むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡る旅と日本城郭検定1級合格を目指してます。近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

墨俣宿跡(岐阜県)

2017年06月18日 06時04分55秒 | 関所・宿場
設置 1602年(慶長7年)
廃置 明治3年~5年
場所 大垣市墨俣町墨俣173
【 地図 】


墨俣宿は東海道と中山道を結ぶ脇街道として整備されました。
宿駅伝馬制度が敷かれてからは6つの宿駅が設けられ、墨俣宿もその一つでした。

美濃路は1600年の関ヶ原の戦いでは徳川軍勝利後、
家康が凱旋した道で「お悦び街道・吉例街道」と称されています。

史跡墨俣宿

本陣・脇本陣・問屋・渡船場が置かれ琉球使節や朝鮮通信使の通行をはじめ、
多くの人馬の往来で大変に賑わっていました。
将軍の上洛をはじめ、幕府へ献上の鮎鮨や、象などの珍獣も、この街道を通っていったなど、
一般民衆の旅の利用はもとより、多くの事件や物語、伝説、史跡、名勝なども沿道に残されています。


墨俣宿碑

大垣城・戸田氏十万石の城下町として繁栄し、当時美濃では最も大きい町でした。
天保期の「宿村大概帳」によれば、家の数903軒、人口は5136人、旅籠屋11軒、本陣1軒、
脇本陣1軒、問屋場1ヶ所、助郷村22ヶ所、茶屋6軒でした。


案内看板

中山道の垂井宿・追分(岐阜県垂井町)で分かれ、
東海道の宮宿(名古屋市熱田区)に至る約14里24町15間(約57km)で、
政治上・経済上からも重要な幕府直轄の街道となっていました。



当時は道の両側には大小の旅籠や商店・茶店などが肩を並べて建っており、
美濃路の宿場の中で最も賑やかな宿場でした。


脇本陣

脇本陣は、本陣のみにて大名などが泊れない時に利用した休泊施設です。
安藤家の子孫が代々勤めた。



明治24年(1891年)の濃尾震災の際に倒壊し、現在は隣接する本正寺に山門が残るのみです。


七里の渡し(海路)や三里の渡し(木曽川河口)より安全性が高く、
関所の取締まりも厳しくないので遠回りでも女性にも重宝されました。
天候に左右されず予定通りの通行が可能なため、七里の渡しを嫌う旅人が多数利用していたようです。

墨俣城から近いので合わせて墨俣宿も散策すると一夜城だけでなく城下町の発展が
良く分かりおもしろいと思います。


平成29年5月4日 訪問
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