塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

自分の口から自分の優秀さを語るなら

2017-11-17 16:40:54 | 日記
 小池百合子氏は自分で「ジャンヌ・ダルク」を名乗ったならば、僕は「それを言っちゃあおしまいよ」だと思います。

 それは自分ではなく、他者田比喩として使って初めて意味を持つためです。

 マイケル・ジョーダンが「バスケットボールの神様」と名乗ったことは一度もありません。

 1986年のプレイオフ、当時絶頂期であったボストン・セルティックス、そしてラリーバードがシカゴ・ブルズの善戦に苦戦した際、バードが

 「あれはマイケル・ジョーダンの姿をした神だ」
 
 と発言したことが発端です。

 バードは1992年の初代ドリームチームの選出され、全米王者に3度輝く名手でしたから、尚の事ジョーダンに対する敬意が大きかったわけです。

 スニーカー好きなら彼とマジック・ジョンソンが愛用したコンバース「ウエポン」が、エアージョーダンを意識していたことはご存知ですよね。

 アイルトン・セナもそうで、当時のF1には、アラン・プロスト、ナイジェル・マンセルにネルソン・ピケと有名ドライバーが数多く存在し、フジテレビが鈴鹿サーキットから日本グランプリを生中継する時代でした。

 セナは今でもF1を語るうえで欠かせませんが、彼が自分で自分を

 「俺こそが最高のF1レーサーさ」

 ということはありませんでした。

 だからこそ事故で他界した際

 1・1994年のワールドカップで優勝したセレソンは、彼の死を悼み傷心のブラジル国民のために奮闘した
 2・彼の人柄、実力は誰もが認めたからこそ、国葬の扱いとなった

 という事実があります。

 ジーコだって自分で「ペレの再来」などと言っていませんし、コビー・ブライアントは類まれな競争心とミスを恐れない気持ちでジョーダンに向かっていきました。

 自分で自分をすごい、褒めたいと冗談や周囲を和ます意味でいうならまだしも、会見でいってはおしまいではないでしょうか。
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