塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

僕が思う責任者の存在意義

2016-10-31 01:18:27 | 日記
 山梨学院大学時代、僕は見ていませんでしたが、新世紀エヴァンゲリオンが爆発的な人気を得ていました。

 僕も中古で単行本を買ってみましたが、その中のせりふに

 「責任者は責任とるためにいるのよ」

 というものがあった、と記憶しています。

 でも僕が思う責任者、上司の存在は

 自分がしたくない、面倒で仕方がないことを目下にやらせる存在
 目下がわからないということに反目するが、自分がわからないことをは平気で「俺わからん」と言う

 ものだと解釈しています。

 簡単に言えば

 サッカー監督や上司は、選手や目下の人間よりも汗をかかねば意味がない
 伝令する前に、まず自分が率先して面倒なことをやれ

 というものです。

 責任者が責任逃れ、チンタラ歩いているのに選手、目下の人間が動くわけないでしょうよ。

 日本に限らず代表監督は自国リーグをくまなく視察し、オシムのように衛星テレビで最先端の試合を鑑賞します。

 今のハリルホジッチ、そしてジーコの時は視察はした、しかし招集される選手はいつも一緒で、あの試合を視察し、感想を述べたことは何なんだということがあります。

 ジダンがカゼミーロを徴用するのは、彼がレアルの誰よりもボールのあるところに馳せ参じるためですが、きっとクロード・マケレレを思い出しているのでしょう。
 
 「クロードがいたおかげで攻撃に専念できた」
 「カゼミーロを見ていると彼を思い出す」

 これはノスタルジーではなく、前線の選手たちから守備のタスクを逃すためですが、責任者でもこれだけ大きな解釈の違いがあることに驚きです。
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