昔物語−土佐・奥物部から−

奥山の昔話を先祖から受け継いだ話を元に編集した物です。今残さないと無くなってしまう…誰も知らない伝承物語です。

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我が家に伝わる法文の数々その2

2007年08月16日 | 秘法

次が 

「山くずしじき」

       どんな山でも 崩すことができる。

「天神金くずしじき」

      どんな鉄でも破壊できる。

「岩割りじき」

      どんな大きな岩でも割れる。

「雷鳴じき」

     どんな天気の時でも 雷を起こして目的の所に落とすことができた。

その昔、菅原道真が無実の罪で、太宰府に流刑された時に

無実をはらさんと 「雷鳴じき」によって帝の館、公家の館に合わせて

36箇所に雷が落ちたという。

さすがの公家たちも、恐れ入ったと言う。

高知にも伝説がある。

山内一豊が城主となって幾年かたった頃の話。

 

 

昭和10年頃までは、「雷鳴じき」を使う人があったと言う。

どんな上天気で雲一つ無い時でも稲光がし雷鳴が轟き、所かまわず落ちたと言う。

 

 

 

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初代日光院の法力その1

2006年11月09日 | 秘法

今から約270年あまり前、宝暦5年に没と古文書にある。

現在、墓も残っている。

さて、氏も大峯山で3年間修行して帰ってきた。

その時の弟子に北平須という人がいた。

別役の宇根の上から3番目の家に住んでいて、今も家も墓もある。

二人は、高知に帰ってからも修行していたという。

別役の東谷の奥にある石灰岩の絶壁を上ったり、下ったり

また、東の絶壁に飛び移ったり、西の絶壁に飛び移ったりしていたという。

空を自由に飛ぶことができ、鳥を自由に捕まえていたという。

そして、ある法文を編み出したのであった。

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法力

2006年11月02日 | 秘法

次に 成楽院行意坊の法力。

三代も大峯山で修行して京都に登り、權大僧都法印を頂いている。

:山でたき物を切り出して、一日に120回家に運ぶ:

これも白人形を12人切って法力をかけると一人前の人間になり

仕事を分担して家に運びつけらした というもの。

氏は、木屋にたき物を積むだけである。

これは、信じられない話だと思うが 明治六年ごろまではこの人形がいたのである。

岡ノ内に三啓という人がいて、「人形が一日7人役の仕事をした」と語っている。

 

小松朝臣 氏も、大峯山で修行をし京都に登り權大僧都法印の位を頂いている。

大乗院 氏も 同じである。

二代目不動院 氏も同じく法印を頂き、天和元年(今から約320年位前)に

寺を相続したと 古文書に書いてある。

不動院の法力

山に入り山頂近くで水が無くて不便な所は、7つ滝を刻みそれを土の中に埋めて

法力で祈念すると不思議に 水が土の中から湧き出たという。

現在でも、不動院の行い水として枯れることなく湧き出している。

我も現地を見て確認している。

また、世次郎の谷奥に高さ約70メートルの滝がある。

この滝を 膝を組んだまま登ったり下ったりして修行をしていたので

それから不動の滝と名が付いたと言われている。

また、“宇根渡りの法文”を編み出し 宇根から宇根へと

200〜300メートルを自由に飛ぶことが出来たのである。

今でも我が家に宇根渡りの法文が古文書として残っている。

それには、この法文を唱えるだけでは飛べない と書いてある。

それなりの修行がいるというわけである。

ある時、香川県の金毘羅参拝に行った。

世次郎の谷奥から つづらの宇根を越えて宇根から宇根へと飛び渡り

上晋川と来る。

そして川幅300メートルの川を飛び渡っていると、普生にいる法者が法文で

飛んでいる不動院に 『投網じき』を打ちかけたという。

氏は、大峯山で修行をしているだけあって、『天神の切り九字』で切り除けて通った。

そして何事も無く参拝を済まして、その日のうちに家に帰ったのである。

 

 

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我が家の伝統いろいろ

2006年11月01日 | 秘法

 

我が家は藤原動白様から約八百年、家が絶えることなく続いている。

これは、先祖代々から 大自然の恵をいただく動植物の聖霊、神仏様、先祖親様へ

大祭を通して、最大の感謝の心を捧げることを親から子へ伝えてきたことがある。

また、代々の当主を仏から御子神に位上げして、家の守護神に加えてきた為である

と考えている。

この伝統は、無形文化財の指定にもなっている。

後を継ぐ者は、この先も続けて欲しいと思って書き残す38代当主である。

 

 

秘法の数々があるがいくつか 書いていこう。

その昔、別役津々呂には 母屋という家があった。

 

母屋と名の付いた家は、代々伝えてきている歴史がある。

別役では、世次郎の母屋、津々呂の母屋、

森ノ下の宇根では、土居の母屋、時石の母屋、須道の母屋の5軒である。

 

さて、津々呂には、昭和50年頃までは母屋という家があったが現在は家地はある。

今から約350年前、正保の時代に 太郎佐ヱ門という修験者がいた。

大峯山で三年修行をし京都に登り(初代)不動院、權大僧都法印と位を頂いた。

氏は、大峯山の修行で 数々の秘法を会得し 家に帰って来たのである。

そして、法試しをしてみたのである。

津々呂の川端の長瀬に こうぞを蒸す所があった。今もくどの跡が残っている。

こうぞとは、紙の原料で使われ始めたのは今から1500年位前ともいう。

さて、こうぞの皮剥ぎを法力で行った。

まず、最初に白神で人形を切り、それに法力をかける。

すると人形が一人前の人間となるので それに仕事をさせたのである。

 

こうぞを畑から切り取って束ね、12束のこうぞを藤のかずらで縛り

直径90センチ 高さ160センチの木で出来た桶の中に入れて一釜の鍋で蒸す。

蒸すこと約2時間、蒸しあがると出して皮を剥ぎ干す。

これを それぞれ分担して一日に7釜仕上げたという。

これを普通の人間がすると12人役かかる仕事であった。

氏は、座ってたばこを吸って見ているだけであったという。

その人形の人間は、話しかけても 物は言わなかったということである。

これが法力の一部である。

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我が家に伝わる法文の数々

2006年10月22日 | 秘法

いくつか 書いてみる。

その一、「身がくい」の法文

この法文は、太夫にとっては一番大事な法文の一つである。

 

その二、「目暗がし」の法文

暴漢などに襲われそうになった時に使う。

かけられた人が一時(約30分ほど)記憶が無くなるという。

現在でも役に立ちそうである。

 

その三、「水に溺れん」法文

川が濁流の時でも 水の上を歩いて渡ることができたという。

 

その四、「火に焼けん」法文

山などが大火事のときでも火の中を自由に出たり入ったり出来たという。

 

その五、「争いごとに負けん」法文

 

その六、「ひきじき」・・・ひきとは蛙のこと

この法文を使うと、家の周りを何千匹もの蛙が埋め尽くすという。

似たものに 「蛇じき」…何千匹もの蛇が埋め尽くす

        「鷹じき」…どこからとも無く数十羽の鷹が急降下し蛇を捕まえていく

 

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おい縄と川渡

2006年10月19日 | 伝説

おい縄とは、その昔は 三尋片負い(みひろかたおい)と言っていた。

今で言うと約5辰らいの長さのロープになる。

※1尋=人が両手を左右に伸ばした長さのことで、身長によって違っていた。
     1尋は大体5尺(約152cm前後)/1辰六絢椹粟

また、山に行く時は腰にグルグルまいて、鎌やエガマを差していた。

帰りにはこのロープで薪や干し草、穀物を背負って来た。

家に帰ると必ず輪にして縄かけに掛けて大事に扱っていたのである。

山へ行く時には、ちょと変わっていることもしていた。

ロープを二つ折りにする時に片方を20造らい短くするのである。

でおぎゃあ泣きの化け物に行き遭った時、そのおい縄の短い方を

半分切っておぎゃあ泣きにやるように 魔よけにしていたのである。

おぎゃ泣きの化け物は身長一誕らずの子供の位の大きさで、

口が顔の半分はあったという。

何年か前に話題になった 口裂け女の元になったのではないかと思っている。

それが、「裸足で足が痛い、で背負ってくれ」と足元に来てすがって泣いたという。

小さいと思って背負ったら大変、重さは80圓呂△辰燭箸いΑ

そこで、先のおい縄の20唾擦なを切り

「急に腹が痛くなった、この縄をやるから誰かに背負ってもらえ」

と 騙したのである。

すると、その縄を持ってどこへともなく居なくなると言われていたのだった。

 

他にも、縄が一人歩きをして、山に出かけた人に 「首をくくろうや」と誘うという話。

山に入っていて 急に死にたくなることもあったというから、なにやら恐ろしい。

山の中で 化け物につけられた死人が今でもあるのは事実である。

 

前置きが長くなったが…

伝蔵は、数多くの人が見ている前で おい縄の法文を唱えると

3辰旅發気某燭団召阿卜てらかしたと言われている。

他に、川にどんなに水があっても 法文で渡ることができたと言われている。

自分だけでなく 人も背負って一緒に渡ったという。

その時背負ってもらう人は必ず渡り終えるまで目隠しをしていたのである。

気が付いたらいつの間にか川を渡っていたという。

 

これらが 伝蔵の目暗がしである。

普通ではない法力が使える人物であったらしい。

何か修行をして 身に付けていたのではないかと思う我である。

 

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目暗がし

2006年10月17日 | 伝説

旧物部村別役、市宇の街道近くに土居という家がある。

長宗我部の時代からあり、現在も家は、残っている。

徳川時代の中頃、この家に伝蔵という 目暗がしの人がいた。

目暗がしとは、今のマジックみたいなものである。

伝蔵という人は、数多くの技を知っていたのである。

その一つに 一升徳利をつかったものがあった。

今の一升瓶とは形が違っていた、今も現物が残っていると思うが…。

 

さて、伝蔵という人は、人が大勢見ている前で一升徳利の中へ入って見せていた。

ある年の12月末のこと、どの家もお正月の整えの買い物をしている時期である。

米、酒、反物と 正月にいるものは総て、4km西の岡ノ内という部落に売っていた。

2軒の店屋があった。

伝蔵も正月にいる米、酒を買いに岡ノ内へ出かけた。

別役から岡ノ内の間には世次郎、百尾、中内の順に部落があった。

中内まで来ると、ちょうど12〜3才の男の子が5〜6人、親の言いつけで

徳利を持って酒を買いに行く所に出会った。

しばらくは、一緒に歩いていた。

昔は荷物を背負って歩くので所々に休む場所があり、丁度そこへ通りかかった。

誰とも無く立ち止まり休んだ。

そこで、おもむろに 子供達に

このオジイが その徳利の中へ入っちゃおか(入ってみせようか)」 と言うと

なんでこんなもんに入れるがでェ」と、真にしない。

ほんならその徳利を道の真ん中に置いてみいや。見せちゃおき」と言った。

さすがに子供達も 興味があるので 見たくなった。

道の真ん中に徳利をおいて 輪になって見ていた。

子供に

今から入るきに 懇ろに見よりよ」と言って なにやら法文を唱えた。

すると伝蔵の体は見る見る小さくなり

徳利の中へ びちくりながら入って行きいなくなった。

子供達は不思議に思い徳利の中を覗いてみたが、中にはいない。

逆さにして振ってみてもでて来ない。

子供達は困りはて

オジイが 徳利の中から出でこん」と言って泣いていた。

さて伝蔵は、どうしていたのか???

ここから1km先に 花儀野という宇根があった。

ここへ来ると 百尾に帰る人に 頼んでいたのであった。

徳利に入ったオジイは、この先を行きよったでぇ」と

 

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継子いじめ3

2006年10月15日 | 伝説

しかし、女の力では なす術も無く たちまち 足の方から呑み込まれ始めた。

気付いた姉はあわてなかった。

研ぎ澄ました鎌を2本、鎌の刃先を外にして妹の両手に持たせたのである。

大蛇は、そんなことに気付かず次第に呑み込んでいく。

研ぎ澄ました鎌は 大蛇の口の両脇から下にずんずん切っていった。

とうとう体の半分近くまで切り裂かれた大蛇は、呑みこむのを止めた。

時すでに遅し・・・

流れる血潮で 辺りを染めた大蛇は、出血多量で死んでしまったのである。

姉の知恵のおかげで 妹は助かったのだ。

その頃家では、後妻が 子供達は大蛇に呑まれたと心で笑っていた。

そこへ姉妹が 何事も無く 帰っていたのである。

。。。。。。

流石の後妻も良心が咎めたのか だんだんおかしくなっていったという。

そして 遂には狂人となり 首を吊って自殺してしまったと言う話である。

これ すなわち天罰である。

 

次は、昭和の時代の話

どんな山奥にも小学校ができ 子供達は皆学校へ行くようになった。

その当時は、生徒はお昼は家からお弁当を持ってきて食べていた。

ある子供は、弁当は持ってくるが中身が入っていなかった。

しょっちゅうのことなので不思議に思った先生の話により

親戚の人が 学校に行く途中で弁当の中を開けて調べたという。

道々食べてきて 空になったのではないかと疑ったのである。

しかし、何回みても 空であった。

その子の 母は、継母であったのだ。

これも 継子いじめである。

継母は、自分の子供を何人も育てたという。

しかし、そんな継母は、年をとっても 自分の子供には世話をしてもらえず

虐めた継子に 死水を取ってもらったのである。

 

人の一生は終ってしまうまで どうなるものか分からない。

自分のこどもであれ、他人の子供であれ、育てるからには分け隔てせずに

平等にして育てるような親心が無ければ 親の価値がない と強く思う我である。

 

 

 

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継子いじめの話2

2006年10月14日 | 伝説

明治・大正・昭和になってからは、自分では手にかけず、

他人に大金をだして頼んだり、人の行かない危険な所へいかせたという。

 

ある部落の話。。。大正の頃

国有林の近くで共同で焼畑をして、後は個人別に割り地にして

それぞれが あわ・ひえを作っていた。

秋の取り入れの時期のことである。

ある家に 15才、12才の姉妹がいた。

実母に死なれて 父親と住んでいたが 後妻さんが来た。

2年後に、男の子が生まれたが、後妻は子供が大きくなるに連れて

先妻の子が邪魔者になり 何とか亡き者にしようとしていた。

 ちょうど良いことに、ひえを作っている近くの国有林の中に大蛇がいて

子供や犬を襲って困っていた。

後妻は、ここに目を付けたのであった。

何とか機会が無いものかと思っていると、ある日のこと近所に不幸があった。

大人は刈りに行かないことを知ると これ幸いと姉妹に刈りに行かしたのである。

丁度この時期大蛇は冬眠する前で獲物を襲うのである。

姉は、賢くよく気転が利いた。

大蛇がいることを知っていて、大蛇に呑まれても助かることを考えていた。

その日は、かまを2本づつ 懇ろに研ぎ澄まして山へひえを仮に行ったのである。

二人でひえを刈り、昼飯を食べようとしていると、

どこからか忍び寄ってきた大蛇が 妹に襲い掛かった。

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継子いじめの話1

2006年10月12日 | 伝説

徳川時代から昭和20年頃までの話

よく聞かされた時代物の話 大岡裁きの名場面がある。

いじめは ほとんどは家庭内の事情であって、人知れず苦労した人も多いのである。

 

徳川時代の末頃、ある所に継母がいた。

我が子が生まれて 継子が憎くなり欲の深さに迷いこんだのである。

愚かにも先妻の子供を亡き者にしようと思い ある夜のこと

何も知らずに寝ている3歳の子供の首を紐で締めて殺したのである。

そして、次の朝早く 味噌を作るかまの鍋(直径80センチの大きな鍋のこと)の中で

まめと一緒に煮ていた。

しかし、世の中の道理が許さないのである。

天知る、地知る、人が知る。

当時は、味噌を炊いていたら 誰でも必ずそれを少し味見していくという習慣があったのである。

悪い事は出来ないものである。

丁度そこへ通りかかった役人が味見の為に 鍋の蓋を取ったのである。

なんと、紛れも無い人間をまめと一緒に炊いているのを見つけたのだった。

継母は、お縄にされた。

そして部落の 一番人の通る道で みせしめになった。

肩から下を地面に埋めて 首を出しておき 通る人に

「我も 継子を育てているが、そんなに憎くはならぬぞ」と言わし

のこぎりで 一引きづつ引かせたのである…

 

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通り魔伝説2

2006年10月05日 | 伝説

さて、祈祷師は 用意播但で 寝たふりをしていた。

夜中の 丑三時 山の上のほうから

風を切る音と どしどしと足音が聞こえ出してだんだん近づいてきた。

よく 聞いていると 金属の杖をついている音もしていた。

まもなく 寝ている所へやってきた。

すると 立ち止まり

「石の間に 生ものがある」

と言って カネの杖でつついて 世次郎の方へ立ち去っていった。

 

祈祷師は、よく見ていた。

通り魔は、身の丈2メートルで体中鬚だらけ

頭には角が生え、目は一つで、顔は丑の様な者であったという。

 

なんと、この祈祷師はカネの杖でつつかれた所から腐りだし

ついに全身に広がり 死んでしまったという。

 

さて、この通り魔の行く先は。。。

世次郎のほうへ道伝いに東に来て 宮の宇根に来ると

ここから下に降りて 仁井田神社の端を降り 北屋敷のつかい川に来た。

そして 北屋敷のある道を北屋敷の家のツボを通っていったという。

そのうち、北屋敷の山伏がその通り道に 厠を作ると 道をかえて

今度は、屋地の石掛の元を通り また、ツボに上がり 南の中森へ行き

そこから下に降りていった。

そして、おじがさこの不動院小屋のそばを通り、津々呂母屋の家の後を通って

松葉の家の座敷を通っていた。

この家も通り道に厠を作ると道を変えて 家の屋地石掛の元を通ったという。

そして、森の下の横を通り、津々呂を渡りまた、川を渡って長瀬に登り

宇根を越して谷口に行き そして酒岩山へと登っていった。。。 という。

 

どうしてこんなことがわかるかというと

雪の降った朝にみると 餅をつく杵のような足跡が続いていたと

我の義父から聞いた話である。

昭和18年まで生きていた 我の実の祖父 文次も 

通り魔に行き会ったことがあると聞いている。

最近では、世次郎の照子さんの話によると

岡ノ内のある家の前を通り魔が通っているらしい。

今でも恐れられていると聞いている。

 

通り魔は、どこかに潜んでいるのではないだろうか・・・

 

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通り魔伝説1

2006年10月02日 | 伝説

世次郎・津々呂にかけて 昭和30年頃までの話である。

通り魔 とは… 正体は不明。

足は、在る物のようで 雪の降った時は、雲の上に足跡を残していたのである。

我も 見たことがある!

宇根づたいに高い山から降りてきて川を渡り、また山を登っていく物であったという。

 

さて、津々呂の右上の方に、 須道 という所が今でもある。

なんと、母屋の家の真ん中を通り魔が通っていったというのである。

。。。夜中頃になると どしどしという足音が聞えてきて、裏手の戸を開け

障子を開けて家の中を通りぬけていった。。。そうである。

それで

「通り魔の通り道には、床を敷いて寝られん」 と言っていた。

通り魔に出会うとどうなるか?

ノイローゼになったり病気になると恐れられていたのである。

 

さて、今度は、百尾と世次郎の境に ひそしの宇根という所がある。

ここは1200メートルの奥山まで尾根伝いになっている。

ある晩のこと

通り魔がこの宇根を下へと降りてくる場所で 

ホリタニ祈祷師が 自分の体を法文で囲って 通り魔の正体を見ようとした。

しかし、その祈祷師は足の親指を法文で囲っていなかった・・・

 

現在でも祈祷師は 身囲の法文は知っている。

それは、いつも目に見えないものを相手にしているからである。

 

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おまけ

2006年09月30日 | 伝説

久太の時代にあった事件である。

宇根の上に前科者がいた。

悪行、盗賊、殺人をしていた 冨次 という男である。

その男を三人で取り押さえて お縄をかけ奉行所へ連れて行き取り調べた。

その結果 人の見せしめにする と言うことになり、

また、別役まで 唐丸駕籠で送り返されて打首になったのである。

栃ノ木谷の宇根崎が場所にきまり その構えが大変だったという。

見物人が 大勢押しかけてきて 東から西へ溢れかえったという。

西は、須道まで立ち並んだという話が残っている。

奉行所から 首切り役人がきて首をはねた後は悪党はいなくなったという。

これが おまけの話である。

しかし 徳川時代も終わり、明治となって庄屋制度はなくなり

明治四年には、廃仏令、神仏分離令ができて

修験山伏は廃止となり、文明の時代となった。

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税金

2006年09月29日 | 伝説

徳川時代は、普通の人は、税金のことを供物と言っていた。

別役にくる税金は、十三石六斗であったという。

これはお米での計算であるので お金に買えて納めていた。

隣の 岡ノ内は、三拾石九斗二升、

市宇が 五石、 別府が 八石二斗 

これは、我が家にある古文書に出ている。

土佐の国二十四万石とは、お米の石高のことである。

 

十三石六斗をお金に換算して、根木屋領地の四軒を除いて

田んぼを作っている三十八戸で割って集めた。

大栃の庄屋へは 弥門が納めていた。

 

この供物についても 旧庄屋は悪行の人であった。

分からないように三十八戸の家に 自分の分までも割り当てて

何十年もかけていたことが 弥門の調べで分かったのである。

 

次が、養子久太の時代の話。

弥門の妻には、根木屋須賀井から お金という人が来ていたが

子供がないため、津々呂杉の本の善四郎長男 久太を養子にしたのである。

 

これより先に、世次郎新屋から松蔵という人が養子に来ていたが

組頭が務まらず 暇を出したという。

ただでは戻せないので 北屋敷の家の後ろの土地をつけて暇を出したのである。

その後、大栃から大庄屋が上がってきて、その庄屋の采配で

「養子は久太にせよ」となったという。

久太の妻には、 宇根の上 宇和西から お台という人が来ていたのである。

 

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津々呂母屋の土地

2006年09月28日 | 伝説

 

そこで物部の各部落から 代表が出て迎えに 行くことになったのである。

別役からは、津々呂 母屋の太郎左衛門が静岡まで迎えに行ったのである。

山内一豊から お礼の言葉があった。

「家が滅亡した後の土地、また誰の土地でもない所は、皆調査して付け出せ。

その土地は、遥々迎えにきてくれたお礼にくれてやる」

 

家に帰り、調べて付け出した所、母屋の土地はいたるところに出来た。

何がしの地の下に九石、八斗やれ、赤いその下、宇根の下とあった。

しかし、当時静岡まで迎えに行くのは 大変なことであったと思われる。

 

行き帰りで 少なくとも15両は要ったのではないだろうか?

それから何代かして、次男に松ば、三男に梅の元に分家させたとある。

八代将軍吉宗、享保の時代に農地改革で、何箇所かの山を部落の少ない人に

分けたと言う。

しかし、山内一豊の迎えに行っただけあって、

別役から市宇別府まで 三部落の総組頭を代々することになる。

各部落に三人の組頭がいた。

仕事は部落のもめ事、犯罪、前科者の取り締まり、

官山の番人、供物の取立ての仕事をしていたという。

次に弥門の時代 庄屋が権力を笠にきて、世次郎官山でヒノキの大木を盗伐して、

それを奉行所に届け出されていた。

当時は世次郎奥山、宇根の上観修、崎岩山はお殿様からのお止山があった。

奉行所から、弥門に庄屋をお縄にして連れて来いと言うことになったという。

しかし、なんと言っても庄屋は目上であり、言いづらかったという。

役目でしかたなく事の次第を話して奉行所まで連れ出したという。

その後、奉行所で取り調べられ、庄屋は免職となったのである。、

その後五年間、庄屋の代理を務めた。

その時に、奉行所から庄屋になるように言われたのだが、

後継が もし権力を笠にきて、悪行をすると我のように目上であっても

お縄にしなくてはならない。

庄屋をお縄にしたことが辛かったのでしょう。

庄屋を請け合うのを辞退したという。

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