トーキング・マイノリティ

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虐殺の事実はない

2005-07-10 00:25:08 | 読書/中東史
 かつて栄華を誇ったオスマン・トルコ帝国の末期は、民族、宗教対立で血塗られたものだった。様々な宗教、民族が共存する「パクス・オスマニカ」が全て裏目に出る形で、トルコ帝国は瓦解していく。その流れで起きた最大の悲劇が19世紀末から第一次世界大戦にかけてのアルメニア人虐殺であり、一般には百万人ちかくが犠牲になったと言われている。

 「ユダヤが三人いても敵わない」と言われる程アルメニア人は商才に長けた民族だった。オスマン全盛期にもギリシア人と並び経済を牛耳る者が多かったとか。ちなみにロッキード事件の証人コーチャンもアルメニア系である。
  が、西欧列強の侵出により、キリスト教徒のアルメニア人の中には西欧の支援を受けて特権を享受する者も現れ、また独立を目指す民族主義も盛り上がる。中に はオスマン官吏を狙った爆弾テロ活動を行う者すらいたので、帝国の大半を占めるムスリム(イスラム教徒)との間に軋轢が生じるようになる。特に露土戦争 (1877年)時にロシアに協力した者もいて、ロシアの占領地からオスマン帝国に逃れてきたムスリム難民たちから、キリスト教徒のアルメニア人がロシア軍 に協力してムスリムを追放したとする風評が広まり、彼らを国内にいながら外国と通謀しテロを行う危険分子と見なす敵愾心が高まっていった

 1894 年、ついにムスリムとアルメニア人の大規模な衝突が起き、オスマン政府は軍隊を動員して衝突を鎮圧し多くの犠牲者が出た。西欧世論に訴え、首都でデモを 行ったアルメニア人に対し、外圧を笠に着た横暴と感じ激昂したムスリム民衆が彼らを襲撃する。この衝突はまもなく沈静化するが、不安に駆られたアルメニア 人は欧米に移住する者が続出する。

  第一次大戦時にまたしても対立が再燃する。オスマン帝国側のアルメニア人の中からロシア 軍へ参加したり、ゲリラ活動に入る者が数千人単位で現れ、アルメニア人ゲリラによりムスリムの村落が襲撃され、ムスリムが殺害される事件も起きたという。 これらの行動に対し、オスマン政府は1915年5月頃、戦闘地域での反国家・利敵行為を予防する目的で、ロシアとの戦闘地域であるアナトリア東部のアルメ ニア人をシリアの砂漠地帯へ強制移住させる政策を開始する。移住の途中、トルコの他にアラブ、クルド、チェチェンの民兵による「報復」があり、夥しい数の 犠牲者が出た。アルメニア人側によると、一連の迫害の死者は約百万人と算出している。

 第一次大戦後から現代に至るまで、トルコ政府は一貫して「虐殺の事実はない」と事件そのものを否認し続けている。また殺害したのは戦闘員やロシアと通じたスパイのみであり、その責任も遂行者である当時のオスマン政府にあると 主張。数年前、アルメニア・ロビーの影響を受けてフランスが虐殺事件の非難決議を行ったが、トルコ政府は直ちに第二次大戦後のアルジェリア独立時の犠牲者 は百万に上った出来事を取り上げ、フランスを牽制。人権と文化の国を気取るフランスは今度は自国のスネの傷を暴かれる羽目になった。

 私 はトルコやフランスを糾弾する目的でこの記事を書いたのではない。世界史でこのような迫害・虐殺事件は絶えた事はなく、これ以降も起こるだろう。だから、 日本人も過去の植民地支配や戦争行為を恥じることはない。弾劾するのが、近代の一時期を除き一貫した覇権主義国家やその属国なら尚のこと。


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2 コメント

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難しい (bouzu)
2005-07-25 20:24:23
こんばんは。

こうした主張をすると、すぐ右傾、戦争容認と結びつけ非難されますが、そういうことじゃないんですよね~。

私はすごく共感しますし、ニュースにも掲載させて頂きましたが、こうした視点をうまく伝えるにはどうしたらいいのかなかなか苦慮するところです。

認めることが先でなく、まず自分の立場が確立してこそだと思うのですが、日本の本末転倒の平和感がすこ~しましになるように、また面白い記事読みに来ます。

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コメント、ありがとえうございます (mugi)
2005-07-25 21:22:08
こんばんは、bouzuさん。



人の振り見てわが身見直せ、といいますが、己の非を棚に上げ、他国を悪者に仕立てるのが外交で、道徳など省みられない。

これが歴史を学ぶ者共通の“歴史認識”なのです。友好などマジに信じるのは、あまりにも甘ちゃん。

司馬遼太郎いわく、「もし他国への侵略行為を糾弾する資格があるとしたら、イヌイット(エスキモー)くらいだろう」。
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