富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「希望による忍耐」 ローマの信徒への手紙8章18-25節

2017-09-02 00:17:41 | キリスト教

      ↑ 5th Century frescoe of St. Paul at the Cave of St. Paul in Ephesus  654×648

トルコのエフェス(エフェソ)の洞窟にある5世紀頃のパウロのフレスコ画(パウロの絵としては世界最古) 

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

     日本キリスト教 富 谷 教 会    週 報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句 「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

    聖霊降臨節第14主日  2017年9月3日(日)   午後5時~5時50分

            礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 355(主をほめよ、わが心)

交読詩編  147(ハレルヤ。わたしたちの神を)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳) ローマの信徒への手紙8章18-25節(p.284)

説  教    「希望による忍耐」     辺見宗邦牧師

祈 祷         

讃美歌   528(あなたの道を)

献 金   

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷          

後 奏  

            次週礼拝 9月10日(日)  午後5時~5時50分

             聖書  1コリントの信徒への手紙15章35~52節

             説教   「究極の希望」

             讃美歌(21)361 199 24 交読詩編 104篇 

            〇 洗礼式 9月8日(金)午前11時より。

             佐藤洋子(ひろこ)姉妹の洗礼式と愛餐会があります。

   本日の聖書 ローマの信徒への手紙8章18-25節

 18現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。19被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。20被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。21つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。22被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。23被造物だけでく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。24わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。25わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。

    本日の説教 

 使徒パウロは、キリスト者の現在の苦しみは、将来受けるはずの栄光と比べれると、取るに足りないと思います、福音の光による判断によって語ります。「現在の苦しみ」とは、主の再臨前のキリスト者の受ける苦しみです。なぜ苦しみがあるのかというと、この世の罪の力が完全には征服されていないので、罪の力はいまも人々を神から引き離そうとしているからです。その苦しみは、信仰者が出会うつまずきであたり、いろいろな試練です。しかし、すべては主の御手の中で起こるのであり、乗り越えられない試練を神は与えることはありません。

 将来に現されれる栄光とは、神の栄光を受けることです。栄光とは、神の愛と力とが放つ光の輝きです。その栄光の中に、終末時の救いの世界の現れてるのです。キリスト者は、この世で御子キリストの苦しみにあずかることにより、キリスト共に栄光をも受けるのです。神の子の身分が現実に現されるのは将来のことですが、いますでに子としての身分が授けられており、まだ資産を受け取ってはいませんが、すでに神の相続人とわたしたちはされているのです。

 パウロは、人間以外の被造物も、同じように苦しんでいるのであり、終末の時に、栄光に輝く自由を与えられた神の子たちの現れるのを待ち望んでいると、言います。被造物は虚無に服しているというのです。それは、人間が罪を犯し、神との正常な関係を失ったことにより、被造物も人間の罪と連帯し、神との本来の関係を失い、被造物ははかなさ、無意味さ、空しさという虚無に服しているというのです。被造物に責任によるのではなく、罪を犯して楽園を追われ、現世の苦悩と死に縛られるようになった人間の苦しみと連帯するように神が定められたのです。しかし同時に、神は被造物も「滅びへの隷属」-滅びに支配される運命-から解放される希望をも与えられました。被造物にも死、崩壊、腐敗、はかなさから自由にされる希望があります。その希望は人類のために約束されている神の子としての栄光と同質のものではないが、被造物は創造主の目的にふさわしい、本来のあり方を回復するのです。

  被造物はすべて今日まで長きにわたって、苦しんできたことを知っている、とパウロは言います。このような洞察は、創世記3章17節の罪を犯した人間のゆえに、土は呪われるものとなったという記事を背景に、人間と他の被造物との深い連帯関係にあることを示しています。被造物は今に至るまで「うめき」と「産みの苦しみ」を続けていると擬人的表現でその苦しみが表現します。うめきは絶望のうめきではなく、産みの苦しみのような待望のための苦しみです。

  それは人間についても同じことです。パウロは栄光の自由に入るのを待ち望んでいる人間を「“霊”の初穂をいただいているわたしたち」とよびます。被造物だけでなく、わたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいる存在であることを明らかにします。御霊は終末に<先立つて与えられた賜物>です。その御霊が証しする子たる身分も、終末に先立つ神の約束の担保なのです。それが現実となる、その身体的実現は今は神のもとに隠されており、さしあたって、ただ御子であるキリストの復活で実現されています。キリスト者は確かに将来の救いを保証する御霊を与えられ、終末に栄光の自由に入ることができるのですが、そこに至るまでに、自然界とともに人間も、「共にうめき、共に産みの苦しみを」味わねばなりません。

  主イエスが、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16・33)と言われたように、世には深刻なうめきや産みの苦しみがあります。誘惑や迫害、種々の困難の中で信仰のたたかいをすすめる時の苦しみは、聖霊の力を求める祈りとなり、神のみわざと約束信じて待ちのぞむ「うめき」となるのです。

 キリスト者にとって希望とは目に見える状態のことではなく、つねに待望のかたちをとります。苦難に耐えることができるのは、栄光の自由に入る希望が与えられているからです。とくに人間は「神の子供たちの栄光に輝く自由」に入るこことを希望として与えられているからです。このような希望によって、わたしたちは救われているのです、とパウロは説きます。

 終末の栄光の保証として、聖霊を与えられています。そして聖霊を与えられておればこそ、この世の苦難をしのび、終末的栄光にあずかる日を待ち望むことができるのであります。キリストを信じ、洗礼を受ける時に、たしかにわたしたちは聖霊を授けられ、「子たる身分」を与えられるのであります。しかし、その時授けられた聖霊は将来に約束されている賜物の保証として与えられている手付金です。キリスト者がうめいているのは、聖霊がまだ十分に与えられていないためではなく、終末に至るまで地上にあって神の国の約束を待つ者の姿なのです。終末の日、わたしたちは、名実ともに「子たる身分」が授けられることになるのです。「からだのあがなわれる」こととは、終末の日に、罪と死から人間が完全に解放されることを意味しています。復活にあずかり、新たな心と肉体からなる人間の誕生が意味されています。

 キリスト者にとって必要なのは忍耐です。それは消極的に耐えるというよりは、それは希望による忍耐です。キリスト者は神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりではなく、苦難をも誇りとします。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は生む、練達は希望を生みます(5・2-4)。キリスト者は、苦難の圧迫に対して被造物全体を代理しつつ、希望による忍耐で、共に希望を将来の現実のものとするのです。

 【人間と自然との関係について、わたしは次のような体験を過去にいたしました。わたしが病気で入院する日、自宅の窓からわたしが植えて大きく育ったもみじの木を見たとき、ふと次のような嘆息をもらしました。「お前たちはいいな。わたしは病気で死ぬかも知れない。それなのに、お前たちはわたしより長生き出来るのだから。」と植えた木をうらめしく思ったのです。しかし、病気が治って自宅に帰ってたとき、違う目で、その木を見るようになりました。「わたしたちは、イエス様の救いにあずかって、永遠の命をいただいているのに、お前たちは、いずれは枯れてしまう。可哀想だな」という思いになったのです。同時に、自然もわたしたちの仲間であり、滅びから解放されて神の子たちの栄光に自由にあずかる希望が与えられていることを思いました。そんなとき、大きな庭石も、みごとに思えて、口づけをしました。わたしと自然の関係が、気の通じる間柄のように感じられたからでした。】

 自然は、虚無に服している暗い面だけではなく、神の御支配に中にある、美しい、すばらしい面があることも事実です。とくに詩篇などを見ると、充分に自然のすばらしさ、美しさについて語っています。しかし、パウロはそれだけを見るのではありません。同時に自然のもつ暗さをかくそうとはしません。その暗さは人間の堕罪から来るとして、人間の罪と関係させて説いているのです。しかし、パウロはここで、人間と自然の暗さを強調することを目的としているのではありません。それ以上にパウロが説きたいのは、やがて終わりの日には暗さが完全に終わり、明るさが来るということです。

 ローマの信徒への手紙8章26節以下、39節までのところは、次のような論述の展開があります。まだ見ていないことを待ち望むのは、弱いわたしたちは聖霊の執り成しに支えられているからです。召された者たちには、万事が益となるように、神の計画に服従する者と神御自身が共に働くのです。キリスト者はどのような苦しさの中でも、キリストが執り成しがあり、神が味方なので、どんな苦難も死も、キリストにある神の愛から引き離されることはないと、神の愛の勝利を高らかに宣言するに至るのです。

コメント
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