10月14日 | 読書の中から
 陽明学で知られる王陽明の語録は『伝習録』にある。そして陽明学ほど有為転変の激しかったものもない。日本儒学の思想は、陽明学を除いては語れないが、陽明学ほど誤解されてきたものもない。「知行合一」の思想は儒学なのか、正統な朱子学なのか、あるいは心学か儒仏学か、修身の学か、天下安泰の学か、変革の思想か、王権奪取の学なのか。陽明学は中国で廃れて、日本で独自に復活した。本場の中国で廃れて、日本で復活というのも気になる。陽明学は、武士道にも神道にも、禅にも明治キリスト教にも親和していった。

 内村鑑三の『代表的日本人』に陽明学についての言及がある。中江藤樹と西郷隆盛、二人とも陽明学に心服した。中江藤樹は天人合一を謳って近江聖人と敬われた。その弟子に熊沢蕃山がいて、水土論と正心論を説いた。西郷隆盛は王陽明を読み、『伝習録』を座右にし、「敬天愛人」を心に決めた。藤樹も西郷もそれぞれ陽明学に心服した。この二人の陽明学への心服に、キリスト者の内村が心服している。幕末の志士であった高杉晋作は、幕末や上海のキリシタンの動向を見て、その本質を嗅ごうとし、長崎で『聖書』を読み、これは陽明学ではないかとひらめいたようでもある。

 かつて全国の小学校の校門や校庭には、薪を背負って熱心に本を読んでいる二宮金次郎の像が立っていた。二宮金次郎が歩きながら熱心に読んでいた本は『大学』。『大学』は四書五経のひとつ。少年の金次郎はなぜ『大学』を読んでいるのか。四書五経とは、『大学』『中庸』『論語』『孟子』の四書と、『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』の五経だ。この順は中国でこれらのテキストが成立した順ではなく、中国で習う順番。『大学』が最初にある。これを決めたのは古代中国の帝国ではなく、朱子が決めた。それまで科挙には五経を課していた。科挙は隋の文帝から始まっているが、唐代で文芸中心の進士科が重んじられ、宋代で朱子によって四書五経を対象とすることが確立した。五経はそのうちの一経だけを選択受験すればよかったので四書が流行した。いわば『大学』は共通一次試験の入門テキストのようなもので、誰もが読んだ。『大学』というテキストは古代からあったわけではなく、『礼記』の一篇にすぎなかったが、それを朱子学が自立させて『大学』とした。本来の大学の意味は「学の大なるもの」、漢の鄭玄は「博学をもって政となす」といい、隋の劉絃は「博大聖人の学」といった。これを宋の司馬光は「正心・修身・斉家・治国よりもって盛徳、天下に著明なるに至るは、これ学の大なるものなり」とした。朱子は、この思想を三綱領八条目に整理した。三綱領というのは「明徳」「新民」「止至善」。「明徳」は自分を修める「修己」のためのコンセプトであり、「新民」(親民)は人を治める「治人」のコンセプト。八条目は「格物・致知・誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下」の8つのサブコンセプト。このうちの格物・致知が学問のビジョンをあらわし、誠意・正心・修身が徳行を、斉家・治国・平天下が行動(功業)テーゼを集約する。つまり、『大学』は己を修めて人を治めるためのもの、ここに儒学のエッセンスがすべて凝縮していると朱子は考えた。ゆえに朱子学は「格物致知の学」といわれる。

 朱子の先駆者の一人となった北宋の張横渠は、これを、「天下のために心を立て、生民のために命を立て、往聖のために絶学を継ぎ、万世のために太平を開く」(近思録)と要約した。古来、名文といわれている要約だが、このうちの「万世のために太平を開く」が昭和20年8月15日の終戦の詔勅に用いられた。安岡正篤が手に入れていた。詔勅の本文は迫水久常が漢学者の川田瑞穂に頼んで書いてもらっていた。伊藤仁斎は『大学』について「三綱領あれども八条目なし」と言って、朱子の整理に不備があることを突いていた。四書五経のエッセンシャルな入門としての『大学』が日本にも伝わった。日本は科挙をやっていないので、寺子屋などで『大学』が自主的に読まれた。金次郎も『大学』を読んでいた。小田原藩の分家領地の農村改革をなしとげた二宮尊徳の少年時代ということで、その金次郎が第一歩を『大学』から踏み出した。その尊徳のプロフィールを少年時代に限定して、大日本帝国の道徳教化の素材にし、修身教科書の勤倹シンボルに仕立てたのが、薪を背負って『大学』を読む金次郎像だった。敗戦後には消してもよいものが、歴史というものは意外な反転をし、二宮尊徳の言動と成果は、GHQによって民主主義のシンボルと解釈され、全国の小学校に残された。

 朱子学が、『大学』で説いた「明徳」と「新民」を重視して「格物致知」を中核の思想においた。340年後には王陽明が反旗をひるがえすが、それは朱子学と陽明学の奇妙な対立となる。朱子学は、11世紀の宋代に出現し、朱子(朱熹)等が連携して構築していった学問体系で、宋学ともいわれた。もともとは始皇帝の焚書によって多くの儒書が焼かれ、漢代以降の儒教が弱体化した。唐代には仏教が浸透していった。教団道教の確立があった。異民族の度重なる蹂躙と支配によって華夷秩序が守れなかった。また、仏教が理論面でも、信仰や修行面でも生活に革新を与え、民衆の心を捉えていた。古代儒教(旧儒教)が避けていた死や実存をめぐって、儒教は仏教には対抗できなくなっていた。それが宋朝になり漢民族のおかれた状況を深くふりかえる好機がやってきた。宋代そのものは北方の遼や金やモンゴルの脅威を受け、内部の敵もかかえ、安定な政権ではなく、民族意識がよみがえる好機となる。そこへ商業資本が勃興し、家範・家訓・家規を重視する傾向が生まれた。そこへ司馬光が『資治通鑑』をもって歴史の筋をただした。そこに登場したのが「道学」(新儒学=朱子学)だ。先頭をきったのは周敦頤(周濂渓)の『太極図説』。そして朱子が理論の体系化をする。ここから朱子の理気哲学体系に入っていった。

 『太極図説』は陰陽思想や五行思想を新たに組み直した一種の宇宙生成論。中華思想を宇宙的な原理に直結させるには都合のよいものだった。漢民族にとっては、中華思想はアジア社会のみならず宇宙の原理とも合致していなければならない。『太極図説』は、その要請に応えた。周敦頤は、太極が陰陽の二気を生じて、木火土金水の五行となり、現象や生物や事物を派生する組み立てをやった。すなわち、「気」の流出と分化のシステム化だ。中国ではこれを「万物化生」という。朱子は、この「気」の流れがつくる万物化生のすべてを統括するものを「理」とみなし理気哲学とした。「理」に超越的性格を与えて「気」と対応させた。これは二元論。その朱子が、四書のなかで『大学』をとくに重視。『大学』には朱子学の骨子が端的に表現されているのを朱子は利用した。儒教儒学には古くから「父子天合」に対して、「君子義合」という考え方がある。もし父親がまちがった行為をすれば子たるものは、三タビ諌メテ聞カザレバ、スナワチ号泣シテ之ニ随ウベシだが、誤った君に対しての臣は、三タビ諌メテ聞カザレバ、スナワチ之ヲ逃ルということでもよい。義が合わなければ主君のところを去ってもよいと『大学』は訴えていた。

 「義」とはどういうものか、日本の儒学も、また西鶴や近松もそこを問うたが、朱子にあっては、この社会道徳の二極性にも合理性を与えて説明しようとした。朱子の徹底した合理主義であるが、日本の近世の表現者には、この合理主義はそぐわない。朱子学のロジックは、一人一人が真理を正しく知るべきであり、正しく知るには居敬を正しくしなければならないというところにある。居敬とは心身を収斂し「本然の性」を日々守ることをいう。それゆえ朱子の道学は、理気哲学であって、かつ性理学と言われる。「知る」ということを窮理とみなし、それを格物致知とすることで、『大学』のメッセージと巧みに合わせたところが眼目だ。このような考え方は個人の一人一人に天下を正しく考えてもらうにはぴったりだった。また、それは朱子学が宋朝によって国教に採用された理由でもあった。しかし、朱子の見解に異議を唱える者が出てきた。朱子とほぼ同年代の陸象山(陸九淵)だ。陸象山は朱子が「性」を「理」とみなしたことに反論し、「心」こそ「理」とみなすべきと考えた。朱子が「性即理」であれば、陸象山は「心即理」だった。心がそのまま理になるべきという。これを「心学」といった。朱子学のほうも黙っていない。もともと朱子学には仏教と激しく対立するところがあり、ダメなものは仏教的だと批判してきた。陸象山に対しても仏教じみていると批判したが、この対立はやがて崩れてゆく。朱子学者の間に腐敗や低迷がおこり、モンゴルがやってきて元朝になってしまったからだ。元朝は科挙については朱子学を形式的に施行するようにしたため、朱子学は学問というよりも官僚の道になっていった。朱陸同異論(朱子と陸象山の考え方は同じか異なるか)の議論ばかりがむなしく流行した。そこに登場したのが王陽明だ。

 王陽明(王守仁)は、幼児からの神童が一挙にその才能をのばしていったのではなく、苦渋のすえに覚醒していった。それまでは逸脱の道を歩んでいた。有名な著作や大部の書物も残していない。作戦軍略家として音に聞こえ、世間にはその功績が知られる程度で死んでいった。しかし、王陽明を慕う者は多く、その言葉は『伝習録』やさまざまな文集として残る。陸象山とともに、朱子に並び称される。こういう道学者はかつていなかった。旧儒学であれ新儒学であれ、道学者というものはどこかで聖人をめざしており、それを踏み外した者は数かぎりなくいるが、少なくとも名が残った者に、逸脱者などはいなかった。王陽明は、それまでのタイプとは違っていた。陽明の五溺」という有名な言葉がある。「はじめは任侠の習に溺れ、二たびは騎射の習に溺れ、三たびめは辞章の習に溺れ、四たび目は神仙の習に溺れ、五たび目は仏氏の習に溺れ、正徳丙寅、初めて正しく聖賢の学に帰す」、これは『伝習録』に入っている。任侠が好きで、文字習字語彙の遊びに溺れて、神仙タオイズム(道教)や仏教にも惹かれた。このような男が朱子学を覆(くつがえ)したといわれ、陽明学を樹立したといわれ、幕末維新に橋本左内や吉田松陰に、また西郷隆盛や内村鑑三に心服されたのだ。

 陽明は明代の1472年の生まれで、浙江省の余姚(よよう)に出身したので、陽明学のことをしばしば「余姚之学」という。父親が進士に合格したのをきっかけに、少年期は北京に住んだ。高級官僚の御曹司の身分だった。18歳のときに江西の婁一斎をたずねて「宋儒の格物の学」を告げられ、科挙にみる朱子学ではない本物の朱子学に触れるように促された。2度の進士の試験に失敗し、3度目に合格した頃には、明の辺境に韃靼(タタール)が迫っていて、政府はその対策を練れる者を募集していた。陽明はこういうことには燃える。なにしろ任侠にも騎射にもじっとしていられない。そういう面では、高杉や松陰というか、坂本龍馬に似ている。そこで「辺務八事」をまとめて方策を奏上した。雲南の司法官に任命され、諸事激務にあたるが、過労のせいか労咳に罹り、喀血した。それでも陽明は近くの山に道士が伏していると聞けば会いに出かけ、その教えを聞こうとする。教えられた導引の術なども試す。禅僧にも会う。それでいて、道学者でもなく、朱子学者でもなかった。

 正徳元年(1506)、陽明35歳、名君とよばれた孝宗が病没して、幼い武宗が即位した。幼年の武宗のまわりには、八虎とよばれる宦官たちがいた。その頂点に劉瑾がいて、戴銑・薄彦徽らが改革の上奏文を出すと逆に禁固された。そこで陽明が怒って戴銑の解放と劉瑾を弾劾、たちまち投獄され、杖罰四十を受け、気絶してしまう。そして貴州の竜場の駅長という低い職に流される。37歳になっていた。僻地で、言葉を話す者もなく、疫病が蔓延し、掘建て小屋を自分でつくって住むような場所だった。辺鄙で荒涼たる地で『大学』を読み、一気に「格物致知」を会得する。いわゆる「竜場の大悟」であった。陽明は土地の人民の教化にも努める。令名を聞いた者がしばしば陽明を訪れる。陽明は自身の考え方を述べる。それが「知行合一」の説となる。これは理論が生んだ思想ではなく、陽明の日々を集約した思想だった。これを聞いた者たちが弟子を含め、自身がパトロンかつ弟子となって、陽明の講座を開くところが次から次にふえた。朱子の朱子学は理に走った主知主義すぎると明かされていく。また、『伝習録』は魅力もあり、よく読まれた。陽明が竜場にいる間に、劉瑾一派の宦官勢力が衰え、一掃された。陽明は吉安府の知事に任命され、仕事をしながら心を鍛え、明鏡の精神をもつべきことを確信していく。仕事をしながら鍛えるというのは「事上錬磨」とよばれる。「立志して、事上錬磨する」という。立志がなければ稽古もムダになる。できるだけ立志して、そのうえで仕事に就きながら事上錬磨するというもの。陽明は虚禅に陥ることを戒めた。陽明自身には仙人や道士や禅僧めいた雰囲気が漂っていた。陽明が「虚禅」を戒しめたことは、中国儒仏史上のやや複雑な事情もからんでいる。そのひとつに朱子学と仏教の対立がある。たえず「儒先仏後」か「仏先儒後」かで争ってきた。もうひとつ道教が加わって、「道先仏後」や「儒先道後」も取り沙汰され、複雑な融合もしてきた。

 儒仏の対立は積年の宿命のようなもの。明代の朱子学と仏教の対立は特異であった。朱子が排仏思想をもっていたことが大きい。仏門からの反撃が出た。成祖永楽帝の黒衣の宰相といわれた道衍(どうえん)による「仏法不可滅論」や『道余論』は、程子や朱子の遺著から49条を選び、これにことごとく反駁してみせた。これは朱子らが排仏を唱えたことへの復讐に近い。朱子の仏教嫌いは有名だ。もともと中国には「経学」というものがある。経学は四書五経などの古典を、すでに絶対真理性が保証されたものとして学ぶというもので、聖賢の言葉そのものを丸呑みする学習だ。それゆえ経学は、広くは仏教にもあてはまり、天台の徒が法華経を、華厳の徒が華厳経を丸呑みして学ぶのも経学であった。したがって、心学が心三昧を得るためのものであるかぎり、経学とは対立しない。しかし、心学が一心万法を解いて、迷悟消沈の一切を心法とすべきだなどと言いはじめるようになると、経学の権威は下降してくる。このような中国的な心学を歴史上、最初に確立したのが禅だ。禅は、以心伝心・不立文字・教化別伝をモットーにし、経典による知的学習よりも座禅などによる心の安心(あんじん)を求める。これは経学に対立する心学を確保するという姿勢。一人一人が勝手に悟り、心の安定のレベルはまちまちで、なんら一貫性も同質性もない。それが禅というもの。朱子からすれば、これはとんでもないことで、朱子も心は一身が主宰するとは思っているが、禅のようにてんでんばらばらの心があってはたまらない。

 そんなことでは『大学』にいう「明徳・新民・止至善」にもとづく「誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下」は望めない。禅のように各自の禅定に頼れば、修身はともかくも、斉家・治国・平天下もバラバラになっていく。その禅に似たことを陸象山が心学として掲げたので、儒仏は交じりながら交差し、朱陸の論争が始まった。朱子学者たちが口をきわめて禅を罵ったことは、中国宗教史上でも特異なことだった。宋学をややこしくさせたのは後期朱子学が心学や心法をとりこんで、新たな哲学的転回を見せたことだ。「陸王の学」とはそのことを指す。陽明は「虚禅」を排しながらも、その一方では、むしろ「行動する禅」を標榜したかった。それゆえ、陽明はこういう事情と論争のさなかにあっても、仕事をやめなかった。陽明の仕事、すなわち事上錬磨は、45歳からはほとんど地方巡撫だった。都察御史として地方をまわり、軍民をまとめようとする役である。どの地方にも賊や逆賊がいて暴れていた。陽明はこれを分断して討つ。良民と賊との区別をつけるため、十家を一札にまとめ、共同責任を発生させたのが「十家牌法」。「郷約」という地方住民の守るべきコミュニティ・ルールもつくった。

 こんなことをしつつ、陽明は朱子が『大学』にほどこした解釈には問題があることに気がついていく。とくに「新民」の解釈に問題を感じた。民は新しくなるのではなく、もともとそこにいる者たちではないか。「新民」は「親民」であるべきだとして、親しむ民のイメージへの切り替えこそが必要だと感じていく。『大学』では、「新民」と読む以前には「親民」と読むこともあった。陽明は朱子学の聖典である『大学』のテキストを古い『礼記』のテキストに戻し、『古本大学』を刊行する。朱子学派と陽明学派は、二つの『大学』をもつことになる。死を迎えるまでの陽明には決して安寧はない。つねに軍事と思索と講学とに向きあうという事上錬磨の日々であった。“王門の顔回” といわれた徐曰仁が21歳の若さで卒したとき、さすがの陽明も悲嘆落胆し、徐曰仁が陽明の言葉を記録していたノートに、自分のノートを加えて『伝習録』とした。これが現在の『伝習録』上巻だ。陽明は詩を詠んでいた。西郷が読み耽ったというのもよくわかる。書もうまかった。かくて陽明は自身の哲学が「良知」と「知行合一」というものをめざしていたのだという結論に達し、その解説を門人たちに何度も説く。なかでも本体と工夫を離さずに心を前進していくという「本体工夫合一」の説明は快適なものだった。こうして陽明学は仕上がってゆく。その間、陽明自身はついに体系には着手しようともせず、儒者らしくもなかった。

 朱子学と陽明学、二つに共通して鋭く対比されるのは、何にどのように「格る」(いたる)かだ。儒学は已発(いはつ)から未発に向かい、未発から已発に戻って、そのロジックをつくろうとする。朱子は外に向かって窮理に格ろうとし、陽明は内に及んで心幅に格ろうとした。しかも陽明においてはそこに知行合一がある。その内に向かったものが外での行為だ。ここからが陽明学の陽明学らしいところで、それが日本で再生された陽明学の特徴になる。陽明学は内なる心性と外なる動勢を両極におきながら、これを割符のように重ねようとした理論的な欠陥をもつ。それは、陽明学が、いつかは熱狂的な精神的行動主義に転じる可能性を予告していた。陽明学を異様にしていった者たちとは陽明学左派と李卓吾だ。すでに王陽明は死んでいる。陽明学左派は泰州学派ともよばれ、穏健な銭緒山らに対して横流をおこした王竜渓や王心斎らのことだ。二人は二王といわれた。この横流のきっかけは陽明の有名な「無善無悪」の解釈にある。もし、陽明先生が言うように「極端な善もない、極端な悪もない」(無善無悪)というなら、自由に自在に、目の前にある「現成」(ありあわせ)をもって格知をめざし、良知をおこして良いはず、そこには「狂」も入れば、「空」も入れば、「虚」も入る。それらをまとめて「負」とすれば、それらを引き受けることこそが良知であり「現成良知」というもの、これが二王の思想というものだ。このとんでもない発想は何なのか。これこそ陽明学が仏教も道教も平気で呑みこもうとしている姿であり、本来は「孔子の正名」をもってスタートしたはずの儒学に、「荘子の狂言」をも加えることを予兆させる。

 中国陽明学のラストテーゼはこの左派にはとどまらない。李卓吾まで進む。李卓吾(李贅)は、明代が最も爛熟した時期、嘉靖から万暦までの生涯をおくる。生まれた時は陽明が死ぬ1年前なので二人の出会いはない。李卓吾の活動は30歳くらいまで泉州を拠点にしていた。ここは密貿易のセンターであり、回教(イスラム)が公然と動いていた。李卓吾の家が数代前からの回教徒だった。李卓吾自身は王陽明に共感し、良知による知行合一に共鳴し、二王の無善無悪も学んだ。李卓吾は、その良知の根本は「童心」でなければならないとし、李卓吾は更に独創大胆になっていく。李卓吾は二つの奇書を書いている。ひとつは紀伝体による『蔵書』で、これは秦漢以来の歴史を独自に編集した。民生の視点でのみ歴史を記述して、価値観の移転をはかる。男女平等論まで入っている。もうひとつは『焚書』と題されていて、さまざまな様式が混淆している。文芸論も展開されていて、驚くのは『西廂記』や『水滸伝』が四書五経に匹敵する至文だとしていること。それまで民衆文芸は淫邪のもの、盗邪のものと卑しめられていたが、李卓吾はそれらに一気に息吹をあたえ、こうした民衆の動向と慟哭を生き生きと描いたものこそ注目しなければならないという。これは文芸論としても画期的なことで、その後の文芸評価はそのように動く。彼が言いたかったことは「童心」。文芸や儒学や歴史を見るには、絶対に童心が必要で、それこそ真の良知とするべきだと考える。民衆とはその童心の爆発を待っているものなのだと。しかし、李卓吾の著作はすべて異端とみなされ発禁になる。李卓吾はそれ以前からとっくに剃髪して、隠士のような日々を送っていたが、いっこうにその非を認めなかったため、75歳で投獄され、そして、世間の反応があまりにばかばかしいので自決してしまう。

 明朝が滅び、異民族が国を支配する清朝になると、陽明学はすべて弾圧され駆逐されていく。李卓吾が最後の思想の暴徒であった。これらの変移と動向をもった陽明学が、朱子学とともに一緒に日本に徳川開府めがけてやってきた。ここからが日本陽明学になる。陽明学という言葉は中国にはなかった。中国では王学や陸王学。徳川の日本にも陽明学という言い方はない。王学とか「余姚之学」と言った。陽明学という呼び方は、明治後期に井上哲次郎が『日本陽明学派之哲学』を著し、大正期に吉本譲・東敬治・石崎東国らが機関紙『陽明学』を刊行してから定着した。その後、戊戌の新法にかかわり五四運動のきっかけをつくった梁啓超が、陽明学を変革の思想と紹介し、中国にもそういう呼称が入った。梁啓超の役割は重要で、日本から見れば中国人のジャーナリストが日本の幕末維新にふれ、そこに陽明学を“発見”してくれたことになる。中国から見れば日本にかぶれたジャーナリストが本国に陸王学の革命的解釈をもたらしてくれたことになる。

 徳川幕府が林羅山に命じて朱子学を導入した。家康が信長秀吉時代のめまぐるしい政権変動にうんざりして、政治体制の絶対化と幕藩社会のための道徳の確立をはかるため、規範や道徳を儒学に借りたのは、残された手がそこにしかなかったからだ。仏門をほうっておけば一向一揆や本願寺が動き出す。家康は一方で門徒制度で経済的保護を与えつつも、他方で宗門改めや本寺末寺制などによってその勢力を無力化させた。キリシタンではもっと困る。海外侵略さえ招きかねない。これは禁圧するしかなかった。こうして儒学の導入に踏み切るが、これが日本のその後の社会にもたらしたものは、予想をこえて大きいものだった。幕末維新で王政復古がおこったのは、徳川社会に宗教の軸がなくなり、王政(天皇制)へと巧みに移行させたものといえる。伊藤博文が明治憲法のために書いた「起草ノ大綱」には、「我国ニ在テハ宗教ナルモノ、其力微弱ニシテ、一モ国家ノ機軸タルベキモノナシ」とあって、天皇制を擬似宗教化したいという意図がはっきり見えてくる。それほど徳川幕府の宗教政策と儒学導入は大きい意味をもっていたが、そこに導入されたのはいわゆる儒教儒学一般ではなくて、朱子学以降の新儒教・新儒学だった。最初の藤原惺窩は朱子を正統とする朱子学派であったのが、次の林羅山では朱子とともに陸王の学(陸象山と王陽明の学)を同時に入れた。これが日本の近世社会思想をややこしくさせてしまったのだ。
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1 コメント

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現在にも惑わせる歴史的産物ですね。 (H.D)
2016-10-14 09:50:03
陽明学という言葉は中国にはなかった。中国では王学や陸王学。徳川の日本にも陽明学という言い方はない。王学とか「余姚之学」と言った。陽明学という呼び方は、明治後期に井上哲次郎が『日本陽明学派之哲学』を著し、大正期に吉本譲・東敬治・石崎東国らが機関紙『陽明学』を刊行してから定着した。その後、戊戌の新法にかかわり五四運動のきっかけをつくった梁啓超が、陽明学を変革の思想と紹介し、中国にもそういう呼称が入った。日本から見れば中国人のジャーナリストが日本の幕末維新にふれ、そこに陽明学を“発見”してくれた。中国から見れば日本にかぶれたジャーナリストが本国に陸王学の革命的解釈をもたらしてくれたことになる。
変な話ですね。

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