塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

バルサ時代のグアルディオラの胸中を想像する

2016-10-15 20:14:08 | 日記
 ルキノ・ヴィスコンティ監督のヴェニスに死すは、トーマス・マンの原作をもとに製作されています。

 ドイツの老作曲家、アッシェンバッハが避暑で訪れたヴェニスにおいて、まるでギリシャ彫刻を思わせる美貌の少年、タージオ(映画の中ではタージュという発音が近いと遭遇します。

 芸術は芸術家が生み出すものなのか、それとも神によって生まれた瞬間に与えられたものなのか。

 老作曲家はその葛藤の中で、タージオから視線を逃すことができなくなります。

 僕はまだ半分程度しか見ていませんが、考えたことはグアルディオラの事でした。

 彼は戦術や概念を新しい形で生み出すことに関しては芸術家だと思います。

 もし、彼のバルセロナ就任が4年早く、ベルナベウのファンですら拍手を送った、最盛期のロナウジーニョを目前にしたならば、彼はこの生まれながらの天才をどう扱ったでしょうか。

 自分が描く戦術の連動制、機能美こそが美しい(アッシェンバッハの考え)
 神が才能のして先天的に与えた感性(タージオの存在)

 グアルディオラが監督就任した際、ロナウジーニョとデコは

 練習に遅刻し、集中力を欠いている
 カンテラからの昇格を軸に先発を決める

 という方針からすぐにトレードの対象となります。

 グアルディオラにとってロナウジーニョが全盛期でも、放出した可能性はあると思います。

 それは彼を軸に戦術を構成すると他の選手が疲弊するという側面がありますが、機能美という全体の動きは間違いなく失ってしまいますが、メッシはSの才能を個人主義と組織主義。

 この両方で活躍することができると判断したのでしょう。

 イブラヒモビッチとの不和は有名ですが、グアルディオラからすると彼もロナウジーニョと同様、重心が彼にかかってしまうと判断したのかもしれません。
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