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表現という伽藍に打ち込む実存の楔 ――大湯邦代歌集『玻璃の伽藍』を読んで

2017-07-13 | ブックレビュー



表現という伽藍に打ち込む実存の楔――大湯邦代歌集『玻璃の伽藍』を読んで


   『玻璃の伽藍』大湯邦代歌集 (コールサック社2017年6月30日刊)

歌集巻末の依田仁美氏の解説によれば、この歌集は二十年前刊行されたものが「新規に再上梓」されたものだという。大湯氏の「錬成の時代」の産物で、「相当の評価を得た」「黄金時代の結晶」と位置づけられる歌集だという。収録された解説文の変更と装丁を新たにした「再上梓」の意義は、「詩的自我の普遍性・一貫性の検証」であろうと依田氏は評している。だとするならば、読者としての依田氏が「見極めなければならないのは表現者としての大湯邦代一代の『不易と流行』である」として、依田氏が大湯氏の「不易」として読み取ったのは、「求道する心」であると述べている。表現という伽藍、殿堂に挑み、つぎつぎと飛行する言葉に「黄金の銃弾を撃つ」「華麗にして真剣な闘争なのだ」と。
この解説の抜粋だけでも、この歌集の価値と、大湯氏の表現が志向する世界を、読者はおおよそ把握できるだろう。解説文中、依田氏は作者である大湯氏の表現に対峙する姿勢を述べた次の言葉を引用している。
「詠むことは慰藉ではなく、心を映すに足りる短歌を創り出そうとする努力」であり、そのために、「五感を研ぎ澄まし、あらゆるものを吸収して、より構成的な短歌作品を創作する方向におもむかねばなりませんでした」   
本人の言葉通り、収められた短歌作品は「構成的」であり、「五感を研ぎ澄まし、あらゆるものを吸収」する意志をもって肉薄し描き出した対象に、喩としての自分の命と精神を凝縮させる表現がなされている。
その表現手法を依田氏は次のように評している。
「視野の前方にとらえた具象を、短歌に昇華させてゆくプロセスの中には、じつにしばしば、明らかな『濃縮』がある。捕らえた対象を、ときには遠心分離機に掛け、ときに煮詰める。/疾駆は視野を狭め、搾り込むものだと、ここでアナロジーを強めてもよい」
歌集巻頭に置かれた次の短歌は、まさにそのことを象徴するような作品である。

待つという時間(とき)の真白さわが柵(ませ)に追いつめてゆくシャガールの馬
 
命、つまり存在とは真っ新な「待つという時間」のただ中に投げ入れられた何かである。その何かが何であるかを問わない限り、その「時間」の外に出ることはない。歌を詠むということは何かを問うという行為である。

待ちまちてただ待つのみの一生とも一夜さ玻璃に狂う粉雪

「待つ」ことから「問い」「追いつめてゆく」行為への転換を開始した者は「一夜さ玻璃に狂う粉雪」なって舞い踊る他はない。
 そして巻末を締め括るのは次の歌である。

早春(はる)の月水銀色(みずがねいろ)に炎えたてりわが柵(ませ)を発てシャガールの馬

この歌人にとって「待つという時間」は、まだ未完成である「わが柵」という命の領土、「私」という固有の魂の在処に「おいつめて」行っている「シャガールの馬」という何かを掴もうとしている「時間」であった。歌人は最後までその「何」かを限定解題してみせることはなく、それは読者一人ひとりの解読に預けられる。それをなんと読み解こうか。読者の一人として私は表現者が追い求めて止まぬ「詩の真実」と解することにしたい。その証左として次の歌の存在を揚げておこう。

われがわれを行き処なきまで追いつめて彷徨(さまよ)い歩く金木犀(もくせい)の闇

「私」という存在の謎を問い、追い詰めることが「詩の真実」への求道そのものだからだ。
その「詩の真実」である「シャーガールの馬」が、結びの歌では、「発て」と、完成の域に達した「わが柵」から解放されようとしているのだ。
何故か。それは、かつて「待つという時間」の中にいた歌人が、その求道の果ての「早春の月」に「水銀色に炎え」たつものを自在に幻視する境地に達したからだと解したい。
二十年前に上梓された同名の歌集は、このような自己の表現の位置の宣言だったのであり、この度の新装再上梓の同名の歌集は、依田氏が読み解いたように「詩的自我の普遍性・一貫性の検証」だったのである。
全編を疾走感が貫く歌集である。疾駆する表現主体にとって上下左右という側面は、高速で流れ去る景色と化し、次々と「私」を取り囲んでは瞬時に過去と化すのみである。日本の和歌的情緒は、その流れ去るあらゆるものたちに無常観と諦念と「あはれ」の美学を詠むことに執着してきた永い歴史を持つが、この歌人はその歴史もろとも高速で薙ぎ倒し、加速し、振り切るように疾駆する。
そんな歌人が見据えているのは前方のみであり、どんなに振り払っても心身に沁み込み結晶化して、視界を彩り始める異次元の景であり、歌人にとって大切なのはその言葉化以外の何ものでもない。それは「歌を詠む」という次元を超える。歌人としての魂の在り方、生き方そのものであり、それは和歌的伝統の境涯詠の姿を纏うことはない。疾走しつつ言葉を紡ぐ歌人はその言葉の在り方自身に、自己の魂の在り方と表現の方法論を刻んでゆく。全編がその方法論で貫かれている。

地獄よりなお底深き現世(うつしよ)のうすら日和を彷徨うとんぼ

孤児のごとクレーン一基空(くう)にありて炎ゆる畢(おわ)りを鋭角に刺す

「現世」が「地獄より底深」く感じられるのは、歌人の魂が異次元の景を幻視するからだ。「彷徨うとんぼ」に仮託される「私」にとって、日常は常に「うすら日和」である。「私」という「クレーン」に「孤児」のような寂しさを付与し、「炎ゆる畢りを鋭角に刺す」のも、この空の薄皮を焼き尽くして異次元に広がる「詩の真実」を出現させたいからである。

アルファ星ひかり零せよ裸樹の秀(ほ)に不死鳥がいま孵りそむ

「アルファ星」とは夜空で最も輝きの強い星である。これは夜という精神の世界の光であり「詩の力」の喩である。その光が照らすのは「裸樹」の「秀」である。俳句では「裸木」は冬の季語であり、冬になって落葉を終えた樹木というのならまだ生きている樹だが、俳句では主に枯木の意味合いで使われることが多い。つまり命尽きた樹であり、その外形が人目につきやすく突き出ている「秀」が、その先で温め続けていた卵から「不死鳥が孵りそ」めている。つまりそれを促しているのが最輝星の光である。日常の現実世界に依存した思考が排除された幻視の世界である。ただのファンタジーではないことは、精神の世界の光が、現世では死と見做されるものたちの蘇りを促している表現の構図が仕掛けられていることを観れば明白である。大湯氏の短歌が精神歌であると同時に、表現方法論の歌でもあると先述したのはこのことでもある。

ありなしの風に揺れたつ春紫苑(はるじおん)花びら色にいち人は在り

キーポイントは「いち人は在り」という実存の在り様。そしてあるかないかという微風によって、揺れるかどうかの個の在り方が仕分けられる。「花びら色」もそれぞれ固有の生と死の形だろう。

真白なる木馬よ回れ加速せよ円(まど)かな月へ真夜を発つべし

いくら「加速」しても舞台装置のように固定された「木馬」は「真夜」に飛び立つことは不可能である。だが目指す地点が「円かな月へ」となれば次元が違ってくる。「木馬」に与えられた回転運動は放物線状に働く遠心力ではなく、求心的に「円」の内側へ無限螺旋状に作用する力だろう。「真白なる木馬」が歌人の精神の喩である証である。

かぎろいに綾なす花の数知れず藤はふじ色われはわが彩

藤の紫は日本的階級色中の最貴色であり、それを象徴して戴く日本の国民色ではないか。その集団としての「ふじ色」は「かぎろいに綾なす花」の中で、自分を疑うことは決してないだろう。だが何色とは言わずただ「わが彩」と言う歌人は、自分自身の色を決定しない存在の疑いのただ中に佇んでいる。それは次の歌にも刻印されている。

詰め行けばこの世は無彩色(むさい)クレー描く「未完の天使」われに近しき

 「未完」故の「無彩色」の中に立つ者にしか「詩の真実」は捉えることはできない。

灼かれたるジャングル・ジムよシーソーよ貪る夢は影ばかりなる

「木馬」の歌もそうだったが、ここにも公園に固定された遊具たちが、表現の疾走感の根拠としての閉塞感として表現されている。繋がれた遊具たちは本来、夢など見はしないのだ。だが歌人はそれでも「影ばかり」のような夢を貪らせて止まない。

藍清める穹の底方(そこい)へ漕ぎいだすわれを乗せないガラスの小舟

この歌人にとって蒼穹は底を持つ海原である。その海原に乗り出すには「ガラスの小舟」という思惟の渡航機が必要だが、この歌人の「小舟」は未完である。

いくたりの戀のかばねも埋め来しわが湿原にいちりんの紅(こう)

失恋は心がするものであり、それは相手から言い出す別れだったり、自分からの訣別宣言だったりする。それは多用な「かばね」となって精神に豊かな腐葉土を積み上げる。そんな「湿原」にしか咲かない「いちりんの紅」を歌人は幻視する。日本和歌史上を彩った「失恋歌」の伝統的情感が、決して持ち得なかった思惟の「紅」が、現代短歌という韻律に置かれている。

雪や積む終焉(おわり)まぢかき母の邊に時間(とき)無きごとき夜を頒ちぬ

「時間無きごとき夜を頒ち」合えるのは、おそらく女性の母子関係においてのみだろう。男性は死という「終焉」の時空でも、他者と何かを「頒ち」合うことはない存在ではないか。女性にそれが可能なのは、母は他者でなく、内なるもう一人の自分だからだ。伝統的和歌の抒情表現ではそれは絆として謳われるところだろう。ここでは「時間無きごとき夜」という永遠性に繋ぎ止められた、現代的な生の位相の中に置き直されている。

裏庭の杭に仔犬を繋ぎたりそれよりコンパス北を示さず

何かに繋がれているのは「私」だけではない。「私」が何かをどこかに繋いでしまうこともある。繋がれたものはその瞬間から世界という方位を喪失するが、「私」の「コンパス」も「北を示さず」僅かな狂いが生じてしまうのだ。そんな悲劇が起こるのはたいてい「裏庭」という閉じた時空である。この歌には対をなす次の歌がある。
ビル街に遠吠え響かう秋の夜半 狂い始めるわれの羅針盤(コンパス)
狂いを生じるのは外なる羅針盤だけではない。内なる「回路」も誤差を示し始める。

春までき夜を烈しく風は響(な)りわれの回路を狂わせてゆく

羅針盤や回路の狂いこそが歌人の「詩の真実」を追い求める異次元の指針となってゆくのだ。

他界よりわが名を呼べる父かとも窓押し開ける水無月寒し

娘にとって母がフィジカルな存在であるように、父は言葉というメタフィジカルな存在なのだろう。その父という存在の喪失は、だから「わが名を呼べる」言葉の気配、距離感で把握される。母的世界の「窓押し開けて」、父的水無月の観念世界に対峙するとき、娘は底なしの寒さを実感するのかも知れない。

潮満つる沖の幽(くら)みに動かざる一灯の青し ノアの方舟

「ノアの方舟」神話は人間という存在の根源的不安を象徴しているような気がする。神は命の揺り籠である広大な海と大地を設え給うたが、その揺り籠自身が、頼り無げに明滅する「一灯」のような、閉じられた命の喩である「方舟」なのだ。

わが虚(うろ)をひたひた満たせ朱き月昇りて川の水位の上がる

存在は「いま、ここ」に繋がれた「虚」である。「虚」を形成する骨格と外皮なくしては存在し得ない。その空虚感を満たすには、幻視する「朱き月」の力を借りて、「川の水位」を上げることを夢想する他はない。

憂うより論ずるよりも確かなる生知らしめる焼き鳥の照り

存在は「いま、ここ」に繋がれた「虚」であることには間違いはないが、この歌の「焼き鳥の照り」のように、確かな存在感を持って私たちに迫るものがある。それは非言語的エロスである。「憂うより論ずるよりも確かな」というのは、論理的な言葉では、追い詰めることができないという事を意味する。和歌的「憂い」や、世に溢れるロジック言語ではない、非言語的な現代歌でなければ、「詩の真実」を追い詰めることはできない。

いつしらにシテと彷徨う月の浜能の果つるも海響りやまず

能は日本的な「悼み」の古典芸能である。主に旅の僧侶役である「ワキ」が通りかかった場所で、二役を演じる「シテ」によって幽玄体験をするという構成になっている。「ワキ」の前に現れる「シテ」によって、その地はある人が強い思いを残して亡くなった場所であることを告げられる。その後、天候が急変して「ワキ」は先に進めなくなり、そこで一夜を明かすことになる。そこに再び「シテ」が現れ、先に語った話の霊が憑依して、(あるいは霊自身が現れてと言ってもいいが) 思いを語り舞うという芸能であり、この世に思いを残して亡くなった死者を「悼む」芸能である。そんな能の知識があれば、この歌に余計な解釈は無用だろう。

風にさえ在り処告げぬを月の夜は遠隔操作にわれを変えゆく

歌人の自己変革は未完である。他からの余計な矯正圧力を拒むように「風にさえ在り処告げぬ」状態である。歌人を内側から変え得る力は「月の夜」、「遠隔操作」のように「われ」統御する力だけである。

間断なく言葉クレーと放たるる 弾込めて撃つたそがれの森

解説の依田氏もこの歌を引いて、表現という伽藍、殿堂に挑み、つぎつぎと飛行する言葉に「黄金の銃弾を撃つ」「華麗にして真剣な闘争なのだ」という見事な解題をした典拠としている。さながら言葉狩り的闘争の修羅場を見る思いである。

ひさかたの光およばぬ深海に潜む生命を未来と言わむ

手垢のついた流通言語はいらない。歌人は言葉誕生以前の生命の歴史をご破算にして、出会い直そうとしている。「光およばぬ深海」に新たに萌え出でようとしている「生命を未来」と命名しようと志向する。それは次の歌の人間の「劫火」の意識と表裏をなしている。

わが祖(おや)は泥と水とうこの躬(み)をばプロメティウスの火が統べやまず

プロメティウスが、天上世界のものだった火を盗んで人間に齎したというギリシャ神話がある。話の発端は人間とゼウスが食糧問題で争っていた時代のことである。その争いの調停に乗り出したのがプロメティウスであり、人間を勝たせてしまったことでゼウスの怒りを買い、ゼウスは人間に必要なものすべてを奪ってしまう。丸裸にされた人間のために天に昇り、天上の火を一本のウイキョウの芯に移して盗み出して人間に授けてしまう。人間はその火をもって暖をとり、肉を焼き野獣を追い払って生き延びていくことができるようになったという神話である。原発事故禍以降、「文明」という「天上の火」を手にしてしまった人間の不幸の象徴として「プロメティウスの火」という言葉が使われることがあった。この歌もその認識を抱え込んでいる。だが歌集の中の一つの歌としての表現なので、読者はその火に「文明」の中の「言葉」を受け取ってしまうのだ。
次の歌にも表現という行為に対峙する歌人の精神世界の喩を読み取らずにはいられない。

明けやらぬ喪に喪を重ねうつそ身は限りなき櫻花(はな)の亡きがらを受く

表現の闘いの中で数限りなく葬り去った「言葉」たちの「喪」に服し続けているという意識が歌人にはあるのだろう。「今、ここ」での最良の言葉を得たと思った瞬間、それはすぐ「櫻花の亡きがら」のように自分の腕の中に横たわっているのを見るばかりである。闘いに終焉の時が訪れることはない。
終わりのない闘いに今にも斃れそうになりながらも、

咲きこぞる櫻花に思いを残しつつゆくえも知らぬ坂くだり初む

と闘いの継続をなおも志向し、

早春(はる)の月水銀色(みずがねいろ)に炎えたてりわが柵(ませ)を発てシャガールの馬

と自らをさらなる異次元への旅へと鼓舞して止まない。
 この歌集の再上梓の意義は、この地点こそが未だに継続されている歌人の現在位置であることの表明であるに違いない。




※作者名の「大湯邦代」の「邦」の字は左の偏の上部が突き出ていない字だが、ワープロにはない字体なので「邦」と表記させていただいた。

  
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