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英国とムガル皇帝 その①

2007-10-03 21:25:16 | 読書/インド史
 インドの植民地化に絶大なる貢献を果たしたのが、イギリス東インド会社なのは言うまでもない。会社と銘打っても、実態は手段を選ばぬ謀略と暴力を駆使、富の略奪を実行した一つの政府であり、ヴァイキング顔負けの海賊行為を働いていた。だが、インドにおける東インド会社の出だしは至ってささやかなものだった。

 1623年までスーラト(西部グジャラート州)、バローチ(現パキスタン)、アフメダーバード(西部グジャラート州)、アーグラー(ムガル帝国首都)、マチリーパトナム(南部アーンドラ・プラデーシュ州)に交易拠点である商館が開かれた。当初から会社は交易と外交を、戦争と商館が位置する地域の支配に結び付けようと図る。
 英国にとり、南インドの状況の方が好ましかった。ヴィジャヤナガル王国が1565年崩壊した後、その地には強力な現地勢力がなく、多数の小国が乱立していたからだ。それらの国を煽動し手なずけたり、または武力で脅すことも容易かった。

 1611年、英国はマチリーパトナムに南インドで初の所謂「商館」を開く。しかし間もなく英国は活動の中心を在地のラージャーから1639年に借地権を得たマドラス(現チェンナイ)に移す。ラージャーは港の関税収益の半額を支払う条件で、英国がその地を要塞化し治めることを許可、鋳造権も与える。英国は商館を取り囲む小さな砦を築き、それをセント・ジョージ要塞と呼ぶ。

 この会社が当初から己の領土が征服されるのに掛かった費用をインド人自身に負担させると決めていたのは、興味深い。1683年、会社取締役会は、マドラスの出先機関に以下のように書き送っている。
いかなるインドの王やインドのオランダ勢力でも攻撃を恐れるように、我々の要塞と町(マドラス)を徐々に強固にし要塞化するように求める…しかし、住民が全ての修復と要塞化の費用一切を負担するべく事を進めるように(しかし、全ては穏当に)望む…

 イギリス東インド会社は1668年、ポルトガルからボンベイ島を獲得(英国国王から移譲された)、直ちに要塞化する。ボンベイ(現ムンバイ)は大きくかつ防衛可能な港を有した。当時英国の交易が台頭しつつあったマラータ勢力に脅かされていたこともあり、間もなくボンベイは西海岸ではスーラト以上に重要な拠点となる。

 東インドでも、イギリス東インド会社は1633年オリッサに最初の商館をいくつか置いた。オリッサは古代にはアショーカ王に征服されたカリンガ王国の地である。1651年、会社はベンガルのフーグリにおいて交易を行うことを許可された。じきにベンガル・ビハール地域のパトナー、バラソール、ダッカその他の地に商館が開かれる。そして会社はベンガルでも独立した居住地を持つ野望と、インドに政治権力を打ち立てる夢を抱いた。既に1687年、取締役会はマドラスの知事に次のように指示している。
将来に亘ってインドにおける広大かつ安定したイギリスの支配の基礎となるような民事、軍事勢力としての政策を確立し、多大の地租を創出し、確保するように…

 その2年後、取締役会はこう宣言する。
租税収入の増加は、交易と同じくらい重要な我々の関心事である。それは20の予期しない出来事が交易を妨害するかもしれない状況で、軍事力を保持させ、我々をインドにおける一国家とする

 増長した英国はついに1686年フーグリを掠奪、ムガル皇帝に戦いを仕掛け、対立が勃発する。時の皇帝は6代目アウラングゼーブ陳舜臣氏の小説『インド三国志』の主人公である。
その②に続く
■参考:「近代インドの歴史」ビパン・チャンドラ著、山川出版社

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