981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403
日本キリスト教 富 谷 教 会 週 報
年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」
聖句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)
降誕節第5主日 2018年1月28日(日) 午後5時~5時50分
礼 拝 順 序
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 517(神の民よ)
交読詩編 126(主がシオンの捕らわれ人を)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
聖 書(新共同訳) マルコによる福音書4章1~9節(新p.67)
説 教 「教えるキリスト」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌 56(主よ、いのちのパンをさき)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 2月4日(日) 午後5時~5時50分
聖書 マルコによる福音書2章1~12節
説教題 「癒すキリスト」
讃美歌(21)149 436 24 交読詩編147篇
本日の聖書 マルコによる福音書4章1~9節
4:1イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。2イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。3「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。4蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。5ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。6しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。7ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。8また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」9そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。
本日の説教
「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。」(4・1)
<再び湖のほとりで教え始められた>とありますが、再びとは、3章7節~12節のことを指しています。次のようにしるされています。
「イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。」(3・7~12)
再び湖のほとりで教え始めると、前回の時と同じように大勢の群衆が集まってきたのです。それで群衆に押しつぶされないように、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖畔いる群集に教えたのです。
「イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。」(4・2)
マルコによる福音書は、イエスの教えよりも、イエスの行動について記すところが多いが、それでも全体の約16パーセントはたとえの話になっています(マタイは43%、ルカは52%)。イエスがたとえを語る目的は、第一に、深い霊的な真理を自然界や人間の日常の生活経験との比較において示し、理解し易くするためです。第二に、聞く者をして、深く考えさせ、行動に導くためであったと考えられます。
「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。」(3~7節)
パレスチナでは、冬が雨季で、夏が乾季であるため、雨季の前の冬まきと雨季に続いてまく夏まきがあります。十一月から十二月にまかれる冬まきのものには小麦、大麦等があり、夏まきのものには、豆や米、瓜等があります。種を蒔く人はできるだけ広く種がまかれるように腕を広げてまいたようです。したがって種は<道端>や<石だらけ>の所や<茨>の中にも落ちます。
<ある種>は、原語では単数形なので、一粒の種を意味しています。<道端>は畑の中の足で踏み固められた細い道です。その道端に落ちた一粒の種は鳥がきて食べてしまいました。
<石だらけの所>とは地表のすぐ下に岩があって土が浅い所です。そこに落ちた一粒に種は、土が浅いのですぐ芽を出したが、日が昇ると熱で焼けて枯れてしまいました。
<茨>は、「あざみ」のような一般にとげのある雑草です。そこにまかれた種と一緒に芽を出すが、発育が早いため、育った作物の上に覆いかぶさってしまいます。作物は日陰になってしまい実を結びませんでした。
「また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」(8節)
<ほかの種>は、複数形で表されています。ほかの種は土の肥えた良い土地に落ち、発芽し、成長して、たくさん実をつけました。ある一粒の種は三十倍に、ある一粒の種は六十倍に、百倍にもなりました。
六十倍、百倍というのは誇張した表現なのでしょうか。稲作の場合、一粒のタネもみが一本の苗になります。田んぼに植えるときには、5本くらいの苗を一株にして植えます。1株は「くき」が増えて、5本だったのが秋には25本くらいになります。つまり、いなほが25本実ります。1本のいなほには、品種によって違うのですが、だいたい70粒くらいつきます。一粒のタネが、一本の苗になり、くきが増えて5本になり、1本に70粒の実がつくと、なんと350倍、茶碗一杯分になるのです。六十倍、百倍は誇張した表現ではありません。
「そして、『聞く耳のある者は聞きなさい』と言われた。」(9節)
イエスの言葉を聞く者は、注意深く耳を傾けて聞けと、聞く人の注意を喚起しています。イエスのたとえ話の真意をつかむことは、必ずしも容易でないことが言われています。
この譬えは、一体どんなことを教えているのでしょう。
一粒の種が路上に落ちた。また一粒が岩地に、そしてもう一粒が茨の中に落ちた。これらはどれも実を結ばなかった。しかし大部分の種は良い地に落ちて、驚くばかりの収穫をもたらした。イエスが語られたこのたとえ話が、イエスの福音を伝道する弟子達を慰め、激励するためのものであれば。これは伝道についてのたとえ話ということになります。
また、せっかく聞いた種にたとえられている価値ある教えも、鳥に食べられた種のように、すぐ失われてしまったのでは意味をなしません。岩地にこぼれた種のように、聞いた当座は感激しても、すぐ冷えるような、信仰の根がはっていない人も、いつかは枯れてしまいます。茨の中に落ちた種のように、世のもろもろの思いに負けてしまうと、実りません。良い地に蒔かれた種とは、神の言葉を受け入れ、これに従い、これを行う人たちです。このように解釈すると、このたとえ話は福音を聞く人の責任の重大性を強調する譬え話になります。
4章13~20節で述べられてる「種を蒔く人の」のたとえの説明の部分は、本来のたとえの部分(3=8節)とは異なり、初代教会の迫害の経験や言葉が用いられています。教会は独自の経験からイエスのたとえを寓話的に解釈し、新し状況に適用しました。それが編集者によってマルコによる福音書に付加したものと思われています。それで、今日の「種を蒔く人」のたとえは、教会の説明とは切り離して、その譬えの意味をさぐらなければなりません。
この譬え話は、イエスが「神の国」について語られたものであることは明白です。福音書記者マルコは、1章15節でイエスの宣べ伝えた福音の内容を<時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい>と非常に短く要約したのち、教え(1・21-22)、宣教し(1・38-39)、御言葉を語る(2・2)イエスの活動について記してきたが、その特別の内容ついては言及しませんでした。神の国という言葉も1・15で使われただけです。4章においてようやくその語が現れます(4・11)。種についての三つのたとえのうち「成長する種」のたとえ(26-29節)と「からし種」のたとえ(30-32節)は神の国のたとえです(26、30節)。「種を蒔く人」のたとえ(2-8節)には神の国という語は現れないが、そのたとえとの関連で述べられている、たとえを用いて話す理由では<神の国の秘密>が扱われています(11節)。したがってマルコはこのたとえをも神の国のたとえとして提示してしているのです。
「成長する種」のたとえでは、イエスは次のように語っています。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」(4・26~29)
また、「からし種」のたとえでは、イエスは次のように言っています。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」(4・30~32)
これら二つの神の国の譬えも、今日の「種を蒔く人」の譬えも、神の国の真理について語ったものであることが分かります。イエスの宣教において神の国が臨んでいる。その様な事態(秘密)を比喩で語るのが「種を蒔く人の譬」なのです。
ここでは、種は福音、神の言葉であり、これを蒔く者は、イエス・キリストです。ここに記されている四通りの土地は、イエスに対する態度ということになります。神の聖なる支配、すなわち神の国は、この歴史の中に来臨しました。しかしイエスに対する人間の態度は、頑固であり、無関心であって、容易に彼を受け入れ、聞き従おうとはしません。それゆえ、イエスは「聞く耳のある者は聞きなさい」と厳粛に警告しました。
「種を蒔く人」のたとえ話は、神の国の宣教の中で、人々の拒絶を前にしてもひるむことなく、熟練した農夫が収穫の喜びを胸に秘めて種を蒔くように、喜んで宣教に励むイエスの姿を表しています。また、神への信頼に基ずく希望に生きるイエスの姿を伝えています。幾多の困難にもかかわらず、イエスの伝道はすでに豊かな収穫をもたらしています。福音は自然の生命力に勝る神の力です。豊かな収穫とは、多くの人がキリストの救いにあずかり、神の子等とされ、永遠の命を与えられることです。このたとえは、神の支配は前進し、神の収穫は期待を越えて大きいのだから、何事にも失望することなく、神を信じ、信仰を持ちつづけないと教えています。
「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」(詩篇126・5-6)
この種蒔く人の姿は、イエス御自身の姿です。イエスによる神の国の宣教は、イエスの霊が多くの伝道者や信徒たちに働き、今日も世界に進展し、救いの恵みをもたらしています。
kamagra - http://cialis-generic.us.com
viagra
get health insurance 613ucpm
cialis at walmart - http://cialiswalmartotc.com
generic cialis
health department website for winston salem forsyth county 723rwla