トーキング・マイノリティ

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一女性作家の見た安保騒動 その二

2016-01-30 20:40:07 | 読書/ノンフィクション

その一の続き
 それでも、60年安保闘争塩野七生氏の世代にとっては一大事件だったそうだ。現場を経験する日が重なるにつれ、氏はこのように考えるようになったという。機動隊員に向かい、税金泥棒、と叫んだ帰路、我々学生は税金を払っていないのに、払っているのは彼らの方ではないか、とか。また、強行採決反対というのも、民主主義政体ならば50%プラス1票を得た側に政治をする権利があるのだから、その人々が行う採決方法が強行であろうと何であろうと関係ないのではないか等。
 塩野氏は頭の中が諸々の想いでこんぐらかってしまい、リーダーたちの絶叫するアジ演説も、素直に入って来なくなってしまったそうだ。そのような状態にあった氏に、最後の一撃を与えたのが、安保の自然通過の夜だった。

 その夜、塩野氏は男友達の1人と行動を共にしていて、学習院グループではなく慶応グループにいたという。このグループが配置されたのが首相官邸の門前。課された任務は、内部にいる岸信介を一晩中閉じ込めておくこと。しかも、なぜ慶応グループを門前に配置したのかといえば、慶応の学生ならば穏健だから、官邸突入のような過激な行動に走らないであろう、というのがその理由。
 そして、首相官邸と国会の周囲を埋めたデモの大群は、「勝った勝った」と大合唱しながらの座り込みで夜を明かした。

 何が勝ったのか、と塩野氏は思ったという。我々が粉砕を叫んでいた日米安保条約は、その間にも国会を自然通過、つまり成立していたのだから。首相を官邸に閉じ込めたことと何が関係あるのか。一晩外に出さなかっただけで、勝った、勝ったと叫べるものなのか、と。これは嘘だ敗れたのに勝ったというのは嘘だ偽善以外の何ものでもないと氏は思ったそうだ。

 偽善とは辞書によれば、うわべを飾るための善行、と説明している。では、1960年6月18日の夜の“善行”とは、我々デモ参加者に向かって行われた演説では、市ヶ谷で自衛隊が待機しているから、我々はその挑発に乗ってはいけない、これ以上の犠牲を出さないためにも、今は自重が大切だ、とまあこんな感じのものだった。国会突入も首相官邸突入も“自重”せよというのが“善行”なら、それは分る。手段として有効ではないということだから。
 しかし、目的完遂には失敗しているのに何故、勝った、勝ったと言えるのか。これは、偽善であるとは知らないで偽善を行う人の思い込みに過ぎない、と当時の塩野氏は感じたそうだ。つまり、現実を直視していないという証拠だ、と。氏が左翼特有としてもよいこの種の偽善を嫌悪するようになったのは、あの夜からのことだったと語っている。

 しかし、氏が感傷的な思い込みによる偽善から訣別はしても、それに代わる何かもてる様になるには、すぐにという訳にはいかなかったらしい。眼の前に立ちふさがっていた厚い壁が消え、窓が全開されたような想いになれたのは、卒論の準備に入ってからだという。卒論のテーマは15世紀フィレンツェの美術史であったため、まずは時代を知ることが先という理由でルネサンス時代の勉強を始めたが、ここで当然ながら、マキアヴェッリにぶつかる。
  
 彼の思想の何処が自分に開放感を与えてくれたのかは分らない、と言いつつ、マキアヴェッリの説く、冷徹に人間性の現実を見極めることが何よりも先決するという考えを知って、心の底からすっきりしたと話す塩野氏。目的と手段の明快な分離の必要性も納得できたし、何よりも敗れたのに、勝ったなんて言わないところが気に入った。要するに偽善を徹底して排除する彼の考えが、嘘だ嘘だと思いながらも何故嘘かを分らないでいた場所から氏を救い出してくれたそうだ。
 それ以降もずっと、暗い道を進む自分の前をカンテラで照らしてくれる人物の1人に、マキアヴェッリがなってくれたとか。冷戦体制崩壊を機に脱イデオロギーが叫ばれはじめたが、氏個人としてならば、その30年以上も昔にイデオロギーから脱却していたと語る。その契機が60年安保で、脱イデオロギーへの道を照らしてくれたのがマキアヴェッリだそうだ。
その三に続く

◆関連記事:「ルネサンスの歴史オタク
 「マキアヴェッリの民衆評価

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