日本キリスト教富谷教会 礼拝説教 辺見宗邦牧師

辺見宗邦牧師が富谷教会で行う礼拝説教を随時アップしてまいります。
毎週日曜日か、前日の土曜日に掲載いたします。

「神の救いのご計画の深い富と知恵」 ローマの信徒への手紙11章28~36節

2016-09-17 23:24:14 | キリスト教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

             日本キリスト教 富 谷 教 会

                          週    報

聖霊降臨節第19主日  2016年9月18日(日)   午後5時~5時50分

                      礼 拝 順 序

                  司会 永井 慎一兄

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21)  37(いと高き神に)

交読詩編  139(主よ、あなたはわたしを究め)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書  ローマの信徒への手紙11章28~36節(新p.291)

説  教   「神の救いのご計画の深い富と知恵」  辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 165(心をつくして)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

           次週礼拝 9月25日(日) 午後5時~5時50分

           聖書  2コリントの信徒への手紙5章1~10節

           説教   「永遠の住み家」

           讃美歌(21)204 579 24 交読詩編 65篇

  本日の聖書 ローマの信徒への手紙11章28~36節

 28福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。 29神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。 30あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。 31それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。 32神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。33ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。 34「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。 35だれがまず主に与えて、
その報いを受けるであろうか。」 36すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。

    本日の説教

   パウロは八章まで、神の救いについて述べています。人間がいかに罪深い者であるかということ、そしてそのままでは滅びるほかないこと、しかし、神の恵みによって救われる道が用意されていること、その救いにはユダヤ人も異邦人も差別がないことを述べました。ところが、ユダヤ人は行いによって達せられるかのように考え、律法を誇りとしながら律法を破って神を侮っています。

 ところが、律法とは関係なく、しかも律法と予言者によって立証されて、イエス・キリストを信じることにより与えられる神の義と救いが示されました。義を求めなかった異邦人が信仰による義を得て、ユダヤ人よりも異邦人の方がどんどん救いに入れられるようになっていきます。当然そこに疑問がわいてきます。神の選民とされたはずのユダヤ人は捨てられてしまったのだろうかという疑問です。

   異邦人のための使徒(11:13)とされたパウロは、自分の属するイスラエル民族について九章から十一章にかけて述べます。パウロは自分がユダヤ人であり、とくに、神に選ばれた民族であることを誇りとしていました。ユダヤ人は神の約束のもとにあり、律法をさずけられていました。しかしユダヤ人の多くはイエスをキリスト(救世主)と認めず、イエスの福音を受け入れようとはしませんでした。パウロにとって、自分の属する民族の問題は切実な問題でした。「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります」、兄弟たち、同胞のためならば、「キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」(9:2,3)と言っています。彼は、どうしたら同胞が神によって救われるかということを真剣に考えたのです。

 パウロは次のように考えました。アブラハムの子がすべて神の約束を受け継ぐわけではない。たとえば、イサクの子エサウとヤコブのうち、ヤコブだけが約束を受け継ぎました。「肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれた子供が、子孫とみなされる」(9:8)と考えたのです。それは神の選びの計画によるのであって、人間の行為によらず神のご意思によって約束をうけつぐものとなるのです。それゆえ、ユダヤ人が自分たちがアブラハムの子孫であり神の民であるという血統を誇っても意味がないことを説いたのです。

 次に、パウロが考えたのは、イスラエル民族の歴史のなかに示され神の忍耐と導きです。神がいかに忍耐強く、寛容をもってイスラエル民族を導いてこられたかということでした。そして神の忍耐は、今も、イスラエル民族のうえにあるということです。ユダヤ人がイエス・キリストによる救いを受け入れず、十字架につけたのは、神の義を律法によって追及し、自分たちの努力で得られると過信したためです。自分たちの罪を認めようとしない誇りがあったのです。それはユダヤ人の神を求める姿勢が間違っていたのであって、神の選びの計画は不変なのです。

わたしは彼ら(ユダヤ人)が救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています」(10:1)と叫ぶパウロの耳もとには、「神は御自分の民を退けられたのであろうか」(11:1)という問いが響いてきます。それに対して、パウロは「決してそうではない」と言います。自分も「イスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です」と告げます。

 パウロは秘められた計画をぜひ知ってもらいたいと、異邦人の兄弟たちに語ります。すなわち「一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われる」(11:25)ということです。このような言葉を裏付ける聖書のことばとして、パウロはイザヤ書59章20~21節、および、イザヤ書27章9節を結合したと思われる言葉を引用します。

救う方がシオンから来て、ヤコブから不信心を遠ざける。これこそ、わたしが、彼らの罪を取り除くときに、彼らと結ぶわたしの契約である。」(11:26b,27)

 <救う方>とは罪からの開放者であり、待望さえたメシア(救い主)です。<シオンから>とは、エルサレムのシオンの丘、すなわちエルサレムの郊外で十字架にかけられ、死んで葬られ、よみがえって聖霊を与えられた主イエス・キリスト、その方こそ「救う方」であるというパウロの信仰がここにあります。そして、その「救う方」が、ヤコブ(イスラエル)の不信な者を追放し、真に罪を除き去る時、神の救済のご計画は成就するのです。このイザヤの予言は、パウロにとって主イエス・キリストによる全イスラエルの救いの日の喜びと重なっています。その日、その時が神とイスラエルとの契約の成就の時でもあります。

福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。」(11:28)

パウロにとって福音というのは、「御子に関するもの」(1:3)であり、御子はイスラエル人の不従順によって十字架につけられたのであり、主イエスによってもたらされた福音を受け入れないので、神に敵対している状態にあります。これが歴史的現実です。しかし、神の選びについて言うならば、イスラエルの始祖アブラハム時から、イサク、ヤコブ、またその子孫たちは、神に選ばれた民であり、神の愛の対象であることは変わりありません。これがもう一つの「神の選び」の現実です。「神の賜物と召しとは、変えられることがない」(29節)と記されているように、たとえ人間の犯した数々のあやまちがあったとしても、神ご自身がそれを変更されない限り選びは絶対に変えられるものではありません。

 異邦人たちが、かつては神に不従順であったが、ではイスラエル人が不従順になっています。その結果、イスラエル人の不従順がかえって異邦人たちがあわれみを受ける結果となりました。これと同じように、不従順であるイスラエル人は異邦人の受けたあわれみによってあわれみを受けるのです。その時は遠い未来のことではなく今であるとパウロは言います。パウロにとって歴史は今やまさに終わろうとしています。

異邦人は、福音が啓示されそれを受け入れる以前には、不信仰の状態でした。しかし、終末時の今、イスラエル人の不信仰によって、福音を信じた異邦人は神に正しい者と認められ、義とされています。そのように、イスラエル人も今、不信仰の中にいるが、それは、神の最終的救いのまさに来たらんとする今、全世界の救いの完成としてイスラエル人が救われるためなのです、とパウロは主張しています。

 このことから、「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」(32節)という結論に至ります。これは人間の論理を超え、人間の知恵をはるかに超えた事実です。パウロは全人類の救いを望んでいるかに見えます。そして、イスラエルも、ついには、ことごとく救われるに至るとの信仰に、彼の心は躍りました。彼は神への限りない感謝と賛美をもって閉じます。

 「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。

 神への讃嘆の言葉がパウロの口をついて発せられます。<富>は神の賜物の無限に満ちていることを指し、<知恵>はながく隠されていたが、今や現された秘められた知恵であり、<知識>は神の秘められた洞察(見通し)です。知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています(コロサイ2:3)。この三つはたがいに結びあい、結局イエス・キリストによって示された、恵みによる神の救いを指し示しています。これは、<神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたもので……この世の支配者たちはだれ一人、……理解し>えなかったものです。このような神の無限の深さは、神から与えられる理解力によって知るほかないのです。

  神はこのような深い恵みによって異邦人とイスラエル人に臨んでくださるのです。そのことを考えれば、「だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」(33節b)ということになります。<神の定め>は「神の審判」、神の義とする行為を指します。<神の道>もここでは神の救済の仕方を指します。パウロはさらに、「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか」と記します。神のこころの深みには人間の手はそのままではとどかないことを知らせています。どんな偉大な知恵者でも、救いの計画について神と協議してそれを実行に移すというようなことはできないのです。人間の限界は神の深いみこころの前に立てば立つほどいよいよ明確になってくるのです。

 神の偉大さに対する讃嘆が、しめくくりの言葉としての頌栄となります。

すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」(36節)

<すべてのもの>とは、文脈から、「異邦人もイスラエル人もすべてが」の意と解することができます。神は、万物の創造者であり、支配者であり、完成者です。万物は神に導かれ、神にむかっています。パウロは「栄光、とこしえに、神に」と賛美と頌栄の声をあげて、救いが全世界大のもの、<永遠>のものであることを賛美しています。イスラエルと全世界に対する神の救済行為の深さは、理解の対象ではなく、賛美と礼拝の対象なのです。「アーメン」、「まことにそうです」と力強くしめくくっています。

 神は私のような者をも選び、救い、召してくださった方です。すべての者を憐れみ、救おうとされる、赦しと愛に満ちた方です。「ご計画に従って…万事を益として下さる」(8:28)全能者です。愛と憐れみに満ちた万物の主なる神を心から喜び、ほめたたえましょう。

 

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