日本キリスト教富谷教会 礼拝説教 辺見宗邦牧師

辺見宗邦牧師が富谷教会で行う礼拝説教を随時アップしてまいります。
毎週日曜日か、前日の土曜日に掲載いたします。

「堕落―むなしい偶像崇拝と活ける神」 イザヤ書44章6~17節

2016-10-27 23:11:47 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

  日本キリスト教 富 谷 教 会

    週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を現す人になろう。』

聖句「神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

   降誕前第8主日    2016年10月30日(日)  午後5時~5時50分

    礼 拝 順 序

前 奏            奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)   2(聖なるみ神は)

交読詩編     115(わたしたちではなく、主よ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳)イザヤ書44章6~17節(旧p.1133)

説  教   「堕落―むなしい偶像礼拝と活ける神」  辺見宗邦牧師

祈 祷                

讃美歌(21) 436(十字架の血に)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

                次週礼拝 11月6日(日) 午後5時~5時50分

                聖書    創世記13章1~18節

                説教    「神の民の選び」

                讃美歌(21)151 504 24 交読詩編 105篇

本日の聖書 イザヤ書44章6~17節

6イスラエルの王である主、イスラエルを贖う万軍の主はこう言われる。わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。7だれか、わたしに並ぶ者がいるなら声をあげ、発言し、わたしと競ってみよ。わたしがとこしえの民としるしを定めた日から、来るべきことにいたるまでを告げてみよ。8恐れるな、おびえるな。既にわたしはあなたに聞かせ、告げてきたではないか。あなたたちはわたしの証人ではないか。わたしをおいて神があろうか、岩があろうか。わたしはそれを知らない。9偶像を形づくる者は皆、無力で、彼らが慕うものも役に立たない。彼ら自身が証人だ。見ることも、知ることもなく、恥を受ける。10無力な神を造り、役に立たない偶像を鋳る者はすべて、11「その仲間と共に恥を受ける。職人も皆、人間にすぎず、皆集まって立ち、恐れ、恥を受ける。12鉄工は金槌と炭火を使って仕事をする。槌でたたいて形を造り、強い腕を振るって働くが、飢えれば力も減り、水を飲まなければ疲れる。13木工は寸法を計り、石筆で図を描き、のみで削り、コンパスで図を描き、人の形に似せ、人間の美しさに似せて作り、神殿に置く。14彼は林の中で力を尽くし、樅を切り、柏や樫の木を選び、また、樅の木を植え、雨が育てるのを待つ。15木は薪になるもの。人はその一部を取って体を温め、一部を燃やしてパンを焼き、その木で神を造ってそれにひれ伏し、木像に仕立ててそれを拝むのか。16また、木材の半分を燃やして火にし、肉を食べようとしてその半分の上であぶり、食べ飽きて身が温まると、「ああ、温かい、炎が見える」などと言う。17残りの木で神を、自分のための偶像を造り、ひれ伏して拝み、祈って言う。「お救いください、あなたはわたしの神」と。

  本日の説教

  イザヤ書は66章までありますが、一人の預言者の預言書ではありません。年代が違う三人の預言者の書とされています。全体の表題は最初に活動した預言者イザヤの名がつけられていますが、他の預言者の名は知られていません。

   1章から39章までが、紀元前739年~700年に活動したイザヤの予言であり、40章から55章までは、前546年~538年に活動した第二イザヤ(著者の名前が伝えられていないので仮称で呼ばれています)予言であり、56章から66章までが、前539年~441年に活動した第三イザヤ(仮称)の予言です。

   最初のイザヤは、北王国の首都サマリアがアッシリア帝国によって陥落し、北イスラエル王国が滅亡(前721年)した時期に、南ユダ王国の首都エルサレムで活動した預言者です。

   エルサレムは紀元前597年にバビロニア帝国の攻撃で陥落し、ユダ王国は586年に滅亡しました。民の多くは捕囚民として三度にわたってバビロンに連行され抑留(よくりゅう)生活を送りました。

   第二イザヤは、紀元前539年にペルシア王キュロスがバビロンを占領する直前から活動を始めました。最初の捕囚から数えて59年後、キュロスによって捕囚から解放されたユダヤ人の帰還(前538年)が始まりました。第二イザヤはその先頭に立った人物です。最初のイザヤと第二イザヤの間は、190年もの開きがあります。第二イザヤの予言は、審判よりも慰め、励ましが強調されています。それが「慰めよ、わたしの民を慰めよ」(40:1)で始まる主のことばの予言よっても明らかです。その予言には、キュロス王によるユダヤ人の解放の予言とエルサレムの復興が繰返し語られています。また、いわゆる「主の僕の歌」(42、49、50、53章)があり、主の僕による世界伝道の思想が意義深く歌われています。第二イザヤは、イスラエルが世界に対して神よりの一つの使命をになう国民であることが強く打ち出されています。

  第三イザヤは、第二イザヤの弟子であった人物と考えられています。第三イザヤは第二イザヤの思想を受け継ぎ、来るべき神の国、シオンの栄光に心躍りつつも(60章)、帰還後次々と経験する醜悪な現実からくる幻滅に対処しなければなりませんでした。そこでは慰めよりは戒め、勧告の調子が強くなります。しかし最後には、新天新地の創造によって神の国が実現し、神殿さえも不要になる日を描いてい、新約の黙示録を彷彿させます。第三イザヤのほとんどの予言は捕囚から解放された後の時代に属し、第二神殿再建(前515年)前後の予言と、その後の祭儀の慣習が堕落したことに関する予言です。第三イザヤの予言は紀元前6世紀半ばから5世紀後半に至るさまざまな時代を背景にしているので、複数の著者によるものと考えられています。

 イザヤ書の全体(66章)は恐らく、紀元前四世紀の半ば頃(紀元前350年頃)にいたってようやく完了したと考えられています。 

  人が罪に陥ることを、「堕落」という言葉で言い表します。聖書では、人間が造り主なる神を認めようとしない罪の状態にあることを指しています。聖書で言う「罪」は、必ずしも「犯罪」を意味しません。「神を神としないで、自分が神の如く生きよう」とする「的外れ」を指しています。

  イザヤ書44章9節からは、偶像を作り、拝む人が描かれています。堕落した人間が、造り主の代わりに造られた物を拝んで仕えたのです。ちなみに偶像というと、石や木を削って作り出した像をイメージします。しかし本来の「偶像」の意味は、信仰の対象とする神仏をかたどった像だけを意味するのではありません。自分の心にある「むさぼり」、「貪欲」(コロサイ3:5)、自分の欲望の実現を 優先させることが偶像崇拝なのです。結局は、活ける神に仕えず、自分を誇り、自分自身を神とすることが偶像崇拝なのです。

  今日の聖書の箇所44章は、「バビロン」の地で「偶像」崇拝の「空しさ」を攻撃した第二イザヤの予言です。偶像製作の生き生きとした描写の背景には、捕囚のバビロンの地で異教の祭儀がかもし出す圧倒的な雰囲気の中で生きなければならなかったユダヤ人たちの苦悩がありました。国を滅ぼされた民は「私たちの神よりバビロンの神のほうが強い」として偶像神マルドゥク(ヘブライ語ではベル、ネボはその子)信仰に走る者もいました。けれども、彼らは自分たちの主が唯一の神であることを思い起こす中で、偶像とは何であるかを示されるのです。

  44章6~8節は、主が諸国民ないしその神々と争う法廷論争ですが、典型的な論争(41:1)ではなく、救済を告げる使者(預言者)の言葉として語られます。神は法廷の裁判長であり、バビロンを含めた諸国民は被告です。イスラエルの民は、活ける神を証する証人です。

 イスラエル王である主、イスラエルを贖う万軍の主はこう言われる。わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。」(44:6)

  <万軍の主>は、天と地にある、あらゆるものにまさる神をたたえる神の称号で、歴史を支配する神の威厳を表わす呼び名です。<わたしをおいて神はない>は、唯一(ゆいいつ)神(しん)の信仰の表明です。

  ヤハウェ(ヤーウェとも表記します)、主なる神、イスラエルの契約の神。イスラエルの王、イスラエルの生と運命とを支配する神。イスラエルをあがなう者、それはイスラエルを束縛と抑圧から、昔も今も、未来においても、解放する神です。万軍の主、それは、世界にあまねく満ちわたり、天の高さにまで達する神です。初めであり、終わりである神、それは永遠の神です。この神以外に神と呼ばれる方はいません。

  「だれか、わたしに並ぶ者がいるなら声をあげ、発言し、わたしと競ってみよ。わたしがとこしえの民としるしを定めた日から、来るべきことにいたるまでを告げてみよ。」(44:7)

  唯一神に対抗する神々がいるかを問うています。過去から将来に至る歴史を告知する能力が神々にあるかを問うています。契約の民、イスラエルにのみ神は歴史の主として、ご自身を現しました。イスラエルを導いていく神です。その時々の出来事を、神はそのしもべである預言者たちに知らせ、完成へと到らせます。神のみが語り、宣言します。ほかの神々は語りません。昔からそうでした。そして「やがて成るべき事を告げる」のも、この神です。ヤハウェのみが神です。

  「恐れるな、おびえるな。既にわたしはあなたに聞かせ、告げてきたではないか。あなたたちはわたしの証人ではないか。わたしをおいて神があろうか、岩があろうか。わたしはそれを知らない。」(44:8)

  「恐れるな、おびえるな」と二重の励ましを証人であるイスラエルに与えます。「あなたがたはわたしの証人ではないか」というのは、イスラエルは神の証人となるように召されたということです。それ故、イスラエルは、神の本性についても、世界での神の働きや目的についても証ししなければなりません。とりわけ、ヤハウェのみが神であることを告げねばなりません。神が「岩」にたとえられているのは、堅固な岩のように、神がその民に対して変わることのない誠実をもち、しかも全く独立していて、ゆらぐことなき神を、この岩は表しています。「わたしはそれを知らない」は、そのような神が他にあることをわたしは知らない、の意です。

 偶像を形づくる者は皆、無力で、彼らが慕うものも役に立たない。彼ら自身が証人だ。見ることも、知ることもなく、恥を受ける。」(44:9)

  偶像崇拝に対する嘲笑歌です。偶像を作る者は人間にすぎず、恥をかくと言います。<彼ら自身が証人だ>は、偶像を礼拝する者たちを、偶像の証人と呼んでいます。これはすぐ前の節にイスラエルをヤハウェの証人と呼んだことと対比されています。第二イザヤではイスラエルは繰り返しヤハウェの証人と呼ばれ、ヤハウェの真実と義とを法廷で証言すべきものとされています。<見ることも、知ることもなく、恥を受ける>とは、イスラエルはヤハウェのみわざを見て、真の神を知っているはずであるが、偶像崇拝者たちは自分でこしらえた偶像のむなしさを理解しないので、結局恥を受けることになる、の意味です。

 無力な神を造り、役に立たない偶像を鋳る者はすべて、その仲間と共に恥を受ける。職人も皆、人間にすぎず、皆集まって立ち、恐れ、恥を受ける。」(44:10、11)

 「その仲間」とは、細工師の仲間ではなく、偶像崇拝者たちを指します。神を作ろうとする者が、実は人間に外ならず、法廷の場面で、偶像の側の証人は真の神の証明に失敗します。そのような無知蒙昧(もうまい)(愚かで道理に暗い)なこしらえ物が、真に力のある神の前に全く無力であることが暴露されます。それを拝んでいた者が嘲りにさらされることが<恥を受ける>ことに外なりません。

 鉄工は金槌と炭火を使って仕事をする。槌でたたいて形を造り、強い腕を振るって働くが、飢えれば力も減り、水を飲まなければ疲れる。木工は寸法を計り、石筆で図を描き、のみで削り、コンパスで図を描き、人の形に似せ、人間の美しさに似せて作り、神殿に置く。」(44:12、13)

  ここでは偶像を作る作業について、鉄と木の細工師の知識と技術を詳細に記述しています。当時の技術の最高水準を駆使する様子を描いています。「炭火を使って」は、鋳(い)物(もの)を作る工程を指します。「飢えれば力も減り、…疲れる」は、人間に力の限界を示します。真の創造者であるヤハウェの力と根本的に違うことを皮肉っています。しかもその作った偶像はそのような人間の似た像に過ぎません。

  彼は林の中で力を尽くし、樅(もみ)を切り、柏(かしわ)や樫(かし)の木を選び、また、樅の木を植え、雨が育てるのを待つ。木は薪になるもの。人はその一部を取って体を温め、一部を燃やしてパンを焼き、その木で神を造ってそれにひれ伏し、木像に仕立ててそれを拝むのか。また、木材の半分を燃やして火にし、肉を食べようとしてその半分の上であぶり、食べ飽きて身が温まると、『ああ、温かい、炎が見える』などと言う。残りの木で神を、自分のための偶像を造り、ひれ伏して拝み、祈って言う。『お救いください、あなたはわたしの神』と。」(44:14~17)

  偶像の材料は木材です。その木を植え、育て、準備するのは人です。「それは薪(まき)になるもの」とは、用意した木の用途は燃料であり、木は暖房と料理に使われます。そのような木で神を作り、それに向かって祈りがささげられます。祈りの内容そのものが真面目であればあるほど、それが木材で造ったものに向かってささげられることが、おかしく、こっけいになります。

  この嘲笑歌は、偶像そのものを批判するのではなく、偶像を作り拝む人間を風刺しています。それも激しい表現で攻撃し批判するのではなく、「神」を自ら作り拝む過程を詳細に描き出すことを通しておのずから愚かさ、おかしさが浮かび上がってくるようにしています。偶像は神ではなく、人間の作ったものに過ぎないからです。それゆえ、偶像により頼む者は恥をうけなければなりません。

  「国々の偶像は金銀にすぎず、人間の手が造ったもの。口があっても話せず目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかぐことができない。手があってもつかめず、足があっても歩けず、喉があっても声を出せない。」と詩編115篇でも歌われいます。

  以上のような偶像攻撃に対しては、次のような反論があり得ると思われます。すなわち、偶像崇拝者は何も偶像そのものを神としているのではない。神の象徴として拝しているのだ、と。しかし、活ける真の神は見えない神であり。いかなる像も造ってはならないし、いかなるものの形も造ってはならないのです。(申命記5:7、8)

 『まことにあなたは御自分を隠される神、イスラエルの神よ、あなたは救いを与えられる』と。」(45:15)

  「自らを隠す神」、すなわち「隠れた神」とは、「真実の神」は見えない神であるということです。その姿は人間の目には見えません。この見えない神は不思議を行う力のある神です。この隠れた神は罪を審く神であり、赦し、救いを与えられる神です。預言者の人格を通して語られる神です。目には見えないけれども、現にここに臨在される霊なる神です。あなたと呼びかけてくださる愛の神であり、憐れみの神であり、赦し救う神です。隠れた神であるだけでなく、私たちと共にいてくださる神です。活ける神として私たちの願いに応えてくださる神です。

  主はこう言われます。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。……わたしこそ主、わたしの前に神は造られず、わたしの後にも存在しないことを。わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はいない。」(43:1b~2b、10b~11)

  4章22節では、「わたしはあなたの背きを雲のように、罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った。」と主なる神は宣言します。

  主なる神、父なる神のふところにおられた独り子である神が全人類の罪を贖うためにこの世に誕生されたことは、天地がひっくり返るような驚天動地の出来事です。罪と死に支配されていた地に属する人間が、イエス・キリストの誕生と十字架の贖いによる救いにより、罪と死の支配から解放され、復活を経て、永遠の命をもつ霊の体へと変えられ、天に属する人へとされることが明らかになりました。実に福音はユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力なのです。

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