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エッセー・ブックレビュー、ときどき俳句・短歌時評

『教師「ん」とカリン』を読んで――突っ張り型文学少女の命の手触り   

2017-03-08 | ブックレビュー



  『教師「ん」とカリン』を読んで――突っ張り型文学少女の命の手触り    

                                     『教師「ん」とカリン』越村清良(深夜叢書社)

 父の事業の失敗で陥った債務返済地獄によって、両親は離別。母は共同経営者に名を連ねていた為、債鬼たちに追われる立場となってしまう。何もかも失った母と主人公のカリンが、過去のすべてから逃れるように辿り着いたのは、日本海を見下ろす高台に建つ母子保護施設だった。
 知的階級出身の母はその地域と施設の文化的落差に馴染めずしばらく気鬱になってしまうが、幼い少女カリンは自分を取り巻く環境を受け入れて直向きに生きようとする。
 施設で暮す子どもたちが醸し出す雰囲気は「普通」ではない。共通するのは貧困に追い詰められてこの施設に来たという点だが、その子どもたちの多くが、大人の暴力や性的な虐待によって心に深い傷を負っている。
 カリンはその子たちの中で生きる方法として、一種の突っ張りを自然に身に着けていくが、その変化が母を嘆かせ、その母の嘆きが幼いカリンの心に波風を立てる。担任の女教師は母とも心理的な交流をして、カリンの一種独特の頑張り方を認めつつ、そんなに頑張りすぎなくていいと、優しく包んでくれた。それがカリンの唯一の心の救いとなっている。
 そんな暮しが、中学二年生になったカリンの巧みな一人称で語られてゆく。カリンの心の勁さは文才があることである。町の図書館の文学全集を読破した少女なのだ。つまり突っ張り型文学少女ともいえる主人公というわけだが、その造形がこの物語の独特のリズムと魅力を醸し出している。
 カリンは施設のリーダー的存在となり、敦子という無二の親友もでき、カリンを魅了するやや不良ぎみのバスケ少年「捨」と心を通わせる。
 そんなカリンに悪しき世の中が立ち塞がる。
物語は『教師「ん」とカリン』という表題が暗示するように、大人社会を支配し根元から腐敗させる力としての、暴力性と偏狭な教条主義を象徴する中学体育教師と、突っ張り型文学少女カリンとの葛藤、対立へと収斂してゆく。
 童話作家としての私見だが、これは児童文学が描こうとしなかった主題に、元新聞記者で現役の俳人である作家が挑んだ作品だと言えるだろう。
向日性の文学であるという常識に縛られた日本の童話、児童文学界は、少年少女たちと、彼等を取り巻く暴力的で性的な世界を描こうとしてこなかった。既存の童話作家・児童文学者は、作者の姿勢に学ぶべきだ。
 物語は終盤、父の遺品にあった護身用のコルトで、教師「ん」を殺してやると、カリンが思いつめるに至る。主人公がその思いに駆られるまでの過程が文学的にしっかり描かれていて、これを書かずにはいられなかった作者の熱い思いが溢れている。そのこと自身にまず賛辞を述べておきたい。童話界・児童文学界の腰が引けても。
この物語を、主人公カリンと暴力的教師「ん」との葛藤劇だとする読み方は、筋立てとしては外れてはいないが、文学的主題の読み取りとしては的外れである。そんな読み方ではこの小説がただの通俗小説なってしまう。作者はそうならないように、物語の設定と語りに工夫を凝らしている。それが主人公を突っ張りふうに振る舞うしかない状況を受け入れて直向きに生きる文学少女という設定である。
 常識的な固定概念や、競争原理的価値観や、形式的、教条主義的行動原理には批判的な視座を持つ、文才のある少女が主人公で、その対極に位置する価値観と行動原理を持つ教師「ん」を、批判的に描き出してゆく。その表現方法にこの物語の文学的主題が表れている。
 この物語は「自己表出」言語と、「指示表出」言語の対立と闘いという文学的な普遍性を持つ物語である。
 そのことを論じるために、しばらく物語から離れて、物語論の確認をしておきたい。

 人はなぜ、俳句、短歌、詩、物語を創りたい、書きたいと思うのだろうか。つまり文学的表現へと駆り立てられる動機を支える、人間的な心的状況のことである。
その理由はただ一つ、自分を取り巻く社会のあらゆる言語表現と、自分の思いの間に齟齬が生じてしまうからである。社会の中にあって、個としての「私」は通常の言葉ではいい表し難い思いを抱えてしまう。それをどうにか言葉として表現したいと思うから、俳句、短歌、詩、物語を書きたいと思うのだ。
このときの、「自分を取り巻く社会のあらゆる言語表現」というのが「指示表出」言語であり、「個としての私の、通常の言葉ではいい表し難い思いを表すのが「自己表出」言語だ。この概念、用語は吉本隆明の芸術言語論に倣った言い方である。
 論文や報道文から、日常の用件的会話文に至るまでの、理屈で成り立っている文が「指示表出」言語とその世界である。一方、人の内面に発生する屈託、情緒などの表明を主とする俳句、短歌、詩、物語、随筆などが「自己表出」言語とその世界である。
「指示表出」言語とその世界は、非人称的な形式の世界であり、教条主義的で人の精神に軋轢を生じさせる傾向がある。そこからの精神の真の解放は「自己表出」言語とその世界によってしか行えない、というのが吉本隆明の芸術言語論の根底にある考え方である。
「指示表出」言語と「自己表出」言語の決定的な違いは、表現をしている主体に「自己」があるかないかである。
 「指示表出」言語にとって、何かを述べてるいる自分よりも、述べている内容の客観性、論理的整合性の方が大事である。平たく言えば、そのことを述べている者には「自己」はなく空っぽでもいいのだ。一方の「自己表出」言語はそのことを述べる当たって、確かな「自己」を必要とする。

 私が『教師「ん」とカリン』という小説を、文学的な普遍性を持つ「自己表出」言語と、「指示表出」言語の対立と闘いの物語であると述べたのは、そういう意味である。
 この物語は中学二年生の少女が書いているという設定である。
 「自己表出」言語派の主人公の「語り」はこうだ。

 あたしは小五の頃からとにかく本が好きだった。生水先生などは、「唐仁原さんは活字中毒だ。」と言って笑うほどで、町の図書館にある文学全集を片っ端から読んでいる最中でもあった。三島由紀夫が出たついでに言えば、『仮面の告白』の書き出しの、「永いあひだ、私は自分が生まれたときの光景を見たことがあると言ひ張ってゐた。」に痺れ、あたしにもそんなことはないかと、母に出産のときの模様を根掘り葉掘り聞いていたくらいなのである。残念ながら、あたしには三歳くらいまでの記憶は何一つなく、やはりあたしは三島由紀夫ではなかったが……。


 何しろ作文コンクールで最優秀賞を取ってしまうほどの文才なのだ。複数の人物が絡む場面のテンポのいい生き生きとした文章や、自然描写の美しさには舌を巻く。(楽屋落ち的に言えば、それは元新聞記者で俳人でもあるこの物語の作者である越村氏の表現力の豊かさでもあるが)
 主人公の前に立ち塞がるのが、指示表出派の教師「ん」である。他の登場人物が固有名詞で書かれている中で、この教師だけが、日本語の五十音表の末尾の音「ん」で呼ばれる。主人公はこの男から、他の音と繋がって単語となり言葉になる資格を奪い取っているのだ。
ここにも端的に「自己表出」言語派カリンによる、「指示表出」言語派教師「ん」への、精神的自由を求めた闘争の構図が鮮やかに仕掛けられている。
 教師「ん」については次のように表現されている。

「ん」って、一体何者だろう。これはのちに、母と仲のいい生水先生から聞いたのだが、――生水先生は、先生が中学一年生のとき、偶然にも「ん」とおなじクラスだったことがあるのであるーー県都に生まれた「ん」は厳格な教育一家に育ち、国立××大学の学長にまでなった父親への反発から、バスケットボールにのめり込んだのだそうである。「ん」が体育の教師になったときには、父親に「体育? 体操? わが家は経済学の家系だ。一家の恥だ。」とまで言われ、これを聞いた生水先生の同窓生たちの方が逆に、「ん」に同情するほどだった。生水先生に言わせれば、そのあたりから生まれたコンプレックスが、「ん」の根底にはあって、ひねくれてしまった精神が今度は、権威主義と結び付くらしかった。あたしなどは、体育の先生でなにが悪い、みんなに好かれる体育の教師なら御の字じゃないか、あたしたちから見れば十分幸せなんだぞ、と思うのだが、「ん」は独善! でもあって、その凝り固まって他を顧みない生き方には、だれももう手が付けられないのだった。生徒はもちろん、校長や体育以外の先生にも姿勢を正させ、それでほくそ笑んでいる「ん」。なにやってんだ、とあたしは叫びたい。が、そんなことよりなにより、その捌け口を、あたしたち弱い立場の者に向けられては、あたしたちが困るのである。


 学歴社会、競争社会では少数の勝者と膨大な敗者という社会構図を生み出し、この世を絶対多数の「敗者」的コンプレックスを抱えた者たちが生きる社会にしてしまい、その連鎖を増大させるばかりだ。他との競争が存立条件の中で生きる者は、価値基準が自分の外の世界、他人と社会の方にあり、自分の中に自分独自の信念や価値基準を育て損なう。つまり自分がないのだ。
「ひねくれてしまった精神が今度は、権威主義と結び付く」とカリンが正しく指摘する如く、自分というものがない者は自分の外にある価値、つまり権威にしか頼るものがない。かくして、社会のあらゆる所で権威主義が猛威を振るうことになっていくのだ。
 とくに学校という閉鎖部落社会では、権威主義の虜になるのは教師であり、その犠牲者は幼い子どもたちである。本来なら童話、児童文学こそ、そのことを文学的主題にまで高めて描く責任があるはずだ。だが今の童話、児童文学作品に登場するのは「いい先生と生徒、親たち」の感動物語ばかりである。
この物語はその空白を埋める文学である。
 作者は学校という窒息しそうな閉鎖空間で起こる、自分の中に健全な「自己」を育み損ねた権威主義的教師と、今まさに自己を確立しようとている繊細な過渡期の生徒間に頻発しているが表沙汰にならない、子どもたちの受難劇を、文学的に描き切っている。
 それが可能だったのは、作者が物語に仕組んだ「自己表出」言語と「指示表出」言語の相克という巧みな設定のせいだ。
 教師「ん」がカリンを目の敵にするのは、自分の「自己」の無さと、生意気に自己主張するカリンが不愉快な存在に感じるためだ。かくして「ん」は、カリンに対してさまざまな心理的圧力をかける。
 そして、カリンが好意を寄せている「捨」少年、無二の親友敦子、担任の先生、母も巻き込む形で物語は「決着」とは言えない結末を迎える。
 「決着」とは言えないと感じているのは主人公カリンと、彼女の心に寄り添う読者の心である。
 この物語がこういう形で一応終わっても、教師「ん」的な、「自己喪失症」的で権威主義的な心の怪物たちはこの社会に遍在し、カリンがこれから出てゆく社会に立ち塞がり続けるだろうということを、この少女は知ってしまった。
 だから「自己表出」言語派のカリンの闘いに、終わりはない。
 読者は読者で、現実の自分が生きている社会で、今まさに教師「ん」的な、社会の巨大な病と直面し対峙している最中であることを自覚させられる。
 こうして読者の私たちは、この物語から差し出された文学的主題を受け取ってしまう。
 そうであるからには、読者の私たちもまた「自己表出」言語派の一人として、そのことから目を逸らすことは出来ない。
 そのようにして、物語は現実の私たちの精神に書きこまれ、継続する。
 それを暗示するように、この物語は次の一文で閉じられている。カリンは日頃、憧憬をもって眺めていたパラグライダー(カリンが、かつて作文の題材にしたパラグライダーに纏わるエピソードは例えようもなく美しい)に乗って、北陸の山河を飛翔したいと願い、「日本海に向かって翔べ」と胸の中で叫ぶ。

 そのときは、捨のぼろアパートも墓標のように見えて、あちしの眼球をなみだでけむらせるだろう。

 その涙にはおそらくこう書きこまれているだろう。
「あちしは自分の痛みなんかで泣きはしない。この社会でまっとうに生きられなくなっている魂たちのためにしか、もう、あちしは決して泣きはしない」
 こうして、「自己表出」言語と、「指示表出」言語の対立と闘いの物語は終わる。
 カリンの未来と、読者の現在の健闘を祈るかのように。
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