無門塾

旅や山、人生を語り合いましょう。

空壷橋

2011年07月02日 | Weblog
 会友のS会員から、坪井地区に 「空壷橋」 なる橋があるが、何と読むのであろうか、はたまた命名の由来は? との話があった。 以前に、調べたことではあったが、すっかり忘れてしまっていて、時間をいただいた。

 さて、読みであるが 「からつぼはし」 で良いでしょう。 命名由来且つ何時ごろから…については、周辺のそれなりに古い構えの家に尋ねたりもしたが、「そうですか」 と言う話には残念ながらいたらなかった。

 勿論、空の壷の上に架かる橋であれば 「空壺橋」 で良いのだろうが…。然しながら、余りにも単純な発想であり、何か他にも謂れがありそうな気がしてならない。更には、命名の時期をも明らかにしたい。

 所で、肝心の橋の所在地であるが、「壷川小学校」 の前を通る道路で、東に向えば坪井川を横切るが、そこに架設されているのが 「空壷橋」 である。

 はたと困って、当地区に長年お住まいで、地域研究も良くなされているY氏を訪ねた。 Y氏は、壷川小学校入学が、昭和7年頃の大先輩である。 以下、「坪井川の本来の流路」 や現在の流域一帯は 「空堀」 であったなど等、以前に我がブログに記した次第でもあり、お互いに関心の強いことであり話が弾んだ。
 入学当時、坪井川の本流は庚申橋(空壷橋より一つ上流の橋)横の古刹 「流長院」 あたりから、京町台地の方へと向かい観音坂下から錦橋、伝統工芸会館の北側更に城東小学校の南を経て、現坪井川へと流れていた。従って、問題の 「空壷橋」 辺りは堀であり、橋はあったが 「空壷」 名であったkどうかは、定かでないと…。

 明治初年の古地図を見ても、橋周辺の景観は今とは全く異にする。また、壷川小学校の創立も明治7年で、幾多の変遷を経て現在に至っているが、現在地にとなると今のところ調べがついていない。
 何れにしろ、当地区も影響を受けた西南戦争を契機にして様相が変わり、昭和初期に流路の変更や新設の橋などが設けられたのでは…?
 氏の話によると、空堀と言えども水量も相当あったし且つ堀端には幾多の染物屋もあったが…とのことで、はたして世に言う空堀であったのかどうか… 。勿論、少し上流の寺原地区より上域は遊水地帯であり、当堀が全くの空堀であった等とは言えないことである。

今少し、詳細を調べなければならないが、取敢えず今回は…。 なお、諸々ご指摘を頂ければ幸いです。      合掌 

 
 


3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
からつぼはし (すずじー)
2011-07-02 20:27:25
ありがとうございます。自分で調べるべきところを、すっかりお世話になりました。
不十分で… (骨身)
2011-07-03 03:38:10
 取敢えずで、読みだけは間違いないのですが、その他については今一歩調べを進めましょう。
空壺橋 (FUSA)
2012-05-02 12:42:17
初めまして!
生まれ育った京町を中心に、今さらながら城下町の歴史を調べている者です。空壷橋は以前私もその名の由来について調べたことがあります。しかし決定的な資料は見つけられませんでした。ただ、あの地点は豊後街道の壺井口の構えがあり、堀が掘られていた所ですから、空堀と壺井口の頭文字をとって後世の人たちが付けた名前かなと勝手に推測していました。