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活動の状況

満蒙開拓団の集団自決

2015-08-30 00:00:08 | Weblog
満蒙開拓団では、集団自決が起きた。
長野県満洲開拓団関係図の北西部。

「ノノさんになるんだよ」。高山すみ子著、銀河書房から。
は開拓団。
は主な集団自決地。
満蒙開拓団の集団自決は、あちこちで起きた。

集団自決をしたが、死を免れた人がいた。
K高社郷(こうしゃごう)開拓団の高山すみ子さんである。
長野県の北部、下高井郡、瑞穂 (みずほ) 村で生まれた。

1940年、17歳の時に、母、兄とともにK高社郷開拓団に移住した。
高社郷という名は、下高井郡の中央にある高社山からとった。
高社郷開拓団には、下高井郡の14カ村が参加し、
瑞穂村、市川村、木島村…が含まれている。

そこで、先に移住していた小林庄司さんと結婚する。
満洲に渡って3カ月のことである。
忍の一字で一生懸命働いた。
1男1女をもうけた。

1945年(昭和20年)、太平洋戦争の戦局が悪化すると、
根こそぎ動員」で、夫は召集された。
T牡丹江(ぼたんこう)1448部隊へ。
母子3人が残された。高山すみ子さんは21歳、
長男の旭(あきら)は4歳、長女の怜子は2歳だった。

1945年8月9日、ソ連が満洲に進攻してきた。
それから、母子3人の死の逃避行が始まった。
B勃利(ぼつり)方面に逃れ、S佐渡開拓団跡まで来た。
そこで、高社郷開拓団は集団自決をする、「生き地獄」を味わう。

死の逃避行、集団自決、生き地獄は、手記にされている。
ノノさんになるんだよ」。1987年、銀河書房発行。

満蒙開拓奈落の底から」。

1945年、太平洋戦争の戦局が悪化して、
満蒙開拓団の18歳から45歳の男子は、
すべて召集される、「根こそぎ動員」。

満蒙開拓団は、関東軍に食糧を供出するのが使命であり、報国であった。
自分たちは粗食をしても、良質な品をそろえて、
軍からの割り当てをこなしてきた。

農民として満洲に渡った男子が召集されるとは夢にも考えていなかった。
関東軍の精鋭は、南方のグアム、パラオ、レイテ、ルソンへ、
投入されていった。「根こそぎ動員」は、その穴埋めだった。
兵器や軍需品は欠乏して、応召兵に渡す小銃さえ不足していた。

団は働き手を失い、女性と子ども、老人が残された。
そして、1945年8月9日、ソ連が満洲に進攻した。
ソ連とは中立条約があって、ソ連の進攻は絶対にないと、
教え込まれていた。それが、団から伝令がきた、
「ソ連が攻め込んできたので、すぐ団本部に避難しろ」

「1週間分の食糧と着替えなどの身の回り品を持って」
という命令に従って、あわてて、大車に積み込み、
その上に、2人の子どもを乗せて、団本部へ向かった。

1945年8月9日の午後からになり、
1945年8月10日の夜は、激しい雨になった。
晴れる日が多い満洲だが、この雨が、逃避行を困難にした。
道はぬかるんで、大車はなかなか進まなかった。
道は急な登り坂になった。大車がどうしても上がらない。
大車を捨てざるを得なかった。食糧、衣類、怜子のおしめなど、
ほとんどのものを捨てた。4歳と2歳に満たない子を背負って、
逃げ続けなければならなかった。

ソ連や満人(中国人)の攻撃を避けながら逃げた。
足の弱い者や年寄りが大勢自決した。
年寄りばかりの家では、おばあちゃん、かあちゃんが、
孫を抱き、子を抱いて、背後から銃殺してもらった。
死体をそのままにして、B勃利(ぼつり)を目指して逃避行を続けた。

雨のほかに、もう一つの困難は、
守ってくれるはずの関東軍は、ソ連の進攻の前に、いち早く逃げていた。
逃げるときに、兵舎や食糧庫を爆破していったので、
避難民は逃げるところさえ、まったくなかった。

しかし、ヨウカンや当時1個2円だったキャラメルなどがたくさんあった。
それをとりにいって子どもに食べさせた。子どもは恐怖の中にも、
初めての幸福感を味わったのではないかと思う。

倭肯河(わいこうが)にさしかかった。
川幅40メートル、水深1メートル20センチあまりで、流れが急だった。
そのうえ、雨が降りどうしだったので濁流が渦巻いていた。
関東軍は、橋という橋を破壊して逃げていたので、渡れなかった。

渡ることができずに、たくさんの人が死んでいった。
双子の子どもを銃殺する母。子どもを濁流の中へ投げ込む母。
子どもは浮いたり沈んだりしながら、口をパクパクさせていた。
子どもを流れの中に投げ込もうとするのを、
止めさせようとする人は、だれもいなかった。

倭肯河に、長いロープを渡して、文字どおり命綱につかまって、川を渡る。
命綱につかまって渡っても、何人もの子どもが流された。
ここで40数人が死んだという。

「なんとしてもこの川を渡らなければならない」
「この川さえ渡れば、牡丹江(ぼたんこう)が近くなる。
どんなことをしても牡丹江までいくぞ」
牡丹江は主人の入隊した部隊があるところ。

背負ってきた帯でぎりぎりと子どもを、自分の頭に巻きつけた。
渡り始めると子どもは水を飲み始めた。
それでもなんとか対岸に着いた。
ほっとして対岸を見ると、置いてきた子どもが泣いている。
もう一人を渡すために引き返した。
足がつかないほど深いところを、
それこそ死にもの狂いで2度目の渡河を終わった。

休む間もなく、びしょぬれのまま2人の子どを背負って逃避行を続けた。
昼は危険なため、夜歩き続けた。食糧の持ち合わせはまったくないので、
道路の水たまりの水を飲み、草や木の芽を食べて歩き続けた。

しばらく歩いて、S佐渡開拓団跡に着いた。
高社郷を含めて、8つの開拓団、総勢3,000人が集結した。

ここで事件が起きた。
満洲最大の悲劇である佐渡開拓団事件になる。
1945年8月22日、ソ連の飛行機が近くの麦畑に不時着した。
開拓団は、飛行機を攻撃し、炎上させ、搭乗員3人のうち2人を射殺した。

この時は、だれも日本の敗戦を知らず、ソ連とまだ交戦中だと思っていた。
私たちは、関東軍から屯田兵としての教育を受け、
「皇国に殉ぜよ」と教えられていた。
つまり、敵とみれば立ち向かうことが「忠義」と信じ込んでいたし、
ソ連を心から憎いと感じた。

しかし、逃がしてしまった1人の通報によって、
ソ連軍の報復が予想される事態になって、
こんどこそ、死の宣告を受けたと思った。
「ソ連軍に、男子は皆殺し、女子どもは暴行される」という話が広まった。
みんな絶望的になり、全員自決という気持ちになっていった。

翌日の1945年8月23日、各団長会議が開かれ、
だんだん集団自決という方向に向かっていった。
その夜から、ソ連軍の攻撃が始まった。

1945年8月24日、高社郷の人々の間に、暗黙のうちに自決の覚悟が決められていった。
澄みきった空に白雲が流れ、満洲はすでに秋になっていた。
その空の下で最後の慰霊祭と団の解散式がおこなわれた。
(本の表紙の空は、この時の満洲の空を表している、と思った)

1945年8月25日、高社郷の副団長により自決計画が発表された。
「我々は万一の僥倖をたのみにここまで逃げてきた。しかし、もう逃れる道はない。
生きてはずかしめを受けるより、死んで祖国を守ろう」
この佐渡開拓団跡で何千人の人が死んだのかわからない。そのほとんどが銃殺だった。
高社郷だけでも570余人が死んだといわれている。

井戸の中へ子どもを投げ込んだ人もいる。
井戸はたちまちいっぱいになって、死にきれない人もいた。
そういう人は上から銃で撃って殺してやった。
どの家もどの家も、自決した人たちの死体でいっぱいになった。

日本人同士、敵味方の殺し合いを見ているうちに、
私も覚悟を決めるよりほかはなかった。
旭(あきら)を背負い、怜子を抱いて馬小屋へ入った時には、
仲間のほとんどが自決していた。

2人の子どもを胸に抱き、最後のキャラメルを食べさせた。そして、
ノノさん(仏さん)のところへつれていってあげるから、
かあちゃんのいうとおりにするんだよ」
といい聞かせた。
4歳になる旭は、
「ノノさんのところへいけば誰がいるの」
と聞いた。
「ノノさんのところには内地のおじいちゃんもいて、
白いごはんがたくさん食べられるんだよ」
と答えた。

子どもたちはにっこり笑った
「じゃあ、早くノノさんのところへ連れていって」
と旭がいうと、怜子もうなずいていた。
「おじいちゃんのところへいくには、どうすればいいの」
と聞くので、
「こうやって手を合わせていればいいんだよ」
と、東の方を向いて手を合わせてみせると、
子どもたちは私のマネをして手を合わせた。

私を中にして、右に怜子、左に旭を座らせると、
間髪を入れず副団長の撃った銃声が聞こえた。
怜子は瞬間、兎のようにピョンと2メートルも飛び上がり、
旭も血しぶきを上げて絶命した。
私は今でも、私をじっと見つめていた2人の子どもの顔と姿が、
脳裏に焼きついている。
(書いていても、涙が出てくる)

2人の死体を片づけて、私の死ぬ番がきた。
「かあちゃんもいっしょにいくからな」
とつぶやき、副団長に、
「お願いします」
と声をかけ、座りなおして両手を合わせ、目を閉じた。
念仏を唱えたのか、両親の名前を呼んだのか、
夫に先にいくことをわびたのか、この時のことは覚えていない。

その時、ソ連の戦車が戦車砲を撃ちながら突進してきた。
運がいいのか悪いのか、戦車砲は私を撃ってくれようとした、
副団長を撃ってしまったのだ。倒れた副団長は私の足をたたき、
「逃げろっ」
と叫んだ。
しかし、ソ連軍が近づいてきて、逃げるに逃げられなかった。

死体はすでに天井に届くほどに積み上げられていた。
まだ生きていた人たちも、ショックや何かで動けなかった。
私はそこで意識をなくしてしまった。

記憶がないので日付もわからない。
少なくとも2日ぐらいは経っていただろう。
夢から覚めたように、ふと目を覚ましてみると、
小屋中死体がぎっしり詰まっていた。

生きているのが不思議だった。
「ああ、生きていたんだ」と思い、
もう一度辺りを見回すと、子どもは2人とも死んでいた。

私は自分にいい聞かせた。
「子どもたちと一緒に死ねない運命なんだから、
生きなくちゃいけないんだ」と。

女一人になった、死の逃避行は続く。
1年後の1946年9月下旬に、日本に帰るまで。

長野県は、全国で一番多く満蒙開拓団を送り出した。

長野県は、全体の14.2%を占めて、断トツ。
長野県の戦没者は15,000人近くだから、半数が亡くなった

満蒙開拓団は国策だった。
拓け満蒙! 行け満洲へ!」。

拓務省 満洲農業 移民募集
「資格 33歳以下(徴兵検査未了者を除く) にして
     身体強壮の者」
「政府の補助 一戸に付1,000円、その他諸種の便宜あり」
「締切 7月15日」
「申込所 町村役場、又は軍人分会」
「満洲移住協会 東京、日比谷、大阪ビル内」

写真を見ると、広い平原、肥沃な土地で、
大規模な農業ができ、幸せな生活が送れることを示している。

満州は日本の生命線」、食糧の確保として、1936年、
20年で100万戸、500万人の移民計画」を建てた。
全国的に、村の財政が行き詰まっていた、それに、
耕地が少ないために、次男・三男には継ぐ土地がない。
冬になると出稼ぎをして、何とかしのいだ。これらで、
分村移民をしたり、移民計画を建てた。
全国の共通した決断や、思いは、
「狭い土地にしがみつくよりも、新天地で」だった。

長野県の事情は、盛んであった養蚕業が、
昭和5年の生糸の暴落で、繭(まゆ)の価格が、
3割ほどになってしまった。
養蚕業がダメになったことが、
満洲への移住につながっている。

高山すみ子さんの下高井郡をみる。
満洲移民の市町村別比率」。

高社郷開拓団には、下高井郡の14カ村が参加し、
瑞穂村、市川村、木島村…が含まれている。
瑞穂村は、飯山に組み込まれ、市川村は野沢温泉に、
木島村は木島平に組み込まれている。
地図で、満洲移民の比率は、
飯山は2.8%、木島平は3.5%、
野沢温泉は6.2%と高く、赤色で表示されている。

この市川村については、渡満者比率、帰国者比率のデータがある。
市町村の渡満者比率」。

渡満者の内訳で、
義勇軍は、満蒙開拓青少年義勇軍、
勤労奉仕隊は、移住ではなく、お手伝いに満蒙開拓団に行った人。

下から2行目の市川村は、
人口1,901人の内、195人が満州に渡った。
渡満者比率は、10.3%である。

市町村の帰国者比率」。

市川村は、195人が満州に渡り、
生きて帰ってきた人は51人である。、

帰国者比率は26.3%である。
帰国者比率が極めて低いのは、
高社郷開拓団の集団自決による。

市川村の死亡者ほかを見ると、
死亡者は137人、
残留者は6人、
不明者は1人で、
合せて144人になる。

1番下の豊丘村も、集団自決があった。
そのために、帰国者比率が38.1%と低い。
豊丘村は、河野(かわの)村と神稲(くましろ)村が合併した。
このうちの河野村の分村移民は、集団自決した。
男性は緊急補充兵として「根こそぎ動員」されたから、
犠牲者は、残されて逃避行をしていた女性と子ども。
お母さんたちは、つぎつぎと自分の子どもの首を絞めた。
仲間の首を絞め合った。73人が亡くなった。2人が生き返った。
満蒙開拓団を送り出した河野村の村長は、集団自決を知って、自殺した。
「集団自決の責任をとった」とされている。

「市町村の帰国者比率」をみると、
満洲を逃げ惑うだけで、50%が亡くなっている。
集団自決の満蒙開拓団は、さらに20%ほど低下する。
集団自決の犠牲者は母と子どもで、帰国者比率は0%に近づく。
男性は、「根こそぎ動員」で召集されて、戦闘で死亡か、
生存者は、捕虜としてシベリアの収容所で、飢え、極寒、
発疹チフス、重労働で、バタバタと死んでいった。
満蒙開拓団で帰国できた人は、半数だった。
家族は、半数になった、と考えればいい。

「満州は日本の生命線」として、国策で渡った満蒙開拓団だが、
待ち構えていたのは、ソ連の進攻、中国軍の襲撃、
家族はバラバラ、死の逃避行、集団自決、飢え、極寒、
発疹チフス、アメーバ赤痢…。地獄が待っていた。
守ってくれるはずの関東軍は、いち早く逃げていた。

死の逃避行を生きながらえた人は、アメリカが差し向けてくれた、
貨物船を改造した輸送船に乗ることができて、帰国することができた。
満蒙開拓団の残りの半数の人は、死亡、行方不明、残留孤児、残留婦人として、
満洲にとり残された。さらに、残留者2世、3世…を生んだ。

国策、「拓け満蒙! 行け満洲へ!」は、あったが、
「助けよう、満蒙開拓団を! 救おう、残留者を!
の国策は、なかった。
満洲に渡った阿智村の長岳寺の住職、
山本慈昭さんが、残留孤児の調査をして、
国に残留者の実情を伝え、訪日調査を要望した。
国は重い腰を上げて、「中国残留日本人孤児」の訪日調査が実現した。
1981年3月のことで、敗戦から36年が過ぎていた。
全国から集まった身寄りの人と、「中国残留日本人孤児」は、代々木で面会した。
「わたしは、だれですか?」の問いかけに、日本語と中国語で会話して、
薄れゆく記憶をたどり、一致点を見つける肉親捜しが始まった。

満蒙開拓団生き地獄を味わった。
戦争に反対し、平和を願う気持ちは、ことのほか強い。
子どを失った母は、一生、癒えない傷を負っている。
「私は今でも、私をじっと見つめていた2人の子どもの顔と姿が、脳裏に焼きついている」
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