日本キリスト教富谷教会 礼拝説教 辺見宗邦牧師

辺見宗邦牧師が富谷教会で行う礼拝説教を随時アップしてまいります。
毎週日曜日か、前日の土曜日に掲載いたします。

「天国に市民権を持つ者」 フィリピの信徒への手紙3章7~21節

2016-10-16 13:13:14 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403                                     十月十日に、富谷町は富谷市になりました、仙台市の北隣の市です。

日本キリスト教 富 谷 教 会

    週    報

 聖霊降臨節第22主日   2016年10月16日(日)午後5時~5時50分

   礼 拝 順 序

前 奏            奏楽 辺見トモ子姉

 讃美歌(21) 521(とらえたまえ、われらを)

交読詩編   34(どのようなときも、わたしは主をたたえ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書 フィリピの信徒への手紙3章7~21節(新p.364)

説  教   「天国に市民権を持つ者」  辺見宗邦牧師

祈 祷                

聖餐式    78(わが主よ、ここに集い)

讃美歌(21) 528(あなたの道を)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

               次週礼拝 10月23日(日) 午後5時~5時50分

               聖書 箴言8章1節、22節~31節

               説教    「創造」

               讃美歌(21)6 233 24 交読詩編 130篇

本日の聖書 フィリピの信徒への手紙3章7~21節

7しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。8そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、9キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。10わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、11何とかして死者の中からの復活に達したいのです。12わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。13兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、14神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。15だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。16いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。17兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。18何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。19彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。20しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。21キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。

   本日の説教

 パウロがフィリピの信徒へ手紙を書き送った主な理由は、獄中でフィリピ教会の人々から贈り物を受けたことに対する感謝を伝えることにありました。また、捕縛されている自分の近況を報告するためでした。さらに、フィリピ教会の一部の人々が「反対者たち」(1:28)の影響を受けてへりくだりの心を失い、教会の一致を乱し始めていた(2:1~18)ことも関係しています。

 このフィリピ教会を脅かした敵対者たちは、アブラハムの子孫であることを誇り、割礼や律法を重視しました。そして彼らは、割礼、律法を順守することによって、すでに完全なものとなっていると考え、すでに終末は来て終わっていると主張し、救いの出来事としてのキリストの十字架を否定しました。パウロは彼らを「(悪い)働き人(3:2)、「へブル人」(3:5)と称しています。彼らはユダヤ人キリスト教徒の巡回伝道者と思われます。

 フィリピ書の3章1節からは、パウロの敵対者に対する論争的な陳述に入ります。

 「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。」(3:2~3節)

 パウロは<肉に頼る>生き方を拒否しています。<肉>と言う言葉でパウロは何を考えているのでしょう。5、6節で明らかになるように、それはユダヤ人としての」宗教的特権であり、またそれに応える宗教的熱心です。信仰と関係のない人々が誇りとするような世俗的優越は、ここでは直接問題にはなっていません。むしろ、一人の人間が信仰生活を送るに当たって、普通もっとも頼りになると思われる事柄が、肉という言葉で表現されているのです。神を信じ、しかも同時に自分の宗教的特権や信仰の熱心に救いの保証を求めようとすることは、結局<肉に信頼する>ことにほかならないのです。神以外のものに信頼を寄せる信仰は、信仰ではないのです。人間に属する一切のものに頼ることをせず、ひたすら神にのみ望みを託するキリスト者こそが、約束の民、真のイスラエルであることをパウロは主張するのです。

 4~6節は、パウロ自身が他の人以上に肉にも信頼できる立場にあることを述べます。<肉に頼れると思う人がいるなら>語り始めます。彼が、肉に信頼する生き方も信仰者にとって可能な生き方として是認しているわけではありません。

 パウロの肉の誇りは、全部で六項目にわたっています。このうち初めの三つは、彼が自分の努力なしに受けた宗教的特権です。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。」

 後の三つは、かつての彼の宗教的熱心に関するものです。「律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」

 パウロは純粋なユダヤ人である自分の生まれを誇り、教養と律法学者としての実践に自信をもっていました。しかし、それらのことによっては、真の平安も、生きている喜びも得られなかったのです。

 パウロは、キリストを知る以前には、頼りになっていたものを、今では一切を捨てた、それらを損と思い、ちりあくたのように思うと語るのです。「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」(8節)のゆえにと、それらを捨てたと、その理由を述べています。

 自分の名誉のみを求めていたパウロにとって、人々のために仕え、ついにはその生命さえささげてくださったイエス・キリストを知ったことは、彼の生そのものを根底から揺り動かす大きな出会いの出来事でした。そして彼はそれまでに頼りにしていた一切を捨てて惜しくないと語り、人間を頼みとすることから神を頼みとする新しい人生へと方向を変えたのです。しかもその新しい歩みは、キリストに捕らえられ、守られ、導かれる生なので、彼は喜びと感謝をもって前のものに全身を向けて歩み続けたのです。

 それは、「キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」(8、9節)と語ります。

 <すべてのものをふん土と考える>のは、将来キリストを完全に得るためであり、キリストの内にあること、すなわちキリストと共にあることの完成が将来にあると、パウロは語ります。これは、パウロの敵対者たちが、キリストを得て完全になったとか、完全に「キリストのうちにある」と主張したことに、パウロは反論しているのです。

「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」(9節b)

<律法から生じる自分の義とは、律法を行うことによって実現する神との正しい関係です。フィリピの教会の敵対者たちは、キリスト教徒でありながら、神との正しい関係は律法のわざによっても実現されるとしていました。これは結局はキリストによる恵みの救いの行為に対する反抗であり、結局は自己を誇ろうとする現れなのです。

<キリストによる信仰による義>とは、キリストの出来事を神の恵みによる救いの行為として信じることにより、恵みとして神との正しい関係が得られることを意味しています。パウロがどんなに律法を守り、善行を積んでも得られなかった真の救いを、ただイエス・キリストを救い主と信じる信仰によって得ることができたのです。パウロの敵対者たちは、人間の側で神を排除し、また恵みを無視してつくり出す<律法のわざ>による義を主張したのです。それに対して、パウロは<信仰>に基ずく義を個人的に告白したのです。

 「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(10、11節)

 敵対者たちは、律法順守と割礼によってすでに完全に「キリストの復活の力」にあずかっていると言い張り、霊的に復活した「完全なもの」として、苦難や死の問題にはまったく無関心でした。

 これに対してパウロは、<キリストの復活の力>にあずかることも、<キリストの苦難にあずかる>ことも、現在にかかわっていることではあるが、<復活の力を知ること>の将来における実現と、<復活の力>にあずかるかとは、<キリストの苦難にあずかる>ことによってはじめて現実化すると主張します。

現在キリストの苦難にあずかって、キリストの死とあやかりながら、死からの復活という将来におけるキリストの栄光への参与への希望が語られています。

 「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」(12節)

 敵対者たちは、救いに必要な賜物を<得た>との自覚から<完全な者>であることを誇りました。そして彼らの影響を受けたフィリピの教会の人々も完全な救いに到達していると主張し、自分たちを<完全な者>と自称しました。そこでパウロは、彼らに対して「既に完全な者となっているわけでもありません」と語りました。まだ終末の栄光に到達していないこと、そこへの途上を前進していることを伝えたのです。

 <何とかして捕らえようと努めているのです>と、目指す目標は定かであるが、完走することができるかどうか、また<賞与>(14節)を与えられるかどうかは自明のことではないと語っています。追い求める理由として、パウロはダマスコでの回心の時にキリストに恵みによって捕らえられたことを述べます。

 「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」(13節)と競技者のイメージを用いつつ、走ることを唯一の課題としてこれに総力を傾注している有様を強調しています。

パウロは、兄弟たちと呼びかけ、わたし、パウロは「目標を目ざして走っている」と語ります。確実な目当てを目指しての疾走であることを語ります。

神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(14節)

 ここで言われいる<上への召し>は、おそらく「賞与」ではなく、かつて神が彼の回心の時にキリストを通して実現した神の召しを指すと思われます。しかし、パウロにとっては、召されたことは直ちに完全にされたということではありません。むしろ<召し>は、将来実現されるであろう完全な救いの約束への召しであり、<上への召し>でした。パウロは<召し>が約束する賞与、「完全な救い」を目指して走る生活へと招かれたのです。パウロは彼自身の信仰生活を、賞与を目指して走る競技者になぞらえて語っています。

 パウロは、「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多い」こと、「彼らの行き着くところは滅び」であり、「彼らは…この世のことしか考えて」いないことを言明します。パウロは敵対者たちに対して、「わたしたちの本国は天にあります。」と反駁(はんばく)します。「そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、…わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(18~21節)

 わたしたちは、天に備えられている救いに終わりの時にあずかることを待望しつつ地上において旅人、寄留者として生きているのです。再臨に際して復活のキリストが、「わたしたちの卑しい体>、死に定められた人間存在そのものを、死を克服した神的存在である主イエス・キリストの復活の栄光のからだと同じかたち変えられることを明らかにしています。キリストとの霊的合一ではなく、地上的存在の継続でもなく、からだの復活を明らかにしています。

 主イエスの十字架の死と復活にあずかって、新しい命に生きている私たちは、終わりの日の復活の命、永遠の命に共に与ることを、聖霊によって保証されているのです。

わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として霊を与えてくださったのです。」(コリント二、5:5)

 私たちは、死後どうなるのか分からないのではありません。明らかな希望を与えられているのです。

 

 

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