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小布施の訪問者は人口の100倍

2017-10-08 00:04:20 | Weblog
信州の小布施(おぶせ)を訪れる訪問者は、人口の100倍
人口は1万人ほど、訪問者(観光客)は110万人ほど。
栗の小径

北斎館から高井鴻山記念館を結ぶ小径。2011年8月24日。
石畳ではなく、栗の木で舗装されていた(栗畳! )。

信州大学で開催されたセミナーで、
小布施町長の市村良三さんのお話しを、
聴く機会があった、2011年6月24日。タイトルは、
小布施町における協働と交流のまちづくり

まちづくり」 5つのポイント。
1) 人口政策: 公営住宅、宅地造成で、人口の流失を食い止めた。
2) 北斎館: 葛飾北斎の肉筆画を一堂に集めて、1976年に開館。
  当時は、「田んぼの中の美術館」と言われた。
3) 地場産業: 栗菓子の老舗は、小売り・飲食サービスを開始。
4) 町並修景事業: 北斎館周辺を居住・商工業の回遊できる界隈に修景。
  「修景」とは、昔に戻す「町並み保存」でもなく、再開発でもなく、
  全体の景観を生かして、人が住める街にする。
5) 花のまちづくり:: 「ふるさと創生1億円」を、
  住人のヨーロッパ視察研修に充てた。9年間で、200人近く。
  花が生活に溶け込む街を視察してから、花を育て、町がきれいになった。
  庭を開放する「オープンガーデン」につながって、110軒になっている。
  「オープンガーデン」は交流に結びつく。
「住民が楽しく生き生きと暮らしている町にこそ魅力がある」
来訪者が求める「なつかしい、ほっとする、やすらぐ、いやされる」
と、市村良三町長は、小布施の「まちづくり」を話された。

市村良三町長のお話しの、
「田んぼの中の美術館」、
北斎館周辺の「町並修景」、
住人がヨーロッパを視察研修した成果、
「オープンガーデン」…を見たくなった。
小布施に出かけたのは、2011年8月24日。
北斎館周辺

右は、北斎亭。広場をはさんで、反対側に北斎館がある。
北斎館周辺の16,000平方メートルは、回遊できる界隈に修景。
中心部は、「広場」になっていた。電柱、電線はなく、大きな木があった。

屋根は、山々の稜線に合わせて切妻、
壁は白か、土地の砂を混ぜた黄味がかった砂壁。
けばけばしい看板はない。自動販売機は見当たらない。
これらは、景観条例ではなく、住人の自主規制だという。
住人がヨーロッパを視察研修した、その成果を見るようだ。

ヨーロッパでも美しい街に、
ベルギーのブルージュがある。世界遺産。
ブルグ広場。右は市庁舎。1988年12月30日。

石畳。大きな木があった。電灯はあっても、電柱、電線はない。

近くの鐘楼に上がって、
マルクト広場を見下ろした。右は州庁舎。

生活が息づいている。電柱、電線はない。
けばけばしい看板も、自動販売機もない。
小布施の景観は、ブルージュを思い出す。

北斎館

すでに、田んぼの中の美術館ではなかった。
玄関へのアプローチは、栗の木の栗畳。
玄関の青い屋根は、金属?

栗の小径

屋根は切妻、壁は白か、黄色がかった砂壁。
小径は、栗の木の栗畳。右の手前は、高井鴻山記念館。

小さな看板が、オープンガーデンの目印。

“Welcome to My Garden”
“OBUSE Open Garden HOME”

オープンガーデン

床机に座って、「ゆっくり眺めてください」と、いっている。

なんと、市村良三町長のお宅でした!
「町長がオープンガーデン」をされている、
とは思わなかった。全国にも、例がないと思う?
「まちづくり」には、市村良三町長が率先、実施されている。

2回目の訪問は、2017年9月25日。
前回は、日帰りで、忙しかった。
今回は、泊まって、のんびりしようと思った。
北斎館周辺。2017年9月25日。

多くの訪問者(観光客)で、にぎわっていた。

北斎館

玄関の屋根は、黒く色が変わっていたが、瓦?

栗の小径

小径は、栗の木の栗畳。左の奥は、高井鴻山記念館。

オープンガーデン

これは、町長のお宅で見た花。青花ホトトギス。
前回から6年経つから、もう「オープンガーデン」は、
されていないだろう? と思っていました。失礼しました。

街を歩いていると、大きな絵がある。
葛飾北斎の「傘風子図(さんふうしず)。

小布施堂の栗菓子工場の玄関。

裏の小さな道を歩くと、

緑が多い、屋根は切妻、壁は白か、黄味がかった砂壁、
左の白は土蔵…と、見ていると、
「こんにちは」
と、声をかけられた。
振り向くと、住人の女性だった。
「いい街ですね」と言うと、笑みが返ってきた。
住人が、訪問者にあいさつをする街、小布施!

泊まった宿の夕食。
栗おこわは、うまかった。小布施ならではのサービスである。
地のものとして、稚鮎の南蛮漬け。先附、いくら茄子は、初めてだった。
頼んだ小布施の地酒は、うまかった。

翌日、浄光寺へ。ここで、スラックラインの第1回世界選手権が開催された。
そして、小布施の最後は、栗菓子を買うこと。松本でも売っているが、
小布施といえば栗菓子、その本場で買いたい。

市村良三町長は、高井鴻山の子孫になる。
豪農商で文人の高井鴻山は、小布施に葛飾北斎を招いて、
岩松院の天井画や、祭屋台の天井絵を描いてもらっている。
これらは、葛飾北斎の傑作になっている。

高井鴻山の祖父のときに、名字は、
これまでの「市村」から、「高井」に代わった。
天明の大飢餓で、倉を開いて、困窮している民衆を救った。
この功績で、幕府から、名字を「高井郡」からとって、
「高井」が与えられ、帯刀が認められた。
高井鴻山自身も、天保の大飢饉で、
倉を開いて窮民を救済している。

市村良三町長には、高井鴻山の、
文人と慈善の血が流れている。
1976年の「北斎館」の建設、
1982年の「高井鴻山記念館」の建設、

「町並修景」へと、DNAが受け継がれている。

小布施の住人は、
ヨーロッパの視察研修の成果で、
協働で「まちづくり」をし、
派手な広告や、自動販売機を自主規制し、
外の人と交流して、
「なつかしい、ほっとする、やすらぐ、いやされる」町の実現で、
人口の100倍の訪問者を迎えている。
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