日本キリスト教富谷教会 礼拝説教 辺見宗邦牧師

辺見宗邦牧師が富谷教会で行う礼拝説教を随時アップしてまいります。
毎週日曜日か、前日の土曜日に掲載いたします。

「教会における祈り」 テモテへの手紙一、2章1節~10節

2017-07-14 15:04:28 | キリスト教

  ↑ The Adoration of the Name of Jesus/イエスの御名の礼拝by El Greco/エル・グレコ(1541-1614) National Gallery, London
   画面上部には罪無き人々を天上へと導く天使、画面下部左には救済を求める人類、後ろでは神へ祈りを捧げる預言者。画面下部右には地獄へと落とされる罪人。画像上の、十字に「IHS(JHS)」の文字はラテン語で「Jesus Hominum Salvator(人類の救い主、イエス)」と、イエスが救済者であることを示す

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

      日本キリスト教 富 谷 教 会    週 報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

     聖霊降臨節第7主日 2017年7月16日(日)  午後5時~5時50分

      礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 495(しずけき祈りの)

交読詩編  143(主よ、わたしの祈りを)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳) テモテへの手紙一、2章1節~10節(p.385)

説  教    「教会における祈り」        辺見宗邦牧師

祈 祷         

讃美歌   492(み神をたたえる心こそは)

聖餐式    72(まごごろもて)

献 金   

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

                               次週礼拝 7月23日(日)  午後5時~5時50分

                                    聖書  使徒言行録19章13節~20節

                                    説教   「生活の刷新」

                                    讃美歌(21)454 455 24 交読詩編119

   本日の聖書 テモテへの手紙一、2章1節~8節 

1そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。2王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。3これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。4神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。5神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。6この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。7わたしは、その証しのために宣教者また使徒として、すなわち異邦人に信仰と真理を説く教師として任命されたのです。わたしは真実を語っており、偽りは言っていません。8だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ることです。9同じように、婦人はつつましい身なりをし、慎みと貞淑をもって身を飾るべきであり、髪を編んだり、金や真珠や高価な着物を身に着けたりしてはなりません。10むしろ、善い業で身を飾るのが、神を敬うと公言する婦人にふさわしいことです。

本日の説教

 「テモテへの手紙一」の差出人は1章1節の挨拶にあるように、使徒パウロとあります。使徒パウロの書とされているのは、新約聖書の目次によると、「ロ―マの信徒への手紙」から「フィレモンへの手紙」に至る13通の手紙です。

 しかしながら、パウロ本人が執筆した可能性が高いと判断されている手紙は7つの手紙です。①ローマ、②コリント一、③二、④ガラテヤ、⑤フィリピ、⑥テサロニケ一、⑦フィレモン、の7つです。他の6つの手紙は、「パウロの名による手紙」で、パウロの名を用いて出されたもので、パウロの真正な手紙と比べると、使徒言行録の記録や、語彙や時代背景などの違いがあるからです。しかし、パウロの信仰や福音理解と一致しているところから正典として認められている書であり、聖書のみことばであることには変わりありません。(現代聖書注解、「テモテへの手紙1,2、テトスへの手紙」の著者T.C.オーデンは、パウロがローマで二度と投獄されたという推論を支持し、牧会書簡はパウロの真正の書簡と見做しています。「もし、パウロによるものでなけば、牧会書簡は、パウロに絶対に忠実で、パウロの言葉遣いと精神に完全に染まった信奉者だと自らをみなした人物により記されたのである」とも述べています。P.36~44参照)

 「テモテへの手紙一」、「テモテへの手紙二」と「テトスへの手紙」の三通は、「牧会書簡」と呼ばれています。他の手紙は教会宛てに書かれているのに対して、この三通は、個々の牧会者に宛てられており、牧会者としての働きを指導するために書かれたものだからです。パウロの伝記的な個人的記述があります。牧会書簡はパウロの投獄、殉教以後の変化した状況、再臨への期待が薄らぎ、異端の脅威の増大の中におかれたパウロの伝統に立つ教会の文書です。牧会書簡は二世紀初期の著作で、エフェソを含む小アジアで成立したと推定されています。

 「テモテへの手紙一」の宛先人のテモテは、パウロの弟子であり、パウロの伝道旅行の同行者であり、また宣教の同労者でもあります。パウロはテモテを、「わたしの愛する子で、主において忠実な者であり、至るところのすべての教会でわたしが教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれているわたしに生き方を、あなたがたに思い起させることでしよう」(コリント一、4・17)と紹介しています。テモテは宣教と指導の務めを託されてパウロのもとから諸教会に派遣されています(テサロニケへ[テサロニケ一、3・2]、フィリピへ[フィリピ2・19~24]、コリントへ[コリント一、4・16~17])。

  「テモテの手紙一」の執筆の目的は、「わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています。行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける教会です」(3・14~15)と明確に述べられています。

 「テモテの手紙一」の1章3~4節によると、パウロはエフェソを離れてマケドニヤ州へ出発するときに、テモテをエフェソに残し、異端に対処するように命じたと書かれています。しかし、このような事情はパウロの真正の手紙にも、使徒言行録にも記されていません。これはパウロの使徒的権威をこの手紙に与えるための文学的手法であろうと思われます。

 1章3節以下11節までは、福音と異なる教え(異端)についての警告です。律法と福音を区別しています。12節から17節までは、パウロの回心と使徒としての召命について語られ、イエスにおいて現された神の絶大な愛の証です。キリストへの感謝で始まり、神への頌栄で終わっています。18節から19節にかけては、テモテに対し、異端から教会を守る戦いの中で、任職の時の預言を支えとし、教会的信仰と正しい良心とを持って、雄々しく戦いなさいと命じています。20節の「ヒメナイとアレクサンドロ」の二人は、牧会書簡成立時に活動していた異端グル―プの指導的人物であったと考えられます。彼らの処罰はパウロの名により使徒的権威をもって行われました。

 2章1節から3章6節には、著者の重視する教会の秩序の維持にたいする、テモテによって代表される教会指導者たちに対する教会指導の手引きです。最初にすべての人のための祈り(1節)、次に支配者たちのための祈り(2節)が勧められています。3~7節は、1節の勧めの根拠を示します。教会は内外から圧迫されて厳しい状況に置かれても、この世に対して閉鎖的でも妥協的でもなく、開かれていなければなりません。それは礼拝においてすべての人のための祈りとなって表されます。祈りについて基本的な勧めがなされた後に細かい具体的な注意が与えられます(8~15節)。男女別々に扱われているのは、教会の集まりにおける役割と危険がそれぞれ異なるとの考えからです。

 「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。」(1節)

 「まず第一に」とあるように、教会の集まりにおける祈りは、すべての人のための祈りが最も重要であることが示されています。なぜなら、御子はすべての人のために捧げられたからです。願いは教会の人たちの必要のためだけではなく、世界のため、人類のあらゆる事項と状態のためにも捧げられるのです。祈りは願いであり、執り成しであり、与えられた祝福のために感謝をささげることです。

王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。」(2節)

  神への願いはすべての人々のために捧げられるのであるから、とりわけ、行政に携わる人々のためになされます。なぜなら、彼らは他者の生活を左右する強い権力を持つからです。支配者が誤っている時でさえ、教会は、「悪人を善人に変えていただくように」神に祈るのです。なぜ教会は、国家が正義に支えられて平和であるように祈るのでしょうか。それは。つねに信心と品位を保ち、平穏で、落ち着いた生活を過ごすためです。

これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。 神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」(3,4節)

  すべての人々のための祈りはすべての人間を救わんとする神のみこころに適うことです。

 「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。」(5,6節)

  神の唯一性と並んで、人となられた仲保者キリストの唯一性が告白されています。これは根本的な信仰告白です。「すべての人の贖いとして」は、「すべての人に真の自由を得させるために」の意味です。キリストはすべての人のために死ぬことにより、すべての人の救いを望んでいる神の御心を証ししました。

 「わたしは、その証しのために宣教者また使徒として、すなわち異邦人に信仰と真理を説く教師として任命されたのです。わたしは真実を語っており、偽りは言っていません。」(7節)

 パウロが異邦人への宣教者、使徒としてキリストから任命されたことは、すべての人を救う神の意志を示し、すべての人のための祈りの必要性をいっそう明らかにします。パウロは最後に自己の発言が真実であることを断言します。これは異邦人の使徒としてのパウロの身分を強調するための著者の文学的手法と見做されます。

 「だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ることです。」(8節)

 祈りの主題に戻ります。男は教会の集まりで祈るときは怒りや争いを捨てなければなりません。人を赦すことなしには祈りは出来ません。立って両手を上げて祈るのが当時一般の姿勢でした。教会のどの集まりにおいても、そのように祈るべきことを勧めています。

同じように、婦人はつつましい身なりをし、慎みと貞淑をもって身を飾るべきであり、髪を編んだり、金や真珠や高価な着物を身に着けたりしてはなりません。むしろ、善い業で身を飾るのが、神を敬うと公言する婦人にふさわしいことです。」(9,10節)

 男性は怒らず、祈るべきであり、女性は飾り気なしに祈らなければなりません。パウロが、男性に一番求められている、と考えた祈りの種類は、信頼と相互配慮において他者に手を差しのべようとする祈りです。女性に一番求められていると考えた祈りの種類は、善い業を活発に現す祈りです。この聖句は、身体を飾ることに関する女性への教訓ではありません。なぜなら、男性、女性を問わず、人に一番ふさわしい装飾は信仰に根ざす愛の業だからです。パウロは何がなんでも一切の宝石や素晴らしい服装を禁じたのではありません。むしろ、彼は、言葉の上では悔い改めて神の前に出ているように見せかけているが、自らの日常生活全体の自己表現を通して、その悔い改めの形跡を示そうとしない偽善と闘ったのです。彼は浪費や虚飾と闘ったのです。つつましい身なり提唱は、エフェソの女性グループ(5・13)の豪華に着飾りたいという虚飾という深刻な問題との関連でなされたのです。華美な装飾は男を刺激して礼拝の空気を乱すのです。

 牧会書簡には、このような今日の教会のわたしたちにも語りかける基調な神の言葉がもられているのです。

 

ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 「主にある共同生活」 使徒... | トップ | 「生活の刷新」 使徒言行録19... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

キリスト教」カテゴリの最新記事

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL