barayuka雑記

人生に迷う人。心の整理、ひとりごとなど。

否定されること、からはじまるあれこれ

2017-11-22 20:28:51 | 日記
「否定しない」って最近よく聞く。

否定ってそんなに傷つくんだな。私も傷ついたって思ったことある。

否定って色んなシチュエーションがあって、なにもかも「そうだよね」と言ってればいいかというとそうでもなくて、本当に羨ましいとかいいところだと思ってほめてみても、相手が嘘だ、と思って受け入れてくれなくても傷ついたと思ったことがある。心をひらくと、そういう風に傷つくリスクもある。

ほめるにも色々あって、似たものに「評価する」というのもあるけど、私は単純なほうで、ほめられたらなんでも喜ぶほうなんだけど、過剰な評価だと感じれば居心地が悪いし、よろこんでたら「お世辞やで」と、気づかない奴が間抜けみたいな感じの背筋が寒くなるなにかを投げてくる人がいる。お世辞でもよろこんでたら本人幸せだからいいやんと思ってたけど、それで空気読めないとか「評価」されるとか、なんてめんどくさいんだ。わかりにくい。それが「暗黙の了解」らしいけど、やっぱさ、ほめて受け取ってもらえなかったら寂しくなるから、私は喜べばいいと思う。まぁ、お世辞は気づけた方がいいのかもしれないけど。

なんでも恐縮すべきなのか、よろこんでいいのか、その辺はコミュニティによってルールが違うのかもしれないし、スクールカーストとか女子カーストとか、私漫画の世界かと思ったけど、そんなもんまともに受け止めてるのかって思ったけど、いがいと世界はそうなんだね。私おめでたい。気にしてないのに「なんで競争するんですか」みたいに言われたの、すごく的を外してるんじゃないかと思う。

何でもって「上」というのかなんて、人によって違うだろうに。愛されることが至上の人がいれば、権力が欲しい人もいれば、仕事好きな人もいるし、趣味や特技が充実してれば幸せな人もいる。それぞれの好きを目指せばいいのに、なんでフラットなフロアで上下を考える?私わかんない。

ややこしいのは、当事者より外部が勝手に気を遣ってあれこれ言うこと、だと思う。


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「いてはいけない」

2017-11-22 20:08:38 | 日記
いてはいけない、いつから思うようになったんだろう。

「いてもいいって思えるまでいてください」

いてはいけない、気がつかなかっただけで、ずっと昔から?いてもいいの条件が、勉強をすることや、仕事することや、場に目的がある時だけだった。与えられたものがある時だけ、わたしには正しい理由があって、そこにいていいように思えた。

でもデイケアには様々な人がいて、それぞれ課題も違っていて、わたしの目標は働けるようになること、だったけど、そのために何をしたらいいのか、放り出されたら突然わからなくなった。

まずは体調を整えること。
心の傷を癒して、混乱を整えて

必要なもののうちそこまでは多分わかってて、そこから、人間関係を作れない自分に気づいて、どうしたらいいかわからなかった。条件付きの人間関係だけ。バイト先、職場、クラブ活動、全て共通の目的を持った集まりだった。それさえ考えてればいいんだと。

その場にいると突然湧いてくる、居心地の悪さ。わたしはひとりでいることを選んでしまう。人と同じようにしてみるけど、うまくいかない。わからない。できているのか、自然なのか、でも逃げたくなるし、居心地悪くなるし、向こうにも迷惑なのでは、とかどこまで踏み込んでいいのかわからない、とか…。

主治医に言われた。自分を守りたいって何。守りたいっておかしいこと?さらけ出すってどこまで?

いてはいけない、ってなんだろう。

見て欲しかったのに、見てもらえなかったから。
無視されたから。
反応がなかったから。
受け止めてもらえなかったから。
事務的だったから。
心を開いてもらえなかったから。
よろこんで欲しかったのに、よろこんでもらえなかったから。
当たり前だと思われたから。
相手が傷ついてしまったから。
傷ついてることに気づけなかったから。

わたしは多分、生きてる実感を感じたい。

実感のある人の中にいたい。

差別されたり仲間はずれにされたとしても。

きっとそんな気持ちを感じられるのは人がいてくれてるからだ、と、わたしは昔もそう思ってたと思う。
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思い出したこと

2017-11-22 20:00:19 | 日記
大学時代、授業に出れなくなって、でもクラブ活動だけは続けてて、そのクラブ活動最後のコンパだったかに、私は「私のことを忘れないでください」と言ったことを思い出した。

それは私が、自分はいつか忘れられてしまう、とわかっていたから、もしくは思い込んでいたから、だから出た言葉で、そう言っても私の不安は消えることはなく、いつもどこかで、人はどこかに行ってしまうと思ってた気がする。

今は少し違うかもしれない。私が、背中を向けなければ。向けなければ…。
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時間と言葉と作業と編むこと

2017-11-22 19:16:37 | 日記
ふと、思ったこと。言葉の認識の違い。
私の言葉は義務教育時代に感覚と深く結びついていた。学んだことは、体の中心に落とし込む感じ。英語が得意で好きだった。英会話教室に行ってて人より学びはじめるのが早かったせいもあるかもしれないけど、よくできたので、優位性を感じられたせいもあったのかもしれないけど、文法の中にある法則性や音を聞いたまま発音することや、色んな感覚と繋がっていた。

そんな私は大学に行ってすぐ躓くことになる。今になって思うのは、好き嫌いがあったはずなのに自分が何が「したい」とか「やりたい」とか目的意識がきちんと持てなかったことじゃないかと思う。そんなわけで中退して、学ぶことは好きだったのに、より深く学ぶことはなかなか出来ておらず、興味のあることは必要に応じて本を買って読んだりはしてたけど、それでも体系的に学んだ人とは認識のずれがあるんだろう。「自分の分野」というものを持てないので、あくまで色んな分野を知っている素人に過ぎない。

正確さや慎重さに関しては自信があったりするのだけど、世の中が捉える「医療」や「福祉」や「心理」の感覚がわからない。だから、私がどんなに自分の言葉を使って症状や困りごとを説明しても、伝わらないんだろうか。

「何がいいたいの?」「何がしてほしいの?」とイライラしながら言われるとき、なんと答えるべきなんだろう、何を求められてるんだろうと考える。私は私の説明の仕方しかできなくて、「だから?」となると、私は私で自分の言いたいことが何も伝わらない辛さを感じるし、咄嗟になんと答えるべきなのかわからなくて返事ができない。

「〜をしたいからこのように手助けしてください」なんて、言えること自体がすごく高度だと思う。何が出来るのですか?とききたい。私は「働きたい」と言うけど、どんなことがしたいとかわからなくて、少し前に好きな作業とかはある?と聞かれたとき、多分与えられたものなら何でも楽しんでやれるのにな、と思った。義務教育時代がそうだったから。

試しにはじめてみたかぎ針編みは、ちゃんと作業として楽しめてる感じだ。愛せてると思う。作り続けてみようと思う。なんでも楽しめる、とわかったら、なんでもできる、とまた思えるかもしれない。



編むことと時間はとても似ていると思った。作業を続けることで何かが形になる、時間を形にする感じ。一目一目を繋げていくことが目に見えて形になって、そのことが自分の実感や自信になる。なるほど、作業療法ってこういうことを言いたいのかな、とふと思った。

時間があって、人がいて、積み重なって、形になる。義務教育時代の語学もそうだった。今の私の場合は、時間ときっかけと、教えてくれる人と、本、あとはひたすら時間。
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