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ある日カッパ姉ちゃんとカメラおじさんの家に一匹の子犬がやってきた。
日々のうつろいの発見と冒険を胸に生きていこう!

愛するココロ-30-

2007年10月12日 | 投稿連載
      愛するココロ  作者 大隈 充
         30
その夜エノケンは、マリーを激しく抱いた。
世界の果てで星と星がその軌道を避けられず正面から
ぶつかって粉々の微粒子を吹き上げて砕け散った。
マリーの白い体がうす暗がりの夜闇の中で甘い仄かな
コスモスの花弁と水に濡れた土から萌え出たばかりの
草の香りとを放ち、この上なくやわらかい感触で
幻の蛇のように動いた。
エノケンは、103才で死ぬときまであれは後にも先にも
味わえない愉悦の幻ではなかったかと思いめぐらした。
あの幻のことを思うと、世の中は極単純なキマリで
成り立っているとエノケンは思った。
長い旅を終えて鮭が最後に一度だけ交尾して死ぬ。
一生に一度味わえるかどうかの星のめぐりを流れて
遠い闇から来て又遠い闇へ去っていく。生とは、
この当たり前過ぎる単純なシステムでできている。
エノケンは、最期のとき岬の病院のベットの上で
ただそのことがぽかんと頭に浮かんで自分も遠い闇
の向こうへ消えていった。
あの弁士大会から一週間もしない内に新宿の顔役
だった正森興行の事務所は、村越マサの森下組のもりした
不動産に看板を架け替えられた。表向きは、歌舞伎町の
賭博で跡目の正森忠男が大負けをして森下組に莫大な
借金をしたということになっていたが、それよりも
正森忠男の息子が割り箸で鼻をつぶされ、東京湾に死体で
浮いた事件が新宿の縄張りと秩序を明渡したことの最大の
要因だったことは、未だに正森家と森下組のマサと
数人しか知らない事実であった。
 そしてあの日。マサの手下たちによって新宿から拉致され、
マリーが消えた。
岡田源蔵ことゲンちゃんがいくら止めてもエノケンの
怒りはおさまらなかった。
何日も品川、京浜運河とエノケンは、歩き回ったがマリー
を入れたドラム缶は見つからなかった。池袋、渋谷の
愚連隊が何人も沈んでいるこの油の浮いた海のどこかに
マリーはいる筈だった。しかし見事に浮いてこなかった。
時間は、忘却の最良の友とはならなかった。むしろ時間は、
エノケンのココロの砂漠をますます広げていくばかりだった。
歌舞伎町が元々都立の女学校があった関係で商業地区
として認可が出るのが戦後七年たってからと遅れたにも
関わらず東口マーケットから流れてくる客が新しくできた
劇場やキャバレーに溢れかえるほど流れてきていた。
新宿キャバレー新世界。これもそのひとつで毎夜歌と
踊りのショーが繰り広げられていた。今宵、ノースリーブ
の煌びやかなドレスの、フランス人形と呼ばれていた歌手・
新宿マルヌが舞台でシャンソンを歌っていた。
客席には、森下組長森下太吉とヒラクチのマサがホステスに
取り囲まれて歌を聴いていた。
中でも森下太吉は、涙ぐんでさえいた。
歌が終わると花束と現ナマを舞台のマルヌに子分に持たせて、
マルヌが受け取ると光り輝く美女に投げキッスをした。
「まったくバカ面だぜ。あのサル。」
 楽屋へ引っ込んできた新宿マルヌは、
だみ声でそう吐き捨てた。
化粧台でドーランを落としていたエノケンがマルヌから
花束を渡されて払い落とした。
「画家さん。いい旦那に好かれたな。羽振がいい
サル組長に。」
マルヌは、苦笑いして花束を拾うと屑籠に投げこんだ。
「ショウバイで付き合ってるんだから。世の中は、
お金よ。オ・カ・ネ!」
美人歌手新宿マルヌは、金髪のカツラをとって
つけ睫毛を外した。喉には喉仏が浮き出ていた。
森下組長が入れあげている新宿マルヌは、男だった。
そして彼は、いつかエノケンを二丁目のバー
「ベンボー亭」の隠し部屋でマサの手下から逃がして
くれた男娼の画家さんだった。
「エノケンさん。昨日フランス座の踊り子が首を
切られて淀橋浄水場に捨てられいたって話聞いた?」
「・・・・・」
エノケンは、さっと血の気がひいて青白くなった。
「ヒラクチのマサの捨てた女だったってさ。」
「なんで自分の入れあげた女をそんな目に?」
「マサは、ココロが引き裂かれてるのよ。好きだった者
に裏切られると憎悪に変わるの。
オセロゲームみたいに。」
「人間じゃねえ。人を平気でつぶせる奴なんか。」
「新宿取り仕切っていた正森の会長が亡くなった夏以来
森下組のマサがのさばって池袋、渋谷まで血しぶき
上げる始末で、全く嫌な町になった・・・」
「許さねえーーー」
「見てくれの悪いサルでも組長の方が未だマシ。
若頭に急に伸上がった奴は、落ちるのも早いよ。」
「・・・・・」
「マリーちゃんだって・・・どこに・・・」
「・・・うるせいっ!」
エノケンは、花束の入った屑籠を思い切り蹴って
ぶるぶる震えだした。
「わるかったわ。エノケンさん。」
「・・・・・・」
「マリーちゃんの情報が入ったら真っ先にエノケンさん
に教えるから・・・」
「・・・おめいも、気をつけな。」
と部屋を出て行った。
新世界の廊下の先には、外階段があって、壁にその張り出した
錆びた鉄の踊り場はすぐ上に客用のトイレの窓があった。
エノケンは、鉄階段の踊り場に出て煙草を吸った。
鳩が一羽飛んで来て踊り場の手すりに止まった。
 新世界の劇場廊下から男たちの声が聞こえてきた。
どけ、どけ!誰も入れるな。
エノケンは、ナイフを出して鳩のくちばしに
近づけた。鳩が一間あって飛びたつと同時に
ナイフの刃先が光った。
エノケンのいる踊り場からトイレの窓が覗けた。
取り巻きのチンピラを廊下に立たせたヒラクチの
マサがトイレに一人で入ってきた。
口笛を吹きながら小便を始めた。
「組長もあんなオカマに入れあげて・・」
と独り言をつぶやくと噛んでいたチューインガムを
ぺっとリノリュウムの床に吐き捨てた。
長いトイレの天井を鳩が入って来てバタバタと
一周すると開いた窓の桟に止まった。
手を洗いに行きかけたマサの顔が強張った。
一瞬鏡に鬼が映った。
振り向くとすぐ後ろにエノケンが立っていたのだ。
「オレは、お前を許さねえ!」
エノケンのナイフがマサの腹をえぐった。
マサは、電球を見上げてもがいた。
「マリーは返さねえよぉー」
と倒れて床をゴキブリのように這いづり回った。
鳩が今度は数羽入ってきて天井を飛び回った。
エノケンは、声にならない叫びを上げて窓へ這い登った。
ヒラクチ蝮のマサは、蛇のようにリノリュウムの床を血で染めて
這いずり回り、大便の便器に顔を突っ込んで呻いた。
大きな鳥がもう一羽窓から入ってきた。カラスだった。
天井では鳩の羽音が聞こえなくなった。
黒いカラスは、倒れたマサの頭に乗って羽を仕舞うと外を見た。
夜は、星もなくネオンの明かりだけが支えのように
すっぽりと街を包んでいた。
エノケンは、新宿を雑踏が途切れるまで走った。
このままどこまでも疲れずに走れそうな気さえした。
やがて戸山ハウスの丘の上で教会の鐘が鳴るのを聞いた。

「今マサを刺してきた。無様に新世界の便所の便器に
顔を突っ込んで動かなくなったぜ。」
「エノケンさん!」
競輪場の自転車整備所でタイヤを入れ替えていた
ゲンちゃんにエノケンは、手招きして耳打ちすると
ゲンちゃんは絶句した。
「おれは、アメリカに行く。横浜のドブイタの知り合いの
アメちゃんにサンフランシスコの劇場を紹介してもらった。」
「戻ってくるの?」
「わからん。」
「いつ行くの。」
「今夜ー」
「嫌だな。こんな東京。好きな人が二人もいなくなるなんて・・」
「いろいろ世話になったな。」
「嫌だな・・オレ・・」
「今度は売れて帰ってくるよ。」
「嫌だな・・エノケンの嘘つき・・・」
「十年のうちにラスベガスでショーをやる。」
「嫌だな・・・嘘ばっかりだもん・・・」
オイルで汚れた顔が幼い少年の駄々をこねるように
みるみる青白く曇っていった。
22才のゲンちゃんは、泣き出した。
 結局羽田空港でエノケンを見送ってもゲンちゃんの
泣き虫は、朝まで涙をとめられなかった。
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