塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

飼い猫と別れる瞬間に感じた事柄

2017-05-14 01:15:34 | 日記
 前回のブログで紹介した雌猫が他界したのは2014年、ワールドカップ終了後の事でした。

 父が僕たちに

 「飯を食わないし、水も飲まない。これは病院に行くべきだな」

 と診察を受けたところ、人間でいうところの末期の状態で余命いくばく、という具合でした。

 飼い猫として4年ということで、僕たちは彼女がそんな年齢を重ねている猫だと思わず、同時に漠然と飼っていたことにそれまで気づかなかったのです。

 病院に赴くと、多くの猫と飼い主が診察を待っているのですが、皆さんしっかり携帯ケースを所有しているのに、僕たちは本当に恥ずかしいのですが、赤のネットに彼女を入れて赴く。

 という具合でした。

 サッカーでいえばホームを間借りしているようなバツの悪さで、僕は母と診察を待ちながら

 「ごめんな、こんな恥ずかしい思いをさせて」
 「もっと早く、お前の病気と年齢に気付いてやれたなら、食事にも気を遣えたのに」

 と語りかけたものです。

 治療薬を投じても、やせ衰えでいくことは目に見えており、僕も両親も別れの時期が訪れていることはすぐにわかりました。

 それでも猫という動物が偉大だと感じたのは、猫は飼い主に死にざまを見せない、無様な姿で別れをしないという点にあります。

 母が驚いた表情で

 「玄関の靴箱の下に身を寄せていてね」
 「自分で死期を悟って、みっともない形だけは晒したくないと思ったんだろうか」

 としみじみ語りましたが、実際はそこでは他界せず、最終的には衰弱の形でしたが。

 フーリガンが暴れるサッカーの光景とは大違いですね。

 僕らは「家畜」「ペット」など、生き物を言葉で区別しがちですが、むしろ彼らの方が命の尊厳と真正面から対峙していると思います。

 サッカーでもカンガルーを皮革の対象から外すべきか同課で議論がありますが、感情的にならずに議論していきたい課題だと感じます。
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