日本キリスト教富谷教会 礼拝説教 辺見宗邦牧師

辺見宗邦牧師が富谷教会で行う礼拝説教を随時アップしてまいります。
毎週日曜日か、前日の土曜日に掲載いたします。

 「宣教への派遣」  使徒言行録9章26節~31節

2017-08-12 21:00:26 | キリスト教

  ↑  Nicolas Bernard Lepicie(1733~1784)フランスの画家の「聖パウロの回心」

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

    日本キリスト教 富 谷 教 会     週  報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句 「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

 聖霊降臨節第11主日   2017年8月13日(日)   午後5時~5時50分

      礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 402(いともとうとき)

交読詩編   71(主よ、みもとに身を寄せます)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳)  使徒言行録9章26節~31節(p.231)

説  教      「宣教への派遣」  辺見宗邦牧師

祈 祷         

讃美歌   567(ナルドの香油)

献 金   

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷          

後 奏  

               次週礼拝 8月20日(日)  午後5時~5時50分

                聖書  使徒言行録20章17節~35節

                説教   「苦難の共同体」

                讃美歌(21)218 474 24 交読詩編 57

   本日の聖書 使徒言行録9章26節~31節

 26サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。28それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。29また、ギリシア語を話すユダヤ人と語り、議論もしたが、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。30それを知った兄弟たちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスへ出発させた。31こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。

     本日の説教

 パウロは、紀元5年頃、古代ローマの属州キリキアの州都タルソス(今のトルコ中南部メルスィン県のタルソス)生まれのユダヤ人で、ユダヤ名(ヘブライ語)はサウロであり、ラテン名は「パウロ」です(ギリシャ語形の呼び名はパウロス)。はじめはイエスの信を迫害していたが、復活のイエスに出会う体験をして回心し、使徒として召されて、キリスト教発展の基礎を作りました。

「使徒言行録」によれば異邦人伝道のため、3回の伝道旅行を行ったのち、エルサレムで捕縛され、裁判のためローマに送られました。伝承によれば皇帝ネロのとき紀元60年頃にローマで殉教したとされています。

新約聖書中にパウロを著者とする手紙13通が正典として選ばれています。パウロの職業はテント職人で、生まれつきのローマ市民権保持者でした。

 彼は、ベニヤミン族のユダヤ、もともとファリサイ派に属し、エルサレムにて高名なラビであるガマリエル1世のもとで学びました。パウロは熱心なユダヤ教徒の立場から、初めはキリスト教徒を迫害していました。

 若者であったサウロは、ステファノに石を投げつけた人々の衣服を見張ったいた男でした。彼はステファノの殺害に賛成していたばかりか、教会に激しい迫害を加えていました。「サウロは家から家へと押し入って教会を荒し、男女を問わず引き出して牢に送って」(8・3)いました。

 サウロの迫害はエルサレムに限定されず、ダマスコにまで及びます。サウロはなおも、大祭司から添書(信者を捕らえ)をもらい、<この道>(ユダヤ人が嘲笑してキリスト教信仰に与えた名)に従う者(なわちキリスト教徒を見つけ次第、男女の別なくしばりあげて、エルサレムに連行するために殺害の息をはずませながらダマスコ(現在のシリアの首都ダマスカス)の町を目指していました。町に近づいた時、突然、天から光がさして、彼の回りを照らしました。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル(アラム語の名)、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞きました。「なぜ、わたしを迫害するのか」という問いは、復活のキリストと彼の弟子たちとの密接な関係を強調しています。主に従う者を迫害することは、主を迫害することなのです。サウロは、神の敵と見做している人々を迫害しているつもりなのです。

 「主よ(「先生」の意味)、あなたはどなたですか」というと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町へ入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」という答えがありました。「同行していたサウロの仲間たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立って」いました。サウロは無力になり、目を開けるが何も見ることができませんでした。彼は手を引かれてダマスコに連れて行かれました。そして三日間、食べることも飲むこともできませんでした。

 ダマスコにアナニアというキリスト教徒がいました。幻の中で主がアナニアに呼びかけ、「立って、<直線通り>と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の者を訪ねよ」と言われました。アナニアは驚いてしまいました。というのは、サウロの名はキリスト教徒の迫害者としてひろく知れわたっていたからです。すると主は、「行け。あの者は異邦人や王たち、またイスラエルの子たちにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼の示そう」と主は言われました。

 そこでアナニアは出掛けて行って、サウロのために祈るとサウロは、目から鱗のようなものが落ちて、目が見えるようになりました。サウロは癒され、聖霊を受けます。サウロの回心は、彼が洗礼を受け、教会の食事(聖餐?)を受けたときに完成します。回心は恵み深い慈愛に満ちた神との出会いの結果によるものです。

 この経験は「サウロの回心」といわれ、紀元33年頃のこととされています。パウロが30歳頃に起きた出来事です。主イエスの十字架の死と復活は紀元30年頃とされているので、サウロの回心はその三年後のことになります。

 サウロは、数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいて、あちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えました。これを聞いた人々は皆、非常に驚いて、「あれは、エルサレムでキリスト教徒を滅ぼしていた男ではないか。ここへやって来たのも捕らえて連行するためではなかったか」と言いました。しかし、サウロはますます力を得て、イエスがメシアであることを説き、ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせました。

 ユダヤ人の多くは、先祖から伝えられている律法を守ることによって義とされ、神の前に出るにふさわしい資格が与えられるものと考えていました。回心前のパウロも同様でした。しかし、今やパウロにとって、真の神は、人間の功績や修養によって人々を義とするのではなく、罪深い人間を、神の一方的な恵み、御子キリストの十字架の贖いと復活によって救う、愛の神であり、人間のなしうるのは、その神の恵みを、感謝をもって受け取ることだけであることを明らかにしたのです。最も罪深い自分をも救う神の恵みを知ったパウロは、律法を知らない異邦人(外国人)をもお救いになることを知ったのです。パウロはこの福音の宣教に復活の主イエスによって直接に派遣されたのです。

 かなり日数がたって、ユダヤ教を信奉するユダヤ人はサウロに憎悪を抱き、サウロを殺そうとたくらみました。この陰謀をサウロは知りました。ユダヤ人は彼を殺そうと、昼も夜も町の門で見張っていました。そこで、サウロの弟子たちは、夜の間に彼を連れ出し、籠に乗せて町の城壁づたいにつり降ろして、逃れさせました。

 【ガラテヤ書1・17によると、パウロは回心のあと、だれとも会わず、アラビア(ナバテア王国)に退き、二、三年宣教活動をし、そこから再びダマスコに戻っています。パウロの時代、ダマスコはアラビアのナバタ王国の管理下におかれていました。コリント二、11・32によると、ユダヤ人ではなく、アレタ王(第四世で、ダマスコからアラビアにかけて領地を持っていたナバタ国の王で、都はペトラです。)ダマスコの代官がサウロを捕らえようとして町を見張っていたとき、パウロは窓から籠で城壁づたいにつり降ろされて彼の手を逃れた、とあります。使徒言行録の記事が、パウロの手紙と異なるのは、このパウロの伝承が忘れ去られ、ユダヤ人がサウロの敵だ、という比較的後の伝承を、記者ルカが用いて構成したためと思われます。】

 サウロはエルサレムに着き、イエスの弟子の仲間に加わろうとしましたが、皆は彼をイエスの弟子だとは信じないで恐れました。しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明しました。バルナバはイスラエルのレビ族に属する、キプロス島生まれの人で、畑を売ってその代金を使徒たちに差し出した人です(4・36)。この時の<使徒たち>とサウロとの歴史的な出会い、それが主に対する共通の愛と使命に立たせてたのであり、そこから、まずエルサレムにおけるサウロの伝道活動が使徒たちとの連携においてなされたのです。それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって大胆に教えるようになりました。

 また、ギリシャ語を話すユダヤ人と語り、議論もしました。この人たちは外国で育ち、ギリシャ思想の影響を受けたユダヤ人たちで、ステファノの議論し、歯が立たなかったので、民衆や律法学者たちを扇動し、ステファノを捕らえ、殺したのです(6・8~14)。彼らはサウロを殺そうとねらっていました。それを知った信徒たちは、サウロを連れて港町カイサリアに下り、サウロの出生地タルソスへ出発させました。ガラテヤ1・21によると、その後パウロはシリアおよびキリキヤ地方へ行った、とあります。キリキアの州都とタルソスです。

 【使徒言行録の記事は、ガラテヤ書1・18~19の記事と異なります。パウロによると、回心の<三年後>、彼はケファ(ペトロ)に近づきとなるため、上京して15日間エルサレムに留まり、彼以外には<主の兄弟ヤコブ>に会っただけです。そこには、サウロがエルサレムで宣教活動に従事していた、とは述べられてはいません。<キリストに結ばれているユダヤの諸教会の人々とは、顔見知りではりませんでした>という彼の告白は、彼がエルサレムで宣教しなかった、証拠であろうと思われます。】

 31節は、「こうして」という書き出しで始まっています。これまでの経過を受け継いで、どうして教会はこのように成長したのかという教会の発展をまとめて示しているのです。「こうして」と言う言葉で、教会の発展を要約している箇所は、2・47、6・7、8・25、9・31、19・20、などです。2章の47節に、「こうして、主に救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」とあり、6章7節には、「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った」とあり、8章25節では「このように、ペトロとヨハネは、主の言葉を力強く証しして語った後、サマリアの多くの村で福音を告げ知らせて、エルサレムに帰って行った」と宣教の進展を記しています。

 ステファノの殉教に端を発した迫害は、エルサレム教会に対する大迫害となり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散っていきました。サマリアではフィリポによって福音が告げ知らされました。フィリポはカイサリアまで福音を告げ知らせたのです。そして、かつて、エルサレムでステファノ殺害に賛成していたサウロが、回心してエルサレムで主の名によって教えるようになったという、サウロの活動を語ってしめくくっています。こうして教会(単数形)は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリアの 教会とは、キリストを通して、神によって召し集められたものたちの群れです。この集まりが、神をおそれ敬い、神の聖なる霊によってはげまされ、迫害の嵐の中にも平安が与えられ、基礎が固まって発展し、次第に信徒の数が増えていきました。主イエスは昇天するとき、弟子たちに、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(1章8節)とのお約束のおことばの通り、実現していくのです。原始教会のすばらしい発展は、使徒や多くの証人を通して働いた聖霊の業によるものでした。また、原始教会を支配していたのは、その一人一人が<教会の主なる神に対する聖なる畏れと聖霊の慰めと励まし>の中に生き、歩んでいたことにより、教会が発展したのです。

 神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていたサウロに、神は御子を啓示し、その福音を異邦人に告げ知らせる使徒として宣教へ派遣されたことは、世界のすべての民を救おうとする神の愛と憐れみによるものでした。この福音をわたしたちも宣べ伝えなければなりません。 

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