むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

八崎城(群馬県)

2020年04月03日 | 百名城以外の城
八崎城はっさきじょう
別名不動山城
構造崖端城(平城)
築城者長尾憲景
築城年代1532年~1555年(天文年間)
指定史跡
場所渋川市北橘町分郷八崎 地図

八崎城は、天文年間(1532~1555)に白井長尾氏によって築かれました。
上杉・武田・北条・真田などにより幾度となく争奪が繰り返されていました。
長尾憲景死後、次男輝景が白井を継いだが北条の人質になっていた小田原の
三男政景が八崎城に入城すると小田原の役後には白井城主となり前田利家に降りました。
こうして八崎城は1590年(天正18年)に廃城になりました。



分郷八崎(名称)由来記

分郷八崎公民館にある案内看板。
分郷八崎村は江戸時代以前から八崎郷と呼ばれていました。
三つの村に別れ、それぞれの名称が付けられたが合併による改名でも八崎村の名称は残されて来ました。
分村、合併を経て「分郷八崎」の名称は今もこの地に残されています。


入口

案内の標柱に従い、ここを真直ぐ下ると大きな堀になっています。


堀底

本丸まで車を乗り入れ出来そうですが、
堀底は写真の見た目以上にぬかっていて滑ります。
歩いていてもすってん転びしそうだったので、
車もスタックしかねないので今回も乗り入れは断念。



本丸前の西側の堀はしかっり残っています。



右手に案内看板が見えて来ました。
この上が御城(本丸)と呼ばれる場所になります。


案内看板

案内看板の撮影に難儀したのは3本の竹。
現地で読むには隙間から読めますが、写真に全体を納めようと思うと
この3本の竹が邪魔して来ます^^;


本丸(御城)

利根川の浸食により現在残された三角の本丸跡です。


二の丸

城の内と呼ばれる二の丸へやって来ました。
かつてはこの道沿いに土塁があったようですが住宅が立ち並び
道の先も終点が宅地の庭に行ってしまい、進入すると申し訳ない状態です。


大手道

本丸から続くほぼ真直ぐの道が大手道となります。
この先は八崎宿となっています。


西曲輪

大手道から西側の利根川の断崖上にある西の曲輪にやって来ました。
こちらには遠目にもわかる土塁が畑の中にまだ残っているようです。


おくらやしき

西の曲輪から北へ向って平地が続くこの方面が「おくらやしき」と
呼ばれる地区です。


八崎宿

再び大手道に戻って来ました。
八崎宿は八崎城の城下町として発展し、
沼田街道西通りの宿場として栄えた地区です。


案内看板

渋川市営バスの分郷八崎バス停横に案内看板が設置されています。
バスを待つ間の退屈しのぎに良いですね。



宿場町の面影を残す大手道の街道沿いには雙玄寺があります。
こちらも城域となるので、何か遺構が残っていないものか
立ち寄ってみました。


雙玄寺

長尾憲景が開基したといわれるお寺です。
こちらには室町時代の古い六体の地蔵が刻まれた
「六地蔵」(市指定重要文化財)が本堂あります。
かつて上野国勢多郡拝志庄(はやしのしょう)と呼ばれていた頃のものです。




雙玄寺の西側、境内と墓地の間に流れる小川は
かつての堀と思われます。


山門

街道から真横に入り、この山門をくぐって来たのですが、
ここから真直ぐ見て、自分が正面から入って来なかったことに気付く^^;
(奥に入口の門柱が見えます。参道はこっちでした)


外堀

東側の堀は菜の花も咲き、もう少しすると桜も咲きそうです。



東を流れる水堀は、本丸方面に近ずくに従い、
深くなっていて、この先は堅固な守りとなっています。
また、この先深堀を挟んで東側に後から築かれた新曲輪があるので
そちらに行ってみたいと思います。


新曲輪

関越自動車道の真下にやって来ました。
ここが新曲輪になります。
以前訪れた時にもここまで来たのですが、その時は何も資料を
持っていなかったので深く追求はしませんでした。



畑になっていますが関越道北側のこの畑を目印に
周囲は藪ながら、新曲輪の面影を感じることが出来ます。


この後、利根川から断崖の城跡をとらえてみようと試みたのですが、
昨年の台風の影響で河川敷の公園には降りることが出来ませんでした。
河川敷の散策もしたのですが花々が咲き誇る中、路面は削り取られて荒れたまま。
残念ながら公園としての利用は難しい状況です。
この光景を目の当たりにすると、
本丸が利根川に削られるという話に納得させられました。
※公園内立ち入り禁止のため写真は無しです。


平成29年7月15日登城
令和2年3月20日再登城





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