塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

傍観と諦観、動くことの大切さ

2017-03-21 16:34:58 | 日記
 日本語には傍観と諦観という言葉があります。

 これは辞書ではなく僕の解釈ですが、前者は何もしないこと、誰かがやってくれるに違いないという、何の根拠もない考え、後者はあきらめて何もせずに見ているだけ、という意味合いと感じます。

 僕には弟が一人いますが、家のことは一切しません。

 彼は僕よりも休日が格段に少なく、労働時間も長い、従って帰宅した際の疲れは尋常ではない、この点は僕も重々承知しています。

 しかし、自分が食べた器を洗う、乾いた洗濯物を自分の分くらいはたたむ、くらいのことはすべきだと思います。

 僕は週休二日制せすから、遊びに出かけず家で「それなり」の事をしますが、家の事、墓参りなとの家庭行事などを

 「お前は長男だから」
 「お前は休みが多いだろう」
 「お前は暇なんだよ」

 という理由で責任を負うことが、アンフェアだと常に思っています。

 何もやらない人間が何も批判されず、自分で考えて行動した人間が、もっと他のやり方でやれよと罵声を浴びる。

 まずは何もしない、傍観なのか諦観なのかわかりませんが、動かない人間が罵声を浴び、次にやっている人間に対して別の方法があればそちらを示唆するべき、と僕はいつも思っています。

 サッカーでもオシムをはじめ、日本代表の監督は

 「走らない人間はいらない」

 と指摘してきました。

 恐らく山口蛍やエンゴロ・カンテはオシムでいう「水を運ぶ人」なのでしょう。

 一方でイブラヒモビッチのように、一見動かないように思える選手も基準点とポスト・ワーク、そしてシュートと味方と自分のために動いている選手もいます。

 イブラと対峙するセンターバックは諦観かもしれませんが、少なくとも傍観していては何の意味もないことは日常でも同様でしょう。
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